caguirofie

哲学いろいろ

#26

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Alexandria

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十五章a 予備軍の解放のあとは 従って《本史から前史に臨み後史として進む》である)

――ふたたび 《前史》たる少年時代の回想――


例によって引用をつらねます。

・・・宗教的人間をばすべての歴史の出発点である原人であると想定し 自分の想像のなかで生活手段と生活そのものとの現実的生産のかわりに宗教的な空想生産をおく・・・。この歴史観全体は これの解体およびそこからおこる疑惑や心配をもふくめてドイツ人のたんに国民的な関心事であり ドイツにとっての地方的な興味しかもたない。たとえばあの重要な ちかごろいくたびも論じられた問題 そもそも《どうして神の国から人の国へくるか》という問題などはそれである。まるで この《神の国 Gottesreich 》が想像とは別なところにいつか存在したことでもあるかのように。そして博学の先生たちが いまその道をさがしている《人の国 Menschenreich 》に知らずにいつでも 生活してきたのではないかのように。
(1.フォイエルバッハ A・2)

ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

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しかし わたしたちは このような文章が かれマルクスのばあい アマアガリを見出してのち その《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》仕方で すなわち 《神の国から人の国へ来る》やり方で その表現を得ていると言おうとしていると言ったのである。
それは インタスサノヲイスムとしての《コミュニスム》に立って あるいはヤシロの経済的な新しいシステムとしての《ソシアリスム》の視点から これらドイツ・イデオロギを《裁断》したのでは あるまい。《本史》から人間の中へ到来し 人間にちかづいているのであって これを見ても 別の表現として掲げられたかの感のある《前史から本史へ》は 必ずしも かれの方法では 同じく あるまい。
それでは――さらにまた―― やしろの資本連関過程ないしそのシステムが 《前史から本史へ》移行すると言ったのだと見るべきか。しかしこれも そうではあるまい。《本史》はつねに 《神の国・愛の王国》もしくは 不在(不在なものの現在)(その意味での無神論)なのである。人びとは 《知らずに》かどうかを別としても《〈人の国〉にいつでも 生活してきたので》あり かれらが アマアガリをとおして《本史》に立たしめられるなら この同じ《人の国 必然の王国 地上の国》が 《前史から後史へ》衣替えするのである。
マルクスは その後の地点に立って 上のように言ったのである。理論的な内容が 問題なのではなく その拠って立つ方法が そうなのである。それが まず《コミュニスム共同主観(主観共同化過程)》であると人は 知らなければならない。ソシアリスムかキャピタリスムかは ヤシロの政治経済的なシステムの問題であって これに対して 方法は それ以前に人間が生活をしているのと同じように この政治経済的な問題に対しても 理論し実践してゆくが――ゆかざるを得ないが―― その理論体系化は なんらコミュニスムの実践なのではないと知るべきである。
なぜなら 生活が日から日へ変えられつつ進むものであるからのように ヤシロ資本連関は 理論体系化の完成以前に 次つぎと変化してゆくからである。理論が やしろ全体を扱うことはありうるが 全体の議論と体系の理論とは違うのであって 《いま》のヤシロ理論ないし政策が 理論と実践なのであり このことは たとえ政治革命を経ようと経まいと 歴史連続的なコミュニスム実践であると知らなければいけない。
このとき 《そもそも 〈どうして神の国から人の国へ来るか〉》を問題として――いわゆる学問的問題として―― もう一度いうが 学問的問題として アマテラス語理論において論議するやり方・またその議論じたい それは 《わたしより前に来た(自分自身の力でアマガケリした)盗人である》(ヨハネ10:8)と考えられた。《いまその道をさがしている〈人の国〉に 知らずにいつでも 生活してきたのではないかのように》 方法論を論議すべきではない。わたしたちは 方法を そのまま生きつつ滞留してのように 論議しているのである。ウェーバー宗教社会学は この方法論をアマテラス語論議し これにつづく人びとは 《方法者マルクスと方法論者ウェーバー》との二元を立てたのである。これに対して いわゆるマルクシストは この二元論に対抗してのように 〔方法からもたらされたものでしかないマルクスの〕理論を 体系化し再生産するのである。
また 他方で たとえば

これに対して共産主義社会では 各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ 社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし 明日はあれをし 朝には狩りをし 午後には魚をとり 夕には家畜を飼い 食後には批判をすることができるようになり しかも漁師や漁夫や牧人または批判家になることはない。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

というようには――というようには―― 《わたしに触れるな》(ヨハネ20:17)と言われたのである。実際には この文章は 理論なのであるから――《共同主観者の交わりが存在する家について 都市について また世界について》の一理論なのであるから―― 一度 表明されることに さして支障はないであろうが この未来の(時間未所有の)ヤシロ過程にかんする理論的な像というべきことがらは 理論とはいえ 未所有の時間にかんするものであることより 《まだ父のもと(神の国)に昇っていない(ヨハネ20:17)かれ》に触れるといったような形で 類型的にしろ 受け取られがちなものである。そうしてこの《接触》が いわば認識の目標をつくる(三位一体論1・9・18)ことになる。
《わたし(人の子)は――泥棒のように――思いがけない時に来る》(マタイ24:43−44;テサロニケ前書5:2)と言われているのに そのために《目を覚ましている》(マタイ24:42)のはよいことなのに この《泥棒の日》をとやかく詮議すべきなのではない。一度 表明した形態像は それ以上 詮議すべきなのではない。すでに一度見た(回心へみちびかれた・アマアガリが約束された)と言うことはあっても ほらこのように今も見ているというような希望が 希望として存在するであろうか。
けれども これらになお反してのように 今度は あのアマアガリの約束を受けたという革命をもって われわれは すでにアマアガリした者のように 《神の国から人の国へ来る》すなわち《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》やり方で われわれ各自のその表現(行為)を得るのである。まだ自由人・義人ではないのだが――ましてや 神なのではなく また この世ではついに神の御前にあっては義とはされないのだが―― 義人のように 語るのである。後ろ向きに前へ進むのである。

義なる心とは 自分の生活と行状における知識と理性によって各人にその持ち前を配分するものである。(――あの《賢い人》を思え――)

と私が語り そのことを知りつつ語るとき カルタゴ(または 夕鶴つう)のようにいま眼前にない或るものを思惟するのではなく またアレクサンドリア(または 《共産主義社会》)のように或る想像物を実物に一致しようがしまいが やっとのことでつくり上げるのでもなく 私は或る現在するものを認め しかも たとい私自身はそのように認める当のものではなくとも 自分のところで認め 多くの人は私が認めるものを聞くとき同意するであろう。そして私からそのことを聞き 納得して同意をなす人はだれでも かれ自身はたとい自分が認める当のものでなくても 自分自身のもとで私と同じことを認めるのである。だが 義人が義について語るなら かれは自分自身そうであるものを認め かつ語るのである。・・・
(三位一体論8・6・9)

《義・義人》といえば たとえ自分がそうでなくとも 自己の心において 誰もが わかる。
つづけて 《かれ自身も 自分自身のもとでなければ それをどこで認めるであろうか。自分自身のもとでなければ どこで自分を認めるであろうか ということは不思議ではない。しかし 心が他のところでは決して見ないものを自分自身のもとで見ること そして真なるものとして見ること さらに自分自身 心であるが 自分自身のところで見る義なる心ではないこと は不思議なことである。・・・》(三位一体論8・6・9)。
だから もしわたしたちの主張が正しいなら――いや 人間の正しさは 不可変的ではないのだから わたしたちの主張が その意味での前提に立って あれまたはこれとしての真実であるなら―― わたしたちのそのように主張する主観は(それは 主観である) たしかに やしろの資本関係(S者の資本連関)に立って 共同主観であると言ってのように(ただ 客観抽象共同ではない) 主張の発信者も受信者も ともに 《神から人間の中へ到来し 人間に近づく》愛の過程――過程である――の中にあると知らなければいけない。
これは 歴史を捨象したものの言い方のようであるが これゆえに やしろが資本連関として 動態的・歴史的に発進するのであると言おう。この共同主観の過程に歴史が ちょうどむしろ夾雑物のように 介入しているであろうが 夾雑物なる歴史=必然の王国から(と言ってもそれは 愛の王国との国境を分けているのではない) 自由の王国あるいは愛の王国へ上昇もしくは前向きに進むのではなく 愛の王国から 人間の中に到来し いまたしかに寄留している必然の王国に近づき その際 自由の王国といったかたちでも 理論するのである。
また 逆に言うと 実際 本来の人間の歴史は マルクス流に言えば《本史》は それが自由の王国としても形態的・経済的に理論化して捉えられるであろうところの愛の王国すなわち神の国の歴史の中にしかない。《前史から本史へ》ではなく――なぜなら あの《告白》(たとえば唐突に 《聞け わだつみの声》)を通過してしまっているなら すでにともあれ《英霊》として 《本史》に立たしめられている―― 《本史》から《前史》に臨み《後史》をもって 前史を 革命的に転換させて引き継ぐのである。この転換点が たとえばアウグスティヌスの《回心=アマアガリ(その約束)》であったことは言うまでもない。
きけ わだつみのこえ》とは 言うまでもなく 《きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記 (ワイド版岩波文庫)》を集めたものであります。歴史経験の一例として取り上げるものにすぎませんが そのとき やしろ全体主義によって その関係の絶対性が 本質的に顕著に現われ この死を引き受けるというわれわれの譲歩=第一の死が やしろ人の一人ひとりに 及んだと考えられる。そうして《告白》を通過していると考えられる。もちろん かれらの・あるいはわれらの発する《聞け わだつみ(海つ霊)の声》が それ自体 愛の王国なのではない。かれらの・そしてわれらの第一の死が 復活すると宣言するのである。そのアマアガリである。
このことは 理論にすらなじまない信仰(共同主観)の問題であり また この信仰を あたかも従軍記者となってのようにウェーバー流の仕方で A語理論観念的に 捉えることには より一層なじまない。マルクスは 自分自身においてこの《第一の死》が復活したと言ったのであり 問題の究極は これ以外にない。
(つづく→2007-01-19 - caguirofie070119)