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哲学いろいろ

#3

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

The city of Tagaste (Arabic: تجست‎), now the present Souk Ahras (Arabic: سوق أخرس‎) in Algeria, was situated in the northeast highlands of Numidia. It was about sixty miles from Hippo Regius, now called Annaba, and about 150 miles from Carthage on the coast of present day Tunisia. It was the birthplace of St. Augustine of Hippo.

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第二章a 回心つまりアマアガリするスサノヲたちにとって課題は 《アマテラス予備軍(=マニ教徒たち)からの社会(やしろ)の解放》である

――マニ教徒たちの罠が 砕かれ棄てられるということ――

サンクトゥス・アウグスティヌス( Saint Augustine etc. )とは ふつう聖アウグスティヌスと訳されるのですが この《聖別》はむろん 《カトリック教会》によるものです。
まず サンクトゥスとは 《確立する》という動詞の過去分詞ですから わたしたちはここで 回心=アマアガリが《確立された〔人〕》と採るべきだと思います。このことは いわゆる宗教の神が死ぬ前の時代に――つまり 第一章の冒頭に引用した文章にもアウグスティヌス自身 《カトリック教会のふところ》と述べているように 回心を経てこれを告白した人びとが 《教会》を中心として生活していこうと考えていた時代 一般にこのような時代に―― 《カトリック教会》がそのように《聖別》したのだと 歴史的に考えられます。
わたしたちはまず 本質的に アマアガリした者たちの何らかの集団があるとしたなら その教会つまりエクレシア( église )は スサノヲシャフトなるやしろ自体であろうと考えます。(むろん 聖職者から自由な形態のものです。)そこが ふところであるにほかならない。むろんそのような市民社会のことです。さらにまた 神の家(キュリアコン・ church )という意味での教会は スサノヲ圏とアマテラス圏との連関から成る《やしろ》の総体 すなわち社会形態――国家とよばれている――であるというふうに捉えます。

  • すなわち 宗教色が加わる必要はないし 加わってはいけない。信仰は 個人にそれぞれ自由です。

このような意味で そして第一章の問題点を前提として このサンクトゥス・アウグスティヌスなるひとりの人についてここでは 考えようとしています。

  • 制度としてのキリスト教教会が どうなっていくか それは知りません。わかっていることは アウグスティヌス自身も《カトリック(普遍的な)教会のふところ》と言うとき エクレシアないしキュリアコン つまり《アマアガリしたスサノヲらのやしろ関係の動態》のことを言っていたであろうと わたしたちは考えることです。
  • あるいは正当にも と言えるかどうか 《無教会》なるスサノヲらの運動が この日本に起こった。ただ 社会形態の全体が または スサノヲ圏つまり生産態勢と自治態勢とから成る市民社会が わたしたちの考えでは カトリックなるキュリアコンまたはエクレシアであると思われ 《教会》も《無教会》も これら一般的なやしろ関係から派生する組織的な運動であると考えられる。ここではむろん いわゆる教会とも無教会とも別個の立ち場から考えようということになります。

第一章の問題点を前提としてと言いましたが その章で述べたことがらの中から いくつかの主題を取り出して以下に アウグスティヌスに沿って考えておこうという魂胆です。逆に言うと 第一章の命題が ここでの全命題であるということになるはずです。


かれの著書《アウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上)》の第四巻のはじめの部分は 《アウグスティヌスは マニ教に九年間にわたって帰依し 他の人びとを同じ誤謬に誘ったことを恥じる》と要約される内容にかんして述べます。たとえば その《第一章》の冒頭。――

十九から二十八歳にいたる九年間 私たち(――かれの仲間を含めて言っています――)はさまざまな情欲のままに 迷わされながら迷わし だまされながらだましていました。おもてだっては 自由学芸と称されるもろもろの学問を通じ かくれては 宗教の虚名のもとに 前においてはたかぶり 後においては迷信深く しかし そのいずれにおいても私たちはむなしかった。
アウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上) 4・1・1)

わたしたちは この第二章でまず マニ教徒たちとその罠にかんして考察します。また ここに見られるように《学問および宗教》のそれぞれ陥るべきそのアマテラス予備軍性 これが 主題です。
なおこれからの諸章において論議しようとしているそれぞれの主題については その順序に必ずしも体系立てた統一性を与えようとはしていません。筆の運びに随って 物語りを見出していこうと思います。
上の引用文のしばらく後に わたしたちは次のような文章を見出します。ちなみにここでは 《アウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上) 》の書を基礎として進めます。

すくわれるために 神よ まだあなたに打ち倒され 打ち砕かれたことのない気負った人びとは 私を嘲うがよい。・・・
・・・それにしても 強く力ある者たちは 私たちを嘲うがよい。弱く力ない私たちは あなたを讃えよう。
アウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上) 〔この掲げたものではなく 山田晶訳によっています。〕)

アマテラス予備軍である人たちが その精神主義の力によって強く 自己をたかく掲げ 出世間し 罪(スサノヲ性による時間的な欲望のかたむき)を自治する。このアマテラス性としての主導・支配の律法 逆にそこからのスサノヲの自立と共同自治のための律法 つまり人間の知恵なる道徳と法律が 《神すなわち神の律法によって すくわれるために また 自分たちの掲げる自由に潜む虚偽が明かされるために まだ 打ち倒されていない 神の愛によって焼き尽くされていない 打ち砕かれていない》というのです。この律法主義 アマテラス語弁論術のわなから脱出するためには または 抜け出したあとでは 《かれらは その強き精神主義に立たない弱いわれわれを 嘲笑うがよい》という言葉を見出すというのです。
《あなたを讃えよう》と言って 回心を敢行した人びとは 現代では この回心の模様それ自体を語るのではなく このアマアガリの後の地点に立って その余のもろもろの社会的な問題に対して 発言していこうと言っているようであります。なぜなら 《宗教の神は もはや死んだ》から――そのように現代人は 《告白》をすでに通過したから――直接《あなた(神)》を宣揚するのではなく 《あなた》によって得た偽のではないアマアガリの平安をとおして 自己の主観を 主体をこそ 顕揚しようとさえ。
それでは なぜ強きアマテラス予備軍たちは 弱きわれわれを嘲笑うがよいと言いうるか。なぜ マニ教徒たちの学と教えとが もっぱらのアマテラスたちの思惟・内省=行為・生産の形式に通じるのか。その根拠は何か。
かれらは 神でないものを神としている。自己でないものを自己としている。スサノヲが 自己の精神なるアマテラス性のみによって アマアガリしている。これゆえだと思います。

しかしあなたは 魂(精神の力)でもありません。魂(アマテラス者性)は身体(スサノヲ者性)にとって生命であり だから身体の生命は身体にくらべるともっと善く 確実な実在性を有していますが あなたはその魂でもありません。――そうではなくて あなたこそは もろもろの魂の生命であり もろもろの生命の生命であり ご自身によって生きながら 変わりたまうことなく 私の魂の生命なのです。
(告白 3・6・10)

ところが 

マニ教は ペルシャのマニ(215−c.275)の創始した宗教であるが その起源ははるかに古く ゾロアスター教(前七世紀)に由来する。本来 光と闇との二元論を説く宗教である。
世界は 光と闇との対立抗争する場である。世の終わりには光が闇を征服するが それまで両者の対立はつづく。すべて善いもの 精神的なもの(A者性)は 光に属し すべて悪いもの 物質的なもの(S者性)は 闇に属する。魂が肉体のうちにあるのは 光が闇のうちにある状態(《世間》)だ。人間のすべての悲惨は 人間のこの状態に由来する。だから人間によって救済される(《出世間》)とは 内なる光である魂(アマテラス者性・その律法)が 肉体(スサノヲ者性)から救い出されることである。・・・
山田晶:教父アウグスティヌスと《告白》)

と説いてゆくやり方に立っていると言える。これが アマテラス予備軍の考えるアマアガリのやり方と異なるとは言えない。いや その同じものなのであり 罠はここから繰り出されるのである。
《二元論》が 問題なのではあるまいか。
ここで 問題は 《光と闇 善と悪 A者性とS者性 すなわち アダムとエワの食べた善悪を知る木の実(つまり その食べるという行為の結果の善と悪)》の二元論にあると考えられる。あたかも 労働の二重性――抽象的人間的労働(A者性)と具体的有用的労働(S者性)の――と言うように。もちろん この最後の例のばあいは 二元《論》に立つのではない。
もっとも もちろんここでは このテーマを 哲学的な問題として解こうということが目的ではなく――次のように言うことは よりいっそう哲学的になると一見みえようとも―― この《光と闇 善と悪 精神と身体》との二元性に立つときには そして それぞれ前者が 神もしくは自己の存在の根源であると考えるときには それは 神でもないものを神としているという 当然といえば当然の ごく単純な議論が それなのである。



神は
――光あれ。
と言われた。すると光があった。神はその光を見て 良しとされた。神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ 闇を夜と名づけられた。夕となり また朝となった。第一日である。
(創世記 1:3−5)

ここでは 一見すると 二元論に立っているようである。《〈光あれ〉と言った》あと 《光があった》が この光を まずはじめの全体としてそれを 小区分するというように 《光と闇とに分けた》とは書いてなく 《その光と闇とを分けた》と書いてある。
また 論理上の素朴な疑問としては はじめの光が在る前には 何があったのか なかったのか あるいは のちに光とに分けられるところの《闇》のようなものが あったのではないか などなど推理が浮かび 及ぶかに思われる。この疑問には ここで深入りしないが(無からの有の創造 あるいは 自然発生説など) 上の創世記のしるす観想からは 次のようにわたしたちは論議することができる。そしてそれは 二元論ではないだろう。
つまり 《はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく むなしく 闇が淵のおもてにあり 神の霊が水のおもてをおおっていた》(1:1−2)あと 《〈光あれ〉と言われて 光があった》(1:3)のだが 《昼と名づけられた光と 夜と名づけられた闇》の世界の中で 時間(有)は――つまりまだ 人間はと言わなくとも 世界の時間は―― 《夕となり また朝となった》のであって どこにも《夜となった》とは書いてないことが 議論の一つの焦点なのである。(この趣旨については アウグスティヌス神の国について》11・7などを参照。アウグスティヌス著作集〈第11巻〉神の国 (1980年)
《光と闇とを分けられ 闇を夜と名づけられた》のだが また この光の在る前にも 《闇が〔混沌たる〕淵のおもてにあった》のだが 《光があって》からは 《夕となり また朝となった》のであって この《第一日》に限らず 《第六日》までをとおして どこにも《夜があった》とは書いてない。ここには 《世の終わりには光が闇を征服するが それまで両者の対立はつづく》というマニケイスム( manichéisme )流の終末論は ない。《夕となり 〈夜があって〉 また朝となる》ところの二元論からは 無縁であると言わなければならない。
《光が昼と名づけられ 闇が夜と名づけられる》ことと――そしてそのあとには 神はこれを見て良しとされたとは 書いてない―― 《昼が(または 名づけられたことに従うと 昼と夜との世界の中で) 夕となり 夜とはならずに また朝となる》こととは 本質的に(=存在として)それぞれ異なった視点から しかし同じ一つの世界の内容を言ったものであるだろう。つまり両者は 互いに両立しないわけではない。《昼と名づけられるべき光と 夜と名づけられるべき闇とを分けられた》から 《昼が夕となり 〈夜をとおって〉のみ 次の朝となる》ということにはならない。《善悪を知る木から採って食べた》その人間の知恵なる光は 一般に通念としても言われるように 《昼の光》ではなく 《夕》のそれ・または 薄暮のものであるだろう。(人間は 天使でも獣でもなく その中間的な存在だというふうな通念)。だからと言って それが ことごとく《夜》に渡されるということにはならない。
《夕となり また朝があった。第一日。 / 第二日 / 第三日 /・・・/ 第六日 / そして神の休みたまう第七日》(創世記1:1−2:4)なのである。これは 時間的存在たる人間の生 その行為過程のことでもあると 本質的に 捉えることができる問題ではないだろうか。だが どういうことか。
《神は死んだ》と言っておきながらではあるものの 神という言葉をこの点にかんしては用いるなら このことは 《神のあわれみの佑助により》(《二つの魂について》) 人はよく為しうるのである。夕となり 夜へは渡されずに 次の朝を迎える。
(つづく→2006-12-27 - caguirofie061227)