caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十一章a アマテラス語弁論術は かつて達せられたことのない段階に到達した

――アウグスティヌス 現在の自己を省察する――


私を知りたまう者よ 御身(おんみ)を知らしめたまえ。私が御身に知られているように 御身を私に知らしめたまえ。・・・
(告白10・1・1)

《第一ないし第九巻で過去の告白は終わり 第十巻はヒッポの司教アウグスティヌスの現在の省察であ》(山田晶)り 上のように始められている。言うなれば わたしたちは このアウグスティヌスに逆らってでも この《現在》の地点から かれにかんする小説を書くことに着手したのだった。(もっとも このかれ自身も 《現在》の地点から《過去の告白》をしていることは言うまでもない)。

わが魂よ 魂のうちにはいれ。この魂を御身にふさわしきものとなし 御身が汚れなく皺なく保ちうるようにせよ。それこそはわが希望(のぞみ)。そのためにこそ私は語り すこやかなよろこびをもってよろこぶとき 私はいつもその希望においてよろこぶ。これに反しこの世の他のすべてのものは 嘆くほど ますます嘆くに値しないものとなり 逆に 嘆かないならば ますます嘆かわしいものとなる。
(告白10・1・1)

最後の一文が 神の国(もしくは わたしたち)の地上の国への寄留のかたちを表わし 必然の王国に対する処し方を――それは 後ろ向きの前進である―― になっている。ここから 自由の王国などといった理論も打ち出されてくるかどうかは その後ろ向きの前進なる実践(愛)の付随的な出来事である。なぜなら 《みな理論家だろうか みなが学者だろうか》であるから。
また 実践の中のこの理論には この共同主観の自己の肯定的な(自己措定的な)正面からのそれと この自己形成を阻む諸理論を批判するそれとを 含む。批判的な理論の最大の対象とするところは 共同主観すなわち自己の 滞留的な了解ではなく停滞的な知解(《つう》の美に 動態はない)としてのアマテラス予備軍のそれである。言いかえると 即自的かつ対自的な(主観的かつ客観主観的な)了解ではなく 客観アマテラス語的つまり 対自的のみの知解から成る理論。
もっともこの《対自的》というときの《自己》は ただA語精神におけるそれであって このような理論が ほんとうに理論であるのかどうか さだかではない。もし つうが 自己としても即自的に《つう》であったとしたなら かのじょは 自己の身体を空気のようなものとして つまり初めからそう決めてかかって 生きている。そのばあいは 《熱心なカトリック信者》である。この《カトリック》とは 一個のナシオナリスム共同観念の普遍的停滞に対抗する精神普遍的な観念宗教でありうる。スサノヲは ナシオナリスムA圏支配体制の停滞的な普遍性に 譲歩しつつ 動態的に 俟ったのである。もちろん その意味で 熱心な信徒 スサノヲイストつまり自己であった。
《必然の王国の流れに対しては 嘆くほど ますます嘆くに値しないものとなる》からと言って 《嘆かない》なら そこに共同主観(生活)に誤謬が生じる。しかし 《嘆かないならば ますます嘆かわしいものとなる》からと言って 《あせって嘆く》なら 別の種類の誤謬が生じる。前者の誤謬に対してわたしたちが寛容でいることは 比較的たやすい。問題は 後者にあって この《禁欲の精神》は ついに共同主観の原理(神の律法)にたとい小部分であっても触れうるまでに アマガケリし 膨大な知識を持って これに処してくることになる。
このように膨れ上がったアマテラス語客観理論は 《ついに人間性の達しうる最高の段階に到達したと自惚れ》 ――これだけなら まだよいのだが――時に その精神主義・人間の律法主義というこの非が明らかになったとしても 自己の主張を訂正しまいとする。なぜなら 客観アマテラス語においては その理論的に 言うべき主張を持っているからだ。つうは アマガケリし ほんとうに天に去って行くまでに 熱心だったのである。もっともこれを説く――つまりあたかもキリスト・イエスの像を見出してのように これらをいろんな形で説こうとする――アマテラス予備軍は つうがすでに模範であるから このキリスト像を自己の踏み台として 自分の熱心さを この世で 保守しうる。死ぬまでかたくなでいることが出来る。
これが ウェーバー流の 共同主観(かれは《宗教》と言う)をも理論化する価値自由的な社会科学のやり方だ。マルクスは 共同主観そのもに立つ理論家であった。そのことにおいて マルクスは このウェーバー流の方法を 批判していたはずであるが また 具体的にこれを ヘーゲルフォイエルバッハへの批判として 明らかにしていったはずであるが ヘーゲルフォイエルバッハは あたかもマルクス以前の〔一面的には〕アマテラス予備軍であったと考えられるというほどに ウェーバーが マルクス以後のそれとなった。なりえた。われわれはこれをも批判して進むべきである。原理的に批判が終わった(死のとげが取り除かれた)ことと それをなお実践する(とげの患部が癒されてゆく)こととは 別であるから。
一般に ウェーバー社会科学は マルクスの理論の基底にある共同主観(われわれはキリスト史観と言う)をも 明らかにしようとした。マルクスがそれを明らかにしていなかったのではなく ウェーバー流(ないしヘーゲルフォイエルバッハ流)のキリスト史観把握を嫌い かつこの嫌うことじたいをまず明らかにしていなければならなかった。ウェーバーは そこで ヘーゲルないしフォイエルバッハ流に なおこの共同主観を把握しようと試みた。方法の問題は ヨーロッパにおいて このような変遷をたどっていると考える。ヨーロッパの一般市民の中のインタスサノヲイスト あるいは一般に アジアのインタスサノヲイストは これを 理論的に明らかなかたちで持っていなかったとは言えるし その日常生活の中で そのまま 実践していたとも言いうる。
そこで 《わが希望に反しこの世の他のすべてのものは 嘆くほど ますます嘆くに値しないものとなり 逆に 嘆かないならば ますます嘆かわしいものとなる》という共同主観を この系譜に沿って 必要と見なされる限りで 明らかにして進もうというのが 現代のわたしたちの 方法としての課題である。なぜなら スサノヲ者の共同主観を すでに現代のA者予備軍は先取りしてしまっており したがって 日常生活の中でただ実践しているだけでは このA者予備軍のやしろにおける解放のためには 不十分である。
しかしたとえば次のフォイエルバッハの文章が このアウグスティヌスの共同主観からほど遠いものであるとは考えられず また実際 むしろ後のウェーバーの方法をも批判し得ているとさえ考えられる。

しかしわれわれの時代においては 真理(共同主観の原理)はただ不道徳性であるばかりではない。

  • 道徳的な《つう》に逆らうことは 不道徳性をあらわすと 共同に観念される。しかしそれだけではなく

真理はまた非学問性なのである。

  • スサノヲの共同主観をただ日常生活で実践していることは まことに非学問的だとさえ 見られるようになった。関与不可能者が そこまでわれわれに 甘えてくるのである。わたしたちは この甘えを無視してもよいが 無関心でいるわけにはいかない。つまり ただ日常生活での動態的な《俟(ま)ち》に俟つことはできないと考えられた。

すなわち真理は学問のはて( Grenze )なのである。

  • すなわち ただ俟つだけでは 生活してゆくことも出来なくなった。それだけ学問・A語客観信実のはてにまで追いやられた。

ちょうど ドイツのライン河の航行の自由が《海に至るまで jusqu'à la mer 》のびているにすぎないのである。学問が真理に到達し真理になるところでは 学問は学問であることをやめ

  • 《我れ欺かれるなら 欺かれてさえ俟つなら 我れあり》のアマアガリするS者の真実。このような愛の訓練 disciplina。このように《学問が真理に到達し真理になるところでは 学問は学問であることをやめ》と言っていると読める。
  • 言いかえると 《我れ考えるゆえに 我れあり》のA語真実の知解 scientia の学が 代わって優勢となり

警察の対象になる。

  • 罪の共同自治の一手段としての警察は この一般的となったA語客観真実の観念的な共同性〔なる学問・科学〕に従わない者を 取り締まる。以下 註解は止めよう。

すなわち警察が真理と学問との間の境界なのである。真理であるのは人間であって 《抽象的理性 Vernunft in abstracto 》ではない。また真理であるのは生命であって 紙の上に止まっている思想・自分にふさわしい全実存を紙の上にもっている思想ではない。それ故に 直接に筆から血へ移行し理性から人間へ移行する思想はもはやなんら学問的な真理ではない。
学問とは本質的に単に怠惰な理性がもっているところの害にはならないがしかしまた役にも立たない遊び道具にすぎない。学問とは単に 生活や人間のためにはどうでもよい事物を取り扱うものにすぎない。または学問は そうだどうでもよいものでない事物に従事はするが しかしそれにもかかわらずつまらないどうでもよい仕事であって 人間は誰もそのために気を使わないのである。それ故に今は 頭脳は途方にくれており 心臓は主義ももたないというのが かんたんにいえば無性格が 真正の推奨すべき純粋な学者に必要な特性なのである。・・・
フォイエルバッハキリスト教の本質 (上) (岩波文庫) 第二版への序言 1843)

かれは 真理を敵視しているが それにもかかわらず われわれの側としての真理を奉ずる立ち場と 内容において ほとんど違いはないことを読み取ることができるはずである。
したがって 

まこと 御身(真理)よ あなたは〔人間の〕真実を愛したまう。真実を行なう者こそは 光のもとに来る。私はその真実をつくしたい。心の中では御前(みまえ)でこの告白により 多くの証人の前ではこの記録によって 私は真実をつくしたい。
(告白10・1・1)

という真実 すなわち《人間が真理を分有する(アマアガリ者になる)》ということを マルクスはそのまま実践し これをフォイエルバッハとは違って スサノヲ圏の歴史(もしくはその研究)に問い求めて行った。《真理》の問い求め かれへの問いかけ あるいは告白はこれを表現しなかったのである。これに対して ウェーバーは この真理を《学問の果て》に存在させることなく たしかにそうさせることなく 問い求めようとした。
けれども かれウェーバーは これを《かんたんにいえば無性格》となって――なぜなら 《禁欲の精神》あるいは《つう》のイメージまたは美は ありもしない存在に立脚しようとしており 全体として捉えて 人間そのものとは違うと言わなければならない―― 理論した。マルクスが 主観的に共同主観を実践したのに反して 言いかえると 《真理を分有するアマアガリ者》となってその理論化を問い求めたのに対して ウェーバーはこの《アマアガリ》を不問に付した。もしくは アマアガリを《学問》的に《無性格》となって 把握した。自己の・主観のアマアガリではなく 客観の・アマテラス語におけるそれを 明らかにした。マルクスもしくはスサノヲは 実際のアマテラス圏に対して 譲歩をしたのであるが――そうして自己のおよびアマテラス者のアマアガリの確立を俟ったのであるが―― ウェーバーは さらに一歩引いて この生きたアマアガリに対して 譲歩したのである。必然の王国に対して あせって嘆いたのである。



フォイエルバッハは嘆かないことはなく また あせって嘆くこともなく その道を なおアマテラス語を用いつつだが 方法として示した。《警察の対象となる》ところに 真理が存在することになったりし かつこの真理は アマアガリするスサノヲ者にとって 自己が・主観が 分有しうる力であることを 警察の対象になることを辞さずに 示そうとした。ところが ウェーバー
(つづく→2007-01-11 - caguirofie07011)