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哲学いろいろ


第一部 インタスサノヲイスム(連帯)
第一章 《回心》=《アマアガリ
――アウグスティヌス 完全に回心する――

神のあわれみの佑助により マニ教徒たちのわなが砕かれ棄てられて 遂にカトリック教会のふところに立ち帰ったわたしは 今やっと少なくともあの当時のわたしのみじめさをじっくりと眺め嘆くことができるようになりました。
《二つの魂について》冒頭 391−392年 アウグスティヌス著作集 第7巻 マニ教駁論集

アウグスティヌスは心が このようにして内へ向き変えらせられた。むろんそれは 生まれたときからの身体の運動としてである。
この文章は あまりにも信心深くて 古臭い。

わたしの周囲の人びと 世の中の偉い人たちが 《賢くあれ》と言ってわたしに説いて聞かせたが そしてそれは 色と金の世の中をよく知っておとなになれということのようであったが わたしはむしろ かれらの言う《賢さ》から自由に振る舞っており やはりむしろ愚かでいたところ かれらの《金と色を支配し主体的に生きる》という人間的な論法で言う知恵のわなをいつしか抜け出し かれら以上におとなになるという平安を得た。愚か者の社会的なコンプレックス 自己嫌悪 孤独 また 何やかやを たしかに微笑ましいわたしの過去の死者として ながめる地点につれて来られた。

こう言っているかも知れない。
《みじめさ》とは 金と色の世の中を嘆かないことである。また これを あせって嘆くことである。後者のみじめさは 前者の惨めさを俗物として非難し この俗物とされた人びとから 自分たち自身 俗物とみなされないようにと あたかも空気のような身体をもって 金と色の法則の支配する世界から みづからの力によって《出世間》する人びとである。
これが 《マニ教徒》である。賢いおとなであることを自負するアマテラス予備軍のことである。
肉と物とから成る世界である《世間》は 人間のスサノヲの部分である。同じく人間の精神であるアマテラスの部分を見出した人びとは そのスサノヲである身体を 放棄し 放棄したと見せかけ この精神によって 身体を空気のような雲の上の存在と為して アマテラスと成る。アマアガリする。この精神によって雲の上へと出世間する。善悪を知る木から実を採って食べて 賢い大人になるからである。
このりんごの木から食べるなら きみは神のようにかしこくなるであろうと あの蛇がささやいたと言う。これが マニ教徒たち(マニケイスト)の すなわち 一般にアマテラス予備軍たちの《わな》だと考えられた。


はじめの《世間》 すなわちスサノヲたちの世界を スサノヲ圏( Susanowoschaft )とするならば ここからアマアガリama-agari =出世間= lokottara )した人びとの《心をひとつにして》築き上げたもうひとつの世界は アマテラス圏( Amaterasutum )なのだ。
金と色との支配を抜け出し 賢く大人になったかれらアマテラスらは なるほど肉欲と物神崇拝の支配から自由であり かつそのような精神的=アマテラス的な人間の知恵という支配欲によって支配されており この世界に棲息することが 人間の《出世間=覚醒=大悟》であると考えている。
これにつづく人びとは その賢さのわなを 学者となり教育者となりまた評論家となって 到るところに張りめぐらす。産業予備軍を招致するかのように アマテラス支配主体が かれらを求め招致したもののようである。
これが 《アマテラスとスサノヲ》の分離しかつ逆立して連関する社会(やしろ)の構造だと思われる。
経済的な社会(やしろ)構造――とその知解科学つまり経済学――は このやしろの意志の科学(つまり政治)によって 用いられる。なぜなら アマテラスは 一人ひとりが その《アマテラス性(精神)とスサノヲ性(身体)》とが 転倒して連関しあっている主体的な存在であり 《かには 自分の甲羅に似せてみづからの穴を掘る》からである。
アマアガリして金と色の世界から自由になった人びとは その自分の精神によって自己形成し 公民(アマテラス主体)として道徳的・倫理的となり――なぜなら かれらは アマテラス語弁論術をよく心得ており これを洗練し―― ますます人間的となったところで その自らの空気のような身体を嘆く。なぜなら 雲の上のアマテラス圏になお存続して生息しようと思うなら 自己のその精神主義・律法(道徳)主義を維持しなければならず  そのためには 自己の棲息するアマテラストゥームを 社会全体の中での主導的・支配的な位置を保持するものとして 保守しなければならず そのような支配欲の熱望に支配されていることを 自分自身ますます人間的となれば人間的となるほど 見出さなければならないからである。
かつてそこから取ってその実を食べた善悪を知る木・そしてその律法(法律)が そのような《賢さ》の代償を指し示した模様である。人間の中に 精神を見出して このアマテラス性に仕えるがごとくして このアマテラス性のみによって 自己をアマアガリさせた人びとは いよいよ賢くなり ますます人間的となったところで 自己の墓穴を掘っていたことに気づく。
ここから内へ向き直らされて かつてのアマアガリは 偽りのアマアガリであったと知るか あるいは かつて自分があれほど忌み嫌っていた《俗物》の世界に みづからの力で アマクダリして 金と色の世界の王者となるかは 人それぞれに自由であると考えられた。しかしこれら もっぱらのアマテラス者たちが その精神主義的なアマアガリは 偽りの自由であったと知ることは 社会にとって有益なことだ。おそらく 本人にとっても有益なことであろう。
確かに精神は 身体より一層すぐれており 人間の知恵もそれ自体 有益であり また律法はそれ自体 ただしい。また そうであるがゆえに 人間の自由へのアマアガリにもし虚偽があったなら そのことを 精神と人間の知恵と律法とは 気づかせてくれた。
アウグスティヌスが 《神のあわれみの佑助により マニ教徒たちのわなが砕かれ棄てられて 遂に平安すなわち 真の自由なるアマアガリを見出した》というのは このことだと考えられた。このスサノヲの真正のそして新生のアマテラス化( amatérasisation de Susanowos )であるあのアウグスティヌスの《回心》は これであったと思う。

マニ教徒たちのわなに取り憑かれていたアウグスティヌスは そのアマテラス予備軍の一人である自分の《みじめさ》を了解しつつあり これを《醜いわたし》と言って あの《追い詰められた弱い者のためいき》をついて 言った。

――いったい いつまで いつまで あした また あしたなのでしょう。どうして いま でないのでしょう。なぜ いまこのときに 醜い私が終わらないのでしょう。

アウグスティヌス著作集 (第5巻 1) 告白録 (上) 8・12・28)

《私はこう言いながら 心を打ち砕かれ ひどく苦い悔恨の涙にくれて泣いていました》( ibid 8・12・29)と続けて 《回心》のもようを自ら語っている。

・・・すると どうでしょう。隣りの家から くりかえしうたうような調子で 少年か少女か知りませんが
――とれ よめ。取れ 読め。
という声が聞こえてきたのです。
( ibid. 8・12・29)

ここで 《瞬間 顔色を変えて》思案したあと かれが 取って読んだことばが――これも 取りようによっては 古臭いのだが――

宴楽と泥酔 好色と淫乱 争いと嫉みとをすてよ。主イエス・キリストを着よ。肉欲をみたすことに心をむけるな。
(ローマ人への手紙 ) 13:13−14)

であったというわけですが また この言葉は たしかに 金と色の世間とそこからのアマアガリである出世間との問題に触れていたわけなのですが 問題は 必ずしもこの文字じたいにはないと言わなければならないと思う。また あのためいきを癒すアヘンにではないと考えられた。

・・・子どもたちがふつう何か遊戯をするさいに そういった文句をうたうものであろうかと 一心に考えはじめ・・・けれどもどこかでそんな歌を聞いたおぼえは全然ない。
( ibid. 8・12・29)

と気づき 次の瞬間 

私はどっとあふれでる涙をおさえて立ちあがりました。
(承前)

というこの物語りにも 問題はないと言わなければならないであろう。問題は この回心が 理性的に知解されて来なければならない。たとえもし ここで瞬間のうちに 神のことばが すなわち譬えて言ってみれば 必然の王国(金と色との世間)からの自由の王国が 理性をも超えて 見出されたとしたとしても かれは ただちにこの真理から はじき返されてのように この身心の展開を 理性的に知解し 人間の知恵のことばで(やしろの中において) 了解していなければならないはずである。精神主義的にではなく 心の回転といっても 身体の運動として・可感的な了解として捉える必要があろう。問題はここにあると考えなければいけない。

私はそれ以上 読もうとは思わず その必要もありませんでした。というのは この節を読み終わった瞬間 いわば安心の光とでもいったものが 心の中にそそぎこまれてきて すべての疑いの闇は消え失せてしまったからです。
(8・12・29)

身体のそして精神の《カトリック教会(エクレシアつまり スサノヲ圏の宗教自由のやしろ と読め)のふところへの立ち帰り》を あらわして行かなければいけない。
つまり あらかじめ先走って言うとすれば 真正のアマアガリは 社会・やしろにかんする科学 わたしたちがのちに言うところのヤシロロジの観点と 同時一体でなくてはならないと考える。
ところが この《回心》の認識・表現は そのものとして 不可能である。それは 身体も可感的に了解する たしかに了解しうる――なぜなら 落涙は 身体の運動である――ものであれば 表現可能だと思われもするが おそらくむしろそうでもあるがゆえに この心の転回じたいの表現(=外化=疎外)は 人間にとって 不可能であろう。
精神のみの旋回のような動きであれば むしろ乱暴に言えば いかようにも――いわゆる神秘的に――表現を追及することも可能であるかも知れない。けれども ほんとうに身体の運動をも伴なって起こった回心については 回心後の自己表現について 捉えていくしかないのではないか。
だから人は この心の内へ向き変えられたあとの自己に立って その余の《精神および身体の現象》を つまり一般に人間の社会的なことがらを 捉え見て知解し 主体的にこれらをこそ表現する。
わたしは したがって 言葉としては《無神論》を標榜したあのカール・マルクスも あるいは いわゆる《無宗教》と名のるわたしたち日本人も この《回心》を経ていないとは言えないと言おうとしている。俗に《神は死んだ》と言われるゆえにであれば いまのことは言えると思う。また このいわゆる信仰の時間的な生起――またはその確立への出発点――である回心を 精神主義的に《アヘン宗教》へと連れていく賢い人びとは 別種のアマテラス予備軍でありマニ教徒のごとくであり このことは すでに現代では十分 明白になっている。
わたしたちは すでに《告白》を通過している こう言おう。したがって《告白》は生きているとも言える。
予めながら この議論でわたしがあやまったなら どうかその間違いを指摘する労をとって 議論を前へ進められたし。