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哲学いろいろ

#21

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Saint Augustin dictant un texte à un clerc, Homéliaire d’Eginon (Codex Egino), fin 7e siècle, Bibliothèque nationale, Berlin

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十二章b アマテラス予備軍が解放される

――アウグスティヌス ついに真理にしたがって アマアガリする――

ですから主よ 私がどのような者であるにせよ この私はあなたにとってまったくあきらかです。では何のためにあなたに告白するのかと いま私は言いました。じっさい私はこの告白を 肉のことばや音声と思いのさけび声によって するのであり それをあなたの耳はお聞きになります。自分が悪いとき あなたに告白することは その私が自分自身に気にいらないということにほかなりません。これに反し 自分が敬虔であるとき あなたに告白することは 自分の敬虔を自分の功に帰さないということにほかなりません。なぜなら主よ あなたは義人を祝福なさいますが それよりも前にまずあなたは 不敬虔であったその人を義となしたまうのですから。
(告白10・2・2)

したがって アマテラス予備軍のヤシロ的な解放 つまりわれわれにとっては わたしたち自身のアマアガリの確立(現世的な確立)は 次のような道程をとおって 為されます。

まだごくわづかな光が 人びとのうちには残っている。歩め 歩め 暗闇に追いつかれないように。
それなのに 真理はなぜにくしみを生むのでしょうか。

しかし おかし難い真理愛と決然とした性格とをもっている学者・まさにそのために一撃で急所をつく学者・害悪を根こそぎにしたえず危機や決定的瞬間を引き起こす学者――こういう学者はもはやなんら学者ではない。どうしてかれは学者なものか!
フォイエルバッハ 前章参照)

という《憎しみをなぜ生むでしょうか》。

真理を述べ伝える《あなたの人》がかれらの敵となったのはなぜでしょうか。人びとは至福の生を愛し しかもそれは 真理から生ずるよろこびにほかならないというのに。
それはまさしく次の理由によるのです。かれらは真理を愛しますが すべてまことの真理以外のものを愛する人びとは 自分の愛するものが真理であることを欲するという仕方で愛します。(そのようにして 資本関係を結びます)。そして欺かれるのをいとうあまり 自分のまちがっていることを説得されたくありません。そこでかれらは 自分たちが真理だと思って愛しているもののゆえに かえって真理をにくむようになるのです。
かれらは真理の輝きを愛しますが 真理が自分を咎めるとき これを憎みます。かれらは欺かれたくありませんが欺くことは好きですから。真理が 〔アマテラス語客観において〕真理自身をあらわすときは愛しますが 真理がかれら自身を〔そのスサノヲ語そのものにおいてのように――なぜなら《神は死んだ者の神ではなく 生きている者の神である》(マタイ22:32)から―― 暴露するときには 憎むのです。
そこで真理はかれらに対し こういう仕方で返報するでしょう。すなわち 真理によって暴露されるのを嫌っているかれらを 意に反して暴露するとともに 真理自身はその姿をかれらの前にあらわさないという仕方で。
(告白10・23・33−34)

つづけて 《まったくもって人間の心というものは こんなものです。こんなにも目が見えず よぼよぼして醜く 下劣であり いつもこそこそを身をかくしたがるくせに しかも自分の前に何かがかくれていることが我慢ならないという代物(しろもの)なのです。ところがかれはその反対の返報をうけて 自分を真理の前に(やしろの日常生活関係の中で ちょうどムライスムなる共同情感の眼の前に)隠しえず しかも真理は自分の前にかくれるという結果になります》(承前)という仕方で。
だから 今度は逆に アマテラス予備軍なる《学者》の虚偽が あらわにされ 共同情感なるムライスムの眼の前に可感的にも――つまり理論化の以前として素朴なかたちででも――明らかにされ この欠陥が憎まれ やしろの資本関係の中で 《さらし首台上》に登らしめられるという仕方で。あの真理愛の学者をムラハチブとしたその報復が そっくりそのままこれらの《学者》たちに与えられるのです。経験的にも やがてそれが現われるでしょう。関係の絶対性として やしろ資本(愛)が推移していると信じられる以上は。(《さらし首台上》などにかんして 文字どおりに推移するという意味ではありません)。
《自分を真理の前に隠しえず しかも真理は自分の前に隠れるというこの結果》は いわゆる死にたいと思っても 死が死なないというあの第二の死(ヨハネ黙示録20:14)です。われわれは この第二の死を避けるために アマアガリを俟ちつつ 死を引き受けるという第一の死にみちびかれていたのだと解さなければいけない。スサノヲの譲歩(死)は ここで 復活してくるのです。死が死なないのなら まだ 身体をさいなまれつつも この地上に生きているのだぞと――憎まれっ子も世にはばかるのだぞと(ただしこれは S圏の第一次的な現実としては 現実である それをA圏第二次仮象現実として 長く放っておくことは 或る意味でゆるされていない。上の第一次現実を そのように先取りされたままだと その現実が 現実でなくなるから)―― そのような《長寿》の享受をもって アマアガリの効用を説くのが アマテラス予備軍にほかならなかったわけです。
これをもって 《生ける死》または《死せる生》と規定することは易しいが そう規定(A語規定)しても始まらないほど かれらは このA語客観性ということの何たるか(その限界と虚偽)をむしろかれら自身 よく知っている。この精神が高揚しつつかつ弛緩している人びとの病い これらの人びとの富のあるいはむしろ知の私有財産制 これを積極的にしようとしていく過程が 共同主観(常識)として われわれには与えられ このように向きを変えられてのように やしろの資本再生産がおこなわれていく時代 これは 時として この世に実現すると――すでに説かれていたし また――説かれるに至ったのです。
(つづく→2007-01-14 - caguirofie070114)