caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

Sa mère, Monique, l'avait retrouvé à Milan et avait arrangé pour son fils un mariage, dans la perspective duquel ce dernier avait renvoyé en Afrique sa concubine, la mère d'Adeodatus. Mais, en fait, Augustin était déjà entré dans une sorte de gestation spirituelle.

Augustine, Monica and Adeodatus:
Colégio San Agustin, Makati, Philippines

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第七章a なぜなら 男の女に対する関係が 関与不可能なそれを含んで そうであるから

――アウグスティヌスの同棲と離別・そこに見る共同主観――
《回心=アマアガリ》なる共同主観の確立(サンクトゥス) これが わたしたちの命題であり課題であった(§1)。

  • ちなみに 回心とは こころを自己還帰と思われる(感じられる)いづこかへ回らせることであり そのときこころは改まっているものと思われる。言いたいことは 一面では 心をめぐらせることが 人間であるわたしが 自己の意志によっておこなうことであり 他面では 心の改まることは おそらく自己の意志が推進したというものでは――たとえ努力が積み重ねられていたとしても――ないであろうという両面のことである。その意味で 改心とは言わず 回心とする。

共同主観の観念的・抽象普遍的な信実を覆いとしてかけて 精神主義的に偽りのアマアガリを・だからその罠を説くアマテラス予備軍からの解放が その基本的な内容であるということでした(§2)。このアマテラス予備軍のやり口は 宗教の神の観念共同化(その社会心理)から 科学の抽象普遍的な真実=アマテラス語理論の覆いをかぶせることに移行する(§3)。これら第二章・第三章の問題は すでに《共同》主観としての課題であるが 基本的に 一個の独立主観の中でおこなわれる(つまり§2・§3)。
次に 独立主観どうしの《共同》主観が 来る(§4)。この共同主観(つまりその過程)として 全体のヤシロが アマアガリの構造過程でありうる(§5)。このとき アマテラス予備軍は このアマアガリする共同主観に対して 関与不可能であるが このヤシロの構造過程に 絶対的に関係しあっている(§6)。
言いかえると はじめに《アマアガリ》があり(§1) これは 独立主観の 信仰・生活・良心・思想・表現またそれらの自由にかかっている(§§2〜3)。独立主観とその自由が問題であるというほどに それは 共同主観の問題であり 主観の共同化の過程(§4)・および 《やしろ Yasiro 》としてのその現実の――ある意味で錯綜する――関係行為過程(§5)の問題である。しかし同じくこれ(§5)は 具体的に主観(主体)と主観との関係(資本・愛・共同性)形成の過程の中にあって 基本的に ここにしかない(§6)。
言いかえると アマアガリ(自己形成――スサノヲのアマテラス化――といったほどの意)(§1)は 基本的に 独立主観において存在し(§§2〜3) かつそこにおいて 《やしろ(社会的諸関係の総体)》そのものとかかわっている(§5)。構造的・過程的であり つまり愛・資本の形成の問題である。アウグスティヌスとアリピウスとの共同主観が それである(§4)。やしろ構造的(§5)であるアマアガリ(§1)は 一般に A‐S連関体制方式なるヤシロ形態においてあると歴史的に見る限りでは 抽象普遍の基本的には(つまりアマテラス語理論においては) アマテラス予備軍のこのヤシロにおける解放を 課題とし(§2) 具体普遍的には(つまり一個の《S者性-A者性連関存在》としては) いま見ている相手との愛=資本の関係形成の過程においてあって ここにしかない(§6)。
また これらのアマアガリ命題は 基本的に 男の女に対する関係の問題である(経済学・哲学草稿 (岩波文庫 白 124-2)3・2)と さらに補足することができる。資本・愛・主観共同の過程が 一般に 家族において捉えられる。これに還元しようということではなく 基本的にこのように一人ひとりの次元に見るがゆえに やしろ総体的な視点(ヤシロロジ Yasirologie )を 同時に持つことができるであろうと思われることである。
アウグスティヌスは その個性と社会と時代の情況から 《そこで私はもう 妻をもとめず この世のいかなるのぞみをももとめずに 信仰のあの定規の上に立つことになった》(告白8・12・30)が これは 共同主観者が 制度としての教会を中心として生活していこうと考える時代と社会の歴史的な情況に立っているとも考えられる。言いかえると 《この世のいかなる望みをも求めずに 信仰のあの定規(共同主観の原理)の上に立つこと》と 《妻(夫)を求めること》とが 両立しないということではない。これらすべて やしろ総体の歴史的な進展状況などの問題でもあろう。また 現代という時代は このような地点に立っているというのが わたしたちの基本的な考え方である。


ここでは婚姻の問題を アマアガリ命題にかんして 考えてみよう。
この男の女に対する関係が 《アマアガリは 基本的に独立主観の問題であって かつ ヤシロ構造的にして資本関係のそれである》という視点に 絶対的にかかわっていると思われるからである。
この問題は 一方で 一般的に抽象普遍概念のアマテラス語理論によっては ついに解決を見ることが出来ず 同時に他方で 具体経験的なスサノヲ語の個々の物語・事例によっては ついにその個別性における解決以上のものを見ることがやはり出来ないというしろものである。したがって われわれは 特効薬とか処方箋を書くであるとかと考えないが ここでは一つに この問題の導入が必要であり 問題が導入されたとすると そのこと自体 ほかならずその解決の視点が 個々の主観に 生きて 与えられた・見出された・そしてこれを実際には受け取ったことであると――詭弁に見えようとも――言いつつ 或る種の仕方で いくらかの視角を 互いの共同主観の前に 動態的に 提示できればと思う。(詭弁問題については アマアガリ共同主観がつねに過程であるということにより 問題導入が解決過程であるという説明になる)。
わたしは 《妻(夫)をもとめる》ことと《アマアガリの基本的な問い求めに まさしくこの世から〔身体を離れず・またそれを空気のようなものとせず〕アマアガリしつつ 生きる》こととが 両立不可能ではないと言った。これを 理性的に知解しようとする問い求めの一例として。

とやかくするあいだに 私の罪は増し加えられていきました。そしてこれまで閨をともにしてきたその女(ひと。アデオダトゥスの母)は 婚姻の妨げとして(なぜならそれは 合法的なものではなかったから)かたわらから ひきはなされたので かのじょにしっかり結びついていた私の心はひきさかれ 傷つけられ だらだらと血を流しました。かのじょはあなたにむかって 今後ほかの男を知るまいと誓い 私のかたわらに かのじょから生まれた私の息子をのこして 〔ミラノから〕アフリカへ帰ってゆきました。
(告白6・15・25)

わたしたちは ここに描かれたアウグスティヌスのただの正直さ(S者性のみの真実)に連れ去られてゆこうとは思わないし あるいは かれのそのような妻である女性のこのような振る舞いを 共同主観者の例だとして 顕揚しようとするのでもない。問題は――この箇所を例に引いたわけは―― かれらのその関係過程にある。と言わなければなるまい。
抽象的に言って かえって謎を濃くするようであるが このかれらの関係としての共同主観(愛)――それは 動態だ――に問題があると言わなければなるまい。これは 身体=S者性と連関する精神=A者性の問題(その視点)であって 精神主義すなわち この視点にアマテラス語覆い(倫理規範)をかける作業の問題ではなかった。それはA者予備軍のやり口だと捉えていた。
だから 別れたことが あるいは仮りに 別れなかったことが それぞれ 事情に応じて何らかの正解であったと言おうとするのではなく まさに その共同主観過程が 現実なのだよと言おうと思う。そしてわれわれは これ以上 明白なかたちで述べることが出来ないとも思う。腑に落ちない人は 神にたづねるのがよい。われわれに解を求めるべきではない。
ちなみに アウグスティヌスは 別の著作で次のようなことばを述べている。

ところで 肉体が一旦 情欲の攻撃に屈伏すると 快楽の非常な魅力のために 精神を罪(共同主観からの逸脱)に同意するように誘うのであるから このことを恐れ かつ避けなければならない。すると人びとは この理由からして次のように言うであろう。

だれでも 他人の罪のゆえではなく自分の罪のゆえに そのような罪を犯す前に自殺しなければならない。

と。けれども 自分の肉体の求めにではなく むしろ神とその知恵とに従っている精神が 他人の情欲によってかき立てられて自分の肉の情欲に同意するなどということは 決してないはずである。事実 真理がはっきり告げているように 自分も含めて人を殺すということが忌むべき行為であり 呪うべき罪悪であるとすれば 次のようなことを言うほど狂気な人がいるだろうか。

あとで罪を犯さないために いま罪を犯そう。あとで姦淫の罪に陥らないために いま殺人をしよう。

  • あるいは 殺人・自殺という概念には 無関心でいること・関与不可能者でいることが 入るように わたし=引用者には思われる。

たとえ罪の無い状態よりも罪を犯すほうを選びとらざるをえないほど 不正が力をふるっているとしても 現在の確実な殺人よりも 将来の不確実な姦淫のほうが望ましいのではあるまいか。救いに至らせる悔いあらための可能性が残されていないような犯罪よりも 悔いあらためることによっていやされるような破廉恥な行為のほうが望ましいのではあるまいか。
私が以上のことを言ったのは 他人の罪ではなく自分自身の罪を避けようとして 他人の情欲の支配下で起こった自分の情欲にも同意しないために 自ら手をくだして死ななければ(無関心でいなければ)ならないと考える男たち もしくは女たちのためである。
さらにまた 神を信じ 神に望みを置き 神の助けによって支えられているキリスト者の心は そのようなことから離れていなければならない。わたしが《そのようなことから》と言ったのは およそそうした肉の快楽に負けて恥ずべきことに同意することから という意味である。もし死ぬべき肉体の中にまで宿っているあの欲望の不従順が 私たちの意志の法則とは独立に それ自身の法則によるかのように動かされるのであれば それに同意しない者の肉体の中には 睡眠中の肉体においてと同じく 責めはないのである。
神の国について 1・25)

《だれも死後に望まれる より良い生(信仰的に天の国 あるいは 経験科学的に 自由の王国)を願うあまり 自殺しては(関与不可能な関係に入ろうとするA者予備軍になっては)ならない。なぜなら 死後のより良い生は 自分の死(身体・罪の法則・必然の王国・その俗物性をいとうあまり 俗物でないという精神=A者性に閉じこもって生きようとすることは 人間=やしろの死である)に関して 責めのある者たちを受け入れることはないからである》(神の国について1・26)などなど この種の議論は いくらでも例示することができる。

  • いま直前の引用文は 俗物性が 人間=やしろの死にかんして責めがあるのと同じように 反俗物主義(反キッチュ)も この責めを負って この世に属していないキリストに受け入れられないということを意味している。または 自己の力で観念的に あるいは 未来社会というように時間の未所有として そうしてそれらを現実であるとしつつ キリスト(やしろのふところ)に受け容れられていると信じ込むことに対して 批判している。

男の女に対する関係(資本・愛)は このような視角に立って捉えなければならないように思われる。なぜなら わたしたちの愛は 《希望においてすくわれている》(ローマ書8:24−25)。希望(アマアガリへの)は《かたちあるものではない》(同上)ゆえに 経験的なかたちあるものに対して 無関心でいられず(感性・身体が動く) この希望としての愛を 精神=A者性において そのアマテラス語理論の中で かたち作って保っているというように生きてはいられない。のではないだろうか。それは もっともスサノヲ語的な 人間=やしろのかたちである・男の女に対する関係の中に もっともよく すぐれてふさわしく 現われると観念する以外に 方法はない。われわれは この《俗物性‐反俗物性》の連関するこの地から 自分の力でアマガケリして 上昇してゆこうとは考えないのである。
だから スサノヲのミコトは
(つづく→2007-01-03 - caguirofie070103)