caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§6 社会という資本 資本という社会

わたしたちは いま考察している内容をここに書きしるしたものが なにか ちからをすでに持つとは考えません。自己信用という主観の動態の 井戸端会議(シンポジウム)の場であるとは 考えています。
わたしたちは きわめて抽象的に かんがえてきましたが じっさいこの抽象性は それとして必要である。ちからを持つとは考えないが 主観のまじわりの場をかたるうえで ちからを互いに持ちうるために この抽象的な議論を持ちました。
それは じっさい人びとは 抽象的な思索を欲しているからである。ともあれ――広い意味でも――価格の成立は 精神的な考察から出発している。交換信用の関係過程である市場つまり補助の場も じつは 精神の作業をほかにしては 成り立たない。思っても見たまえ 交換価値ないし交換価格の形成 これは 精神の所産であり 精神活動を媒介にしている。モノとか貨幣とか 物体的なものも 精神もしくは観念と 切っても切り離せないもののようである。
だから 価格の成立が 信用の問題でもあり そうしていとなまれる社会が 信用関係だというのと ちがわない。
価格成立の有効性は――つまり 有効需要=有効供給=有効交換 の〔おそらくらせん状に進む〕基本線は―― 信用の理論でもあり 社会の出発点は これである。自己信用の動態――したがってこれはむしろ 需要信用=供給信用=交換信用などと いちいち分けずに ひとりの自己信用とその主観関係〔の組織内外のひとまとまりのサイクルのようなもの〕が 有効需要にもとづき供給を実現し交換していく の社会関係――したがって 全体の社会 これが 資本である。そして だれもが 社会人として 資本家である。
生活信用の関係として 資本の個別の動きには 有利不利がある。そして もう一度ふるいかたちで言えば 交換信用の場には 損得がある。さらにそして 事後的にであれ 自己信用が 社会的に有効な生活関係を成立させているとするなら 基本的な有利不利だけではなく 補助の場の損得も それが利潤損失として現われるのが もとはと言えば 基本の場の生活信用の有利不利(だから 利潤のゼロ だから 革新)にもとづくのだと考えられ やはり――この抽象的な議論の線における限り―― 有効信用の動態関係となっており みながやはり 資本家たる市民だということに相違はない。
社会という資本 資本という社会は こう言うと 一つの構造として閉じられたもののように感じるかも知れないが ましてこの閉じられた関係構造の中で 資本家どうしが 経験現実的に交換差額としての損得をねらって ゲームをし いわゆる持てる資本家は ますます自分の取り分を増やしていくというように聞こえるかも知れないが それは 抽象性の不徹底から来る。動態関係といったのであり それは つねに動いている。
この動きを見ないとき 見ようとしないことにより そこにおいて価格が 交換価格としてのみ 成立したと考え勝ちだし 信用は 交換信用の分野に 閉じ込められる。すなわち 片苦しい閉鎖的な構造の中に 生活がいとなまれていると感じるのである。じっさい そうなのだが そうでしかないと思い込んでいる。この抽象性の一段階をもう一歩高める人は この階級関係に対する 本来が資本家であると考えられる人びとによる管理をとおして 社会資本を運営していく社会を 思い描く。そしてそれは 法学を先行させるところの経済学思想でないならば よいわけである。そこで 抽象性の不徹底が 解消される。
経済学固有の自己信用を法学信用に後行させるとしたならば 資本(すなわち個々の市民としての生活資本 ないし 総体としての社会資本)は 交換信用としての資本であると 思いこんでしまったのと同じである。これも 抽象性であり 思想であり精神の作業に属するが――そのように人びとは 精神の 経済学行為が 好きなのだが 好きなことには 弱いとも言わなければならないかのように―― 抽象的な精神の城の中で まんぞくしている。
それでも 満足しないという人は 自分たちの法学信用の理論で 法学信用の城(つまり 社会主義経済の国家ないし社会)を建てようとする。(いわゆる近代市民の以前の 封建的身分制の交通理論が あまりにも根強い社会にあっては それを 一つの手段としたかも知れない)。
わたしたちは 自分たちが何をなすべきか すなわち ちからの問題 これへ入っていくための 会議としては すでに十分 のべたと考えるのである。
貨幣という数値 国民所得という集計概念 これらは 数学・統計学が 抽象的な精神の分野に属していることにおいて 好むものだし そしてそれらは 必要なのだが 《交換信用の数値が 自己信用の全体なのだ》と見ることは 事後的な結果として やむを得ず形成されることがあったとしても これを 事前的な精神の城とすることは できない。ゆえに何をなすべきかは ここで言う必要もなければ 言うことが可能でもないと同時に そのための前提的な議論は 十分にのべたと考えるのである。
なお何をなすべきかへ入り これ進めているときにも それの前提的な議論は 生活の信用関係の場として・会議として 必要であり たえずおこなわれているはずである。これが 経済学行為だと考えるのである。
空想を超えた妄想の議論 また まぼろしの経済学行為でもあるのだから 処方箋は まったくないのである。わたし個人の考えとしては 生活信用の主体たる自己が 一人ひとり政府であって その代理たる外の社会政府を主導していくという方向 これなどを 行論の途中でも 提案した。
(おわり)