caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§1 価格の成立b

ここに言う価格は 抽象的な概念として価値のことを 含ませようとしているのだが 分業社会において――需要者と供給者とは 互いに別の人間であるとも考えられるゆえ―― 主観関係は すでにやはり価格となったものを持っている。つまりたしかに 交換を 主観内面においてすでに 予定に入れてもいる。この価格の成立が 経済学の固有の問題である。その価格の決定は 経済学としての倫理学行為であり 決定された価格の流通にかんしては 同じく倫理学の問題であると同時に 経済学としての法学がこれをあつかう。
成立価格そして決定価格にもとづいて その交換が形成されていくとき そこに結果される利潤・損失を含めて価格量を国民所得へ集計したもの その中から国家がいわゆる国家予算として再分配すること そういったとき一般に資源やお金や人が有効に利用・配分されているか 自然のあるいは社会の環境の保全などなど これらの問題は 倫理学のまたは法学のあつかう対象である。(すべてをコストの問題として あつかうことも出来るようだ。)したがってこの法学は 倫理学理論の規範化すなわち立法作業と それの実施として行政と そして 倫理(交通)行為が法律に訴えられたとき裁判する司法とをふくむ。このとき やや狭く解釈すると 倫理学一般は 経済学固有領域の前提であり 法学は 同じそれの後提ないし後衛としてある。
言いかえると 狭義の経済学は 価格の決定ないし決定価格にもとづく実際の交換行為については 〔前提がどこまでも有効である意味で〕倫理学や まさに後衛としての法学やに すべてを任せたわけである。じっさい 経済学は 交換後の利潤・損失の発生については 固有には 考えない。抽象的に・しかし市民の社会生活として成立した価格には 基本的に 交換差額はありえない と考えるのが 経済学行為なのである。
経験科学であることによって つまり人間の経験(試行錯誤)的な活動として じっさいに発生しえた交換差額 これは――そうは言えども 反現実的になって みとめないなどというのではなく―― 事後的に そのように(つまり交換差額として) あらためて価格が成立するのだと 同じく経済学するわけである。
しかも はじめの成立・すなわち 主観内的もしくは主観関係的なではあっても 交換差額がゼロとして 自己が評価した価格の成立が 消えてなくなったのではなくして 主観関係が じっさいの交換〔の交渉〕にあたって 相互対立的でもあるのだから この対立を受け容れて 幅を持ったというにすぎない。ここまでの価格成立の一連の過程が 経済学お灸のいとなみである。
もちろん この過程のしめくくりとしての 事後的な価格成立は 交換の行為そのものにおいて 前衛としての倫理学的な同意(コミュニケーション)による承認を受けており 後衛としての法学の決まりによっても承認されるか じっさいに判定をうけたかといった過程を 経てきているというものである。
倫理学および法学を介在させて あるいはそれらの助けを借りて 或る人の或る需要は その価格が 経済学行為として 成立するという交通関係の過程的な構造 これをわれわれは持ち この構造関係的な過程が 市民の社会生活であるということにほかならない。固有の意味でわたしたちは 一人ひとりが 経済主体であるだけではなく 経済学主体である。この社会生活を考察対象として さらにくわしく研究するのは 経済学者である。 そうでないと 価格は 社会の中に・あるいはむしろ社会の外に(ないしは その上に) あたかも幽霊のように 踊り出す つまり 浮遊することになる。経済学は 舞踏会であたかも忙しい下僕のように 右往左往していなければならなくなる。交通も忘れてモノの交換のみを追いかけ 景気をよくしよう景気をよくしようと言っていなければならなくなる。
経済学は 需要の発掘 その供給の実現 そして価格の成立 これに専念していいように思われる。このような自己の 主観の利益の追求は たしかに社会的な行為なのであって 主観の経済学行為であることが 社会的つまり倫理的でもあるしかなく このことを自由におこないうるならば それが それも わたしたちの利益であり利潤でもある。
交換差額が発生してもよいのであって その意味は 主観関係が――つまりそこでの価格成立が―― 相互対立的な過程であると言うのと同じことであり つまり これを無理におさえつけようとする必要はなく それとしての利潤の 単なる事後的な調整の問題に属している。経済学の前衛として経済学行為に後行(従属)する倫理学による調整(交換における交通整理)であり この調整に対する調整(利潤の再分配など)は 経済学の後衛の法学(立法・行政・司法)の問題なのである。
けれども この法学〔のあつかう経済学行為〕は 経済学の固有の行為に 先行しないし 先行できない。社会や歴史が いま始まるというわけではないから 過去の歴史の継承として その既成の法学行為の事実(国民経済学の既成行為事実)は 時間的に前に存在しているけれども それは 先行しているのではない。原理的に 人間の存在の社会的なあり方として 先行しているのではない。したがって わたしたちの〔あたらしい〕経済学行為は 自由の実践 もしくは 自由であるべき(ありうる)生活の実践のことにほかならない。ほかに 定義は ない。
わたしたちの新しい経済学行為は 生活価格の精神的な考察による成立にあると言い 従来の経済学はこれも 特に交換行為としての経験現実を抽象して いわゆる経験科学的に これを 精神の現象として捉えるところから出発していると言った。後者は 合理的な経済人を仮定するばあいである。ふたつの経済学は 《精神(知性の行為)》という点では 共通している。その違いは わたしたちの経済学が 精神の現象またそれとして捉えた理論内容に 従うのではなく それらを用いていくところにある。従来の経済学が つまり従来の経済学も それらを用いていると言い張るとすれば それは わたしたちの言う法学経済学・つまり いわゆる政治経済学としてなのであって これは わたしたちの言う新しい経済学に後行する学問・実践行為なのである。後衛の領域である。
後衛の領域で 精神の現象〔としての理論内容〕を用い実践するということは 先行する領域で価格の成立を捉えたかどうかを 証拠立てない。言いかえると 先行する領域は そのとき ブラック・ボックスの中にある。社会主義計画経済は 前衛の倫理学がより一層 強固で 後衛の法学領域も あたらしく進んでいるかも知れない。タテマエ・理論をとってみると 資本主義市場経済の社会に比べて そうであるかも知れない。そして われわれの言う経済学固有の〔ミクロ的な主観関係・二角協働の〕領域は それら前衛・後衛のニ領域に先行していはずであるのに 同じくブラック・ボックスの中に入れられているか それとも 自然史的な過程として そういう新しい固有の経済学行為の主体つまり新しい人間が出現してくることを 待っているかっこうである。
わたしたちの言いたいことは 政治経済学つまり法学(立法・行政・司法)が 固有の経済学行為つまり生活価格の成立に 仕えるということである。(生活価格というのは 価値と言ったほうがよいであろうが 主観関係であり交換を予定しているという意味で 価格の語を用いることにしている。)つまり新しい経済学が 従来の経済学〔の理論内容〕を用いていくということにほかならない。従来の経済学では まさしくこのことが 転倒している。のではないか。
前衛であり前提である倫理学は そうは言っても この前衛であるということが 各主観の経済学行為のおこなわれた結果として その結果から引き出された事後的な〔倫理側面つまり〕規則でしかない。経済学という精神(知性)行為のほうが その精神の規則に先行している。それに対する土壌とか前提とかとして 倫理学が成り立っている。
言うところは わたしたちの立ち場が 精神主義であるのでもなければ身体主義でもないとするとき 主体の身体にすでに精神が宿っている この一個の主観が 経済学行為する。これが 先行する現実であり 先行する現実は 別個にでも時間的に後にでもなく 原理的(観想において)は 後行する経験現実を すでに自己の内に持っていると捉えている。この後行する現実は ことだてて取り出すとするならば やはり精神=知性が それ自体として(つまり いわゆる客観的に) 受け持つ領域であり 倫理学ないし法学が 交換を人間的に交通整理し その交通整理を法的に(或る種の強制力をもって) 交通再整理する行為を その領域内容としている。経済学も これらの交通整理を経ていることを予定して 価格の成立を形成していくとき いわば自己を交通整理しているのだが この今度は主観行為としての交通整理というのは すでに自己(身体かつ精神の存在)を整理してしまっている。という意味は 経験(試行錯誤)としては 交換を予定し そこに二角関係の相互対立を予定しているのだから この予定している主観相互の対立を なくすとかいうのではなく つねに過程的に 整理してしまっているのである。
客観認識〔の倫理規則や法律〕では 整理しきれない。または ただそれとして 整理済みの状態をあらわすというのでしかない。主観関係論の経済学は こう考える。
倫理学は 人間の平等を言い 法学経済学は 等価交換を言う。主観経済学は これらを前衛および後衛とし それらに先行する人間現実として 考えすすむ。つねに実践過程である。生活である。生活は ゆづるということを知っている。
従来の経済学は ここで言う法学経済学として自己を立て その限りで 価格の成立を後行させている。その限りで 倒錯している。そして倫理学は 倫理学が この政治経済学とは 別個の学問・実践と見なされているか それとも その法学のさらに後衛する形而上学的な裁判官と見なされている。この倒錯視のあとの 《裁判官》倫理学は じっさい宙に浮いてしまっており きわめて内気な かつ一たん発言しようと口を開くときには 更年期障害の――リンリリンリと鳴く――うるさいレコードのようなのである。わたしたちの経済学は ことばではなく(ことばを売り物とするのではなく) ちから(需要および供給の広く生産のちから)にあるのだから レコード裁判官のことばは むしろ うるさい。その内容(知性の成果)じたいは われわれの前衛として 用いていくことができる。リンリはもし基本的に倒錯の哲学にのっとっているのだとしたら その声によって裁かれている当の人びとにとっては むしろ こころよいひびきを持っているのであろう。法学経済学の立ち場に戻ればよいのだから。もちろん ただしこの法学が たとえば公職追放をすることもできるのだが。
といっても これら法学経済学と倫理学裁判官の領域では つまりこれらの領域が 社会生活を主導する場合には 価格が成立していない疑いがある。じっさい このいま例に挙げてきたロッキード収賄事件を 判定する裁判官も 交換行為は成立してとしても 経済学としての・だから 人間現実としての 価格の成立が曖昧なのであるから つねにモラトリアム人間としてのように曖昧な価格成立の上に乗っているのだから その経済学を後衛しようにも むずかしいという一面がある。のではないだろうか。これらにこたえる新しい経済学を われわれは模索していきたい。わたしたちには 勝利が待つのみである。
(つづく→2006-12-12 - caguirofie061212)