caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2006-12-10 - caguirofie061210

§4 信用の理論a

価格の成立という経済学行為は つぎの内容をふくむというわけである。有効需要と有効供給との一致という基本の場 および 等価交換を形成して進められる市場という補助の場。内容として場というのは それらが 精神行為であることにもとづくものであり 基本の場は 生活ないし 生活観であり 補助の場は その理念(交通規則)である。つまり等価交換という理念の実現される市場。
基本の生活も 過程的であるゆえ 有効需要と有効供給との一致にも モノの価値額として あくまで主観的に 有利不利がある。補助の場は 生活上の手続きの場であるゆえ 手続きのうえで 理念に合致していても(合法的であったとしても) はじめの基本の場におけるモノの有利不利をともなうとともに その交換の等価は 便宜上の約束にもとづくものである。つまり だれか主観の見方を変えれば ないし 時代が変われば(経済的に生活が変われば) 別の約束を持ちえて 不等価でありうる。
基本生活の場の有利不利は 互いの生活(生活観)の安定にもとづいて 一般的に――あくまで相互の主観関係が これまた 基本だが―― 納得しあい合意したものである。つまり 相互の信頼関係ないし信用のうえに成立する。これが 価格の成立である。
だが 基本の場と補助の場が――前者が後者に 原理的に 先行するとはいえ―― たがいに かけ離れたものなのではない。すなわち 基本的な互いの信用関係は とうぜん 補助の交換の場で 有効性を経験させる。先行するとはいえ 離れてではないから こう表現してすすむことも 可能となる。言いかえると 有効需要と有効供給との一致という価格の成立は それが手続きじょうの規則として 等価交換という理念(ないし法律)を持ったというほどに 可変的なものではあるが 交換の場でも それを貫いて 有効性を保ちうる。
逆に 補助の場は 分業形態において――この分業に対しても人は 信頼を示したが―― 市場という手続きを踏むことであることから はじめの基本有効性にもあった・かつ信用に支えられたモノの価値の有利不利の関係を ふくむだけではなく いわゆる利潤と損失とを もたらしうる。基本の場における有利不利は 言うとすれば 自然価格ないし生活価格の主観差・個人差に関係し これの補助の場における利潤損失は 交換価格ないし市場価格の決定に関係する。市場を独占する供給者は 基本的な人間=信用関係の或る意味で避け得ない有利不利をもつ以上に 独占の力で 利潤を手に入れうる。また この例のばあいは 法学経済学の問題だとも言っていた。
広義の 有効供給およびそれゆえの有効需要は――そういう順序で言うのは 供給が 一般にいわゆる無政府的な生産活動として現われる場合として それゆえにであるが―― むろん 基本の場および補助の場の全体にかかわる。同じことを言いかえると 生活は 生産(供給)と交換(市場)と消費(需要)の三つの部門から成り 第一と第三とで 基本の経済行為にあたる。いまは 補助の場をふくめて 考えている。信用の理論としてである。
信用は 生活にかかわるのである。だから 供給(生産)と需要(消費)とに 基本的にかかわり その具体的な・または便宜上の媒介の場として 交換(市場)に おおいにかかわる。
ただちにここから 生活信用と交換信用とは 別だと言うことができる。一般(全体)概念と従属(部分)概念とであるから。しかも 生活信用としての価格の成立は その手続き上の媒介の場をほかにしては 現実でもないのだから この交換信用に 象徴的に 生活信用が になわれていると言うこともできる。――わたしたちが ひとりの人間がわかるというのは 案外 その人の日常的な何気ないしぐさ・ふるまいを見ることによる場合が おおい。
手続き上の場は その手続きが欠かせないものであるなら その補助の場じたいも 基本の場を代理することになる。もちろん いまの交換信用のほかに 供給信用も 生活信用の同じく一分野として 生活信用を代理するわけであり かつ 品質がまずくはないかとか 有利不利が不当なものでないかとかの供給信用は 媒介の場における交換信用をつうじておこなわれた成立価格について 議論される。
その意味で 信用は 交換信用として 焦点があてられる。すなわち 有効需要と有効供給との一致の問題は この限りで 有効交換の問題でもある。
狭義の有効交換は 自然価格の成立にも見られる有利不利という差額をふくみ 広義にとれば 市場価格の成立のなかに見られると思われる利潤損失の差額を さらに ふくむ。
言いかえると 交換信用には――有効な交換信用には―― げんみつには 利潤したがって損失は 含まれないということになる。基本線の問題として そう考えられる。この言ってみれば まぼろしの基本線にのっとって 広義の有効交換が 利潤損失を含むものとして 承認されている。ここで経済学行為をおこない ここで自己の生活の利益をもとめていくのである。まず 有効交換また交換信用〔が生活信用を代理しているということ〕を 承認し引き受けなければならない。ということは この承認の社会的な制度また交通理論を さらに問題にして 考えすすめていくことができる。
承認は 承認できないという場合を ふくんでいるわけであるが その議論の前衛は 倫理学としての交通理論であり 後衛は 法学経済学による交通再整理であったが 二つは 客観認識の規範でありそれの便宜的な強制として 経済学行為に後行(所属)している。つまり 信用の問題としても 生活信用に後行している。ひじょうに高い道徳性をそなえ そのおこないは すべて 合法的であること これによって 生活信用が成り立つのではなく 生活信用の まぼろしの経済学行為としての成立によって 後行する前衛および後衛の両領域を満たしていくのである。
これは 信用の問題である。ほかならぬ自己信用が それである。主観関係における 主観的な自己の自己に対する信用。つまり ここでも だれもがみな 経済学行為者である。
自己信用は――つまり基本の生活の場における《〈わたし〉とは何か》は―― 思想の問題である。つまり 思想としての経済学行為である。ただしこれは あくまで 主観の問題が同じく基本なのだから 《わたし》たる自己の内奥の内奥のことまでは じっさい 他人が 関与することは むずかしい。おそらくそれは わたしたちが そういった人間という存在だということにもとづき その人間としての むしろ 能力によって なしえないことなのである。また ぎゃくに こういった点を大前提にするなら 思想の問題としても 経済学は 人間の信用を論じてもよいし たしかに自由に議論することができよう。
そうして 交換信用(あるいは ほとんど同じことで 供給信用とか需要信用とか)は 基本的に 生活信用の観点から 自由に論じてもよいのだし 同時に 理念〔や規則や倫理規範や法律〕は 補助的な約束・決まりごとでしかないのだから この 交換信用に 同じ次元で対応する理念などについても――勿論一つの法治社会としては もとづきつつも この理念についても―― 検討しながら 交換信用を 必要に応じてあげつらうのである。
つまり わたしは不当な損失をこうむった あなたは不当な利潤を手にしている といった議論がおこなわれうる。そして これは 一般に 法学・法律の問題へと 後退していってもよい。基本(生活)の場を代理する補助(交換)の場における問題は 経済学行為という先行する領域から 法学等の後行する領域へ 後退するようにして まかせられてもよい。
形而上学的な基本の場・また まぼろしの先行領域が 主導するから 補助の場における交換行為にかんする前衛および後衛の領域に 問題は まかせられていく。そうでなければ すべて合法的に生活し道徳的に非の打ち所のない言わば規範的人間であることが われわれの第一の目的になるであろう。
事実 通念じょうの実際を捉えてみるに 交換信用が生活信用を圧倒し 前衛および後衛の両領域が経済学主体の領域に先行しているかに見えるとき 法規範的な人間であることが われわれのこの世の中での最後の拠りどころとされているように思われるのである。あるいは それは ナンセンスだという人は 法権力の移行を 第一の手段とする。それとして第一の目的とする。そしてそれは 後衛の法学領域を 先行させる思想に立っている。
交換信用の問題は 前章で触れた 有効供給の 狭義と広義との問題にかんけいする。供給信用(その意味で交換信用)は それが有効需要と一致するところの狭義の有効供給において 成立するものである。広義の有効供給は――つまり 事後的に 社会全体として 実効性をもった供給の有効性は―― 供給信用の成立を 法治社会として 見守るところの法学に関係する。すなわち 有効需要と有効供給との一致が その一致を(まぼろしの一致を)媒介する交換の有効ともさらに一致するように 見守っていくのは 法学の問題である。いやそれは 経済学の問題なのだが むしろ 外形的な後衛たる法学に席をゆづる。
倫理学・法学そして経済学を それぞれみな もっとも広義に捉えるなら すべてがすべてであるこの世界全体を言うことになるから ここでは できるだけ狭義に考えるということであり 経済学はここで 有効需要を――或る人が 欲求し―― 有効供給として実現させていこうとする その行為また行為のやり方を 問題としていくと言っていいと思われる。

(つづく→2006-12-15 - caguirofie061215)