caguirofie

哲学いろいろ

#8

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《インタスサノヲ価格》の実際a

価値とは 主観の内容であり 主観過程にある人間が 社会的な存在であるとしたなら 価値の創造・充足は 主観の相互関係のもとにある。主観関係の素朴なかたちは 或る二者の社会的な関係である。すなわち 二角関係である。
主観的な存在つまりわれわれ一人ひとりを 《スサノヲ市民》とよぶとしたなら 価値は インタスサノヲ市民関係のもとにある。過程であるから その創造の源泉の領域に着目してみれば 二角協働関係(その行為)である。この原形的な市民の存在〔行為〕関係は 具体的に指標をとおして スサノヲ価格の創造=享受のことである。これg 広くインタスサノヲ価格となり そこに 《増加したスサノヲ要因》としてのアマテラス要素も 含まれているし あるいは 見方を転倒させて アマテラス要素の獲得のために 全体のインタスサノヲ価格を増大させようというアマテラス要因にもとづく広義アマテラス価格にも これが なりうる。
人間は 何が何でも進歩しなければならないとは言えないが インタスサノヲ市民関係は 進展する ないし発展するはずである。この発展の要素は 精神の知恵・知性にもとづくであろうから アマテラス要素である。それじたいとしては 要因とよんでも よいであろう。アマテラス要因は スサノヲ個人が持っているのであるから これらは 分析上の概念である。まだ 定義の問題であり またおそらく これらの概念内容は 新しいものではないはずであって ただ 定義上の言いかえにすぎない。
定義上の言いかえにあうぎないことを わざわざ言うのは 経済学にとっての《はじめ》という小前提にもとづく。つまり この小前提の無理のない普通の把握による展開のためである。さかのぼれば 《人間》という大前提 その《意思という側面の存在をいう第一原則 または 《主観》を離れないことのためである。《経験世界のはじめ》が その具体情況として 主観から離れてしまった必然の世界があったとしても このような疎外された経験現実 もしくは 経験現実によって疎外された主観 これらを なにか規範的にイデオロギによって 取り戻そうとするのを 経済学のはじめとせず まず 《はじめ》において 疎外されたまま疎外されたものとして 主観が 〔主観を〕みとめるという第一の作業を 言うためであった。
主観は 無力にされている だが 有効である。しかもこれは 《はじめ》の経験世界のことがらとして 経験科学的に言ったまでである。
二角協働関係のなかの発展の要因は 価格として アマテラス価格をもつ。すなわち 狭義には 第三角価値である。第三角というのは あたかも夫婦という男女の二角関係から生まれる子に見立てたその類推からである。価格として 利潤である。利子・利息でもよい。だから ここまでの限り アマテラス要因・利潤といったことにも まだ罪はない。
本来 インタスサノヲ協働関係のなかに 発展の要因として アマテラス要素=利潤をもつというのは この第三角価値が 二角関係の過程に属することを意味する。関係的な二角への 利潤の帰属の仕方が 広義のアマテラス価格(まったく同じことで インタスサノヲ価格)の決定を 左右する。ごく単純なかたちでは 二角のどちらかが より勤勉であるかによるとされている。知識の有無も さることながら その知識の活用は 知性だけではなく 意志にもよるだろうから 勤勉が 発展要因たる利潤の帰属(配分)の仕方を 決定すると見て 話をすすむよう。
勤勉でもないのに 一般に欺きによって アマテラス要素をぬすむ場合は 話をすすめる上で 基本的に 悪貨たる主観つまり無効だと見ておこう。まだ 定義の問題である。
ただし 勤勉の――勤勉というなら 一般に主観(主観関係)の有効によるものと思われるが その――程度の差が 二角関係を 固定的なものにしうる。程度の差は 追いつかれ埋められるものであるが 勤勉の蓄積が どういうわけか 社会関係として 価値配分に生じた差別を 固定的なものにしてきた側面がある。アマテラス発展要因が より勤勉な一角のほうにあると 暗黙のうちに・あるいは公然と明らかにされて 定着していったなら 利潤は より多く その意味でのアマテラス者(アマテラス者とよばれうるスサノヲ者)のもとに 帰属するか それとも 利潤の決定権が かれのほうに帰属する。もっとも ここまでは 相対的な問題であって まだ インタスサノヲ価格は ふつうのインタスサノヲ関係のもとに いってみれば民主的に 取り決められていくであろう。
問題は アマテラス発展要因=利潤=すなわち第三角価値は 第三角価値であって 関係的な二角によって創造され――つまり 社会的な分業を 前提してということだが―― かれらに帰属するのであるが もっぱら より勤勉なアマテラス者にのみ 固定的に 帰着してしまうとしたなら そのようなインタスサノヲ協働関係の出現とは どういうことかにある。
単純きわまりない議論だが このように考えられる。
資本主義というのは 第三角価値たる利潤を もっぱらアマテラス価値として 単独分立させて これの増殖を 至上命令とする大きくは インタスサノヲ協働の関係過程である。《主義》になる前には 勤勉関係の問題であった。欺き・不正なる無効の主観 その無効が実効性をもった社会経験的な有力 これは 問わない。そして 同時に 《主義》になってからも そのような悪貨は 有力である。つまり これを ここでは問わないというのは 《はじめ》に立つなら ことは 道徳の問題ではないからである。そして 同じく《経験世界のはじめ》に立って この問題は 狭義の固有には 法律・裁判の領域に属する。《はじめ》という小前提を超えなければならないという考え方については つまりそれは ありうる行き方として 革命という考えであるが これについては 同じく道徳の問題ではないから(道徳の問題は あつかわないから) 議論を超える。
《人間》という大前提に さかのぼって 立って いややはり議論すべきだという場合にも おそらく 議論の余地があるとしたなら それは この小前提の《はじめ》に立つ経済学の問題としてである。つまり 革命ののちの経済学的な《はじめ動態》の内容にかんしてである。まだ 定義の問題である。
インタスサノヲ価格という価値の総体は 社会的に資本であるが そのアマテラス発展要因をもっぱらはたらかせて これを資本主義〔という主観の行き方〕にしていった段階では インタスサノヲ協働は 当然のごとく 分離された二角関係 それぞれ階級として分離されたそれとなったと言いうるし あるいは逆に おなじく あの《はじめ=社会総体》において やはり大きくインタスサノヲ協働過程だとも 言いうる。事が 有効な主観による――少なくともその初発には(アダム・スミス)――勤勉の問題であったとしたなら そうである。資本主義そのものが全部 無効の主観の動態であったのだとしたなら? ただし このような議論をする人は この資本主義の社会を否定するのではなく まさに資本主義という主観のありかたを否定して 人間という大前提に立った有効な主観のありかたを 身をもって示しかつ経済学的にも明らかにしなければならない。社会を否定するなら おそらくその人の自己じしんをも否定することになるし あやまった主観を否定するなら もしそれが道徳の問題でないとすれば そうである。
もっとも 資本主義的な主観の人びと(もっぱらのアマテラス者たち)も そういうような《道徳》は知っているし うなづくであろう。うなづかせればよいというのでなければ そして身をもって有効な自由な主観を実践していると胸を張れる人は 経済学しなければならない。つまり 愚痴はこぼさないであろう。
したがって 主観の有効を前提するかぎり この前提で歴史が推移してきたと見なければならない限り より勤勉なもっぱらのアマテラス者たちが あたかも自分たち自身の国を この世=《はじめ総体》の外に 別個に 独立して存在させるようになったわけのものではないであろう。文学的な表現としては そう言いうるとしても。あまりにも階級差が激しいときには 天国と地獄であると喩えられたように。雲の上というほどに この世のものではない。
つまり まだ インタスサノヲ協働関係は 有効である。それは 有効でなくなっていない。同時に ほとんど無力にされている。
問題は 言うまでも無く 総体としてのインタスサノヲ関係の再編成にある。もし 有効でありつづけ かつ 無力にされているとしたなら。というよりは まだ 依然として 定義の問題なのである。経済学の《はじめ》の――ここに到れば いくらかは――内容過程としての。このあとで 具体的に 法律・権力の問題が からんでいる。《あと》というのは 作業の前後のことではなく 考え方としてである。《はじめ》という小前提を脱け出していても――つまり革命家にあっても―― 同じことであるだろう。ほとんど同じことであるだろう。
一つの焦点として アマテラス価格←インタスサノヲ価格の 決定の仕方・仕組みの見直しに 問題は ある。そして いくつかの細分化された焦点を 取り上げ論じていく場合も その同じ作業過程で 《主観》の問題である。つまり 経験世界として言わなければならないのだから 主観関係のそれである。言いかえると たとえばアマテラス価格の決定の仕組みといった一焦点についても そこに どういう人間が出現してくるかである。事が 二角関係から出発しているとしたなら。あたらしく出現してきた人間が いや あたらしい主観関係としてわたしたちが出現していくその同じ過程で 事は《はじめ総体》に及び 全体としてのインタスサノヲ関係(制度的な)の再編成を 《必然》させているということになる。《自由の王国》は だれもが認めるように 経済学の議論としては この《必然の国》にしかありえない。
勤勉(産業)が 人間に必要な一つの徳であるとするなら その人間的な論法で言った限りで ふつうの二角協働関係においても より勤勉なほうの一角とそのような人たちの連合が より多く アマテラス発展要因の成果を 享受するということは 納得できないものではない。ところが もっぱらのアマテラス者となったスサノヲたちが 全体のインタスサノヲ関係=《はじめ》を 主導していくところの資本主義の社会のもとでも 福祉社会ということが 叫ばれ 実践されるようになっている。利潤は 本来 あくまで基本的な二角にとっての第三角価値なのだという前提に すでに 立っている。立ち戻ろうとしている。あとは この利潤すなわちアマテラス価格の部分を 享受すべき価値として 別個に 単独分立させて 創造するかどうか そうしないほうがよいであろうという点にある。
逆に言いかえると はじめに――あたかも はじめに―― 単独分立させたアマテラス価値があって これのもっぱらの増殖に走り そのあとでその成果を ちょうど あまり勤勉でない(あるいは 勤勉であることがむつかしい障害をもった)諸角の人びとに 《福祉》といった考え方で 分配するというやり方 ここに インタスサノヲ関係の生きた復活を阻むものがある。
有効な主観〔関係〕のなかでの 蓄積された必然から来る矛盾は――つまり主観対立の矛盾は―― ここにある。社会主義経済は この意味で 失業を克服したのであろう。ただし これまでにおいて おそらく ちょうど より勤勉なもっぱらのアマテラス者たち(あたらしいかたちの)の国家的な主導のもとにおいて。
で インタスサノヲ関係の復活は――だれもが この復活を希求している これは 定義の問題から はみ出るが それでも 第一原則の意志の問題からする弱い主張であるが―― インタスサノヲ価格の実際のなかに ある。これは まったく定義の問題である。一つに アマテラス要因は このインタスサノヲ関係のなかに 見出しているということ。また そうなるために スサノヲが スサノヲとして立つこと。立つことにおいて 実践が 関係的に実現していくということ。古い必然の流れが 新しい必然過程に変わっていくと言ってもよいが これでは弱い議論だとすると いまの必然関係が ほとんどそのままであっても 開かれていくということ。(開くというのは 答責性の問題である)。勤勉が有効な主観のとうとばれるべき徳であるとするなら まずは これをみとめ みとめてこの歴史を引き受けた主観は 開かれ 開かれ合って あたらしい(と言っても旧い人間のなかにも潜在していた)主観関係が すがたを 言ってみれば自然に あらわしていくということ。
一つに それらの結果として 条件なして二角協働関係のなかにあるスサノヲ市民が そのインタスサノヲ関係として 経済学しているということ。だから このインタスサノヲ関係(市民生活)が 専門家としての政治経済学主体であるアマテラス者らを 主導していくということ。けれども いまでは 主権在民である。
これらの条件が 価値充足過程として そのまま福祉でもあるということ。主観関係が わざわざ勤勉体系(《はじめ総体》の・そしてまた国家)を経由して 成り立つのではなく 主観関係のものが 勤勉であり福祉でもあるかたちで 過程していくとき 《はじめ総体》また《社会資本》が 歴史をたどるということ。これらの二角協働関係は 自分たちの第三角価値を 自分たちが互いに分配して 享受していくはずである。そして わづかに その価値の指標には 分配のとき・あるいはその前の生産の際の原材料等の交換のとき 価格あるいは貨幣を用いている。か または 価格ないし貨幣は すでに 必要なくなっているであろう。

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(つづく→2006-12-04 - caguirofie061204)