caguirofie

哲学いろいろ

#7

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《価格》に対するあたらしい見方b

このインタスサノヲ価格という呼称は すでに概念であるならば そのまま経験現実のアマテラス市場価格を――同じものであるから――みとめており すでにこの言い換えで じつは 通念じょう流通している貨幣価額を 自己のものとしている。また そうするべきである(それが 可能である)。つまりこの指標を 自己の内に見て捉えている。もし 経験世界で市場必然的に展開されていく貨幣価格が そのようにひとり歩きして われわれ人間の主観から疎外されていると言うときには 疎外されたものとして 自己の主観の内に確かに捉えている。
この奇術の種明かしは どこにあるか。あるいは この議論は奇術であって 科学的な考えではないとしたなら どこにその誤りはあるか。


価格の構成内容には 別の観点から分析して 利潤という要因がある。価値の面からは 主観充足の過程に あたらしく増し加えられるべき内容部分のことである。
市場価格とか交換価値とかいう場合には この利潤は 主体〔行為〕のもとを 離れてしまうおそれがある。利潤の決定に 主観はあづかり知らないと言い張るという側面が まったくあたかも独立して 出てくる。つまり はじめの経験世界のそのような一面 言いかえると 主観の及ばない範囲の社会の自己運動的な一面 これを 経済学は みとめてしまうだけではなく――つまり わたしたちも これじたいは みとめなければならないし みとめると言ったのだが それだけに留まらず―― 自己(経済学)よりも 本質(存在)的に先に 利潤の存在を 置いたことになる。いや それは おまえが想定した経済学の《はじめ》であって その前提世界の一面なのだから 《先に》措かれるのは とうぜんではないか とはならない。何故なら 利潤が 経済学の《はじめ》となってしまうからである。これは 手品ではない。
おそらく しかしながら 利潤が 価格構成の要素として むしろ企業者らによって主観的に決定されたあとに 市場価格が成立するということも 言えるのであって(――なぜなら ちなみに 或る種のソシアリスム中央計画経済では 利潤をみとめないで それがゼロだというやはり 利潤の主観関係的な決定のあとに 価格が成立するといった例を 或る種の類似性をもって キャピタリスム市場経済では 主観による決定というスサノヲ要因がゼロだと見なされ合ってのように 利潤予測をも盛り込んで 市場価格の成立とあい成る側面がある――) だから
このときの主観的な利潤の設定・だから価格の決定には 既存の市場価格体系(もしくは 一定の経済法則)からの制約が 色濃く 影を落としているであろうにもかかわらず その影響を受けたという主観的な認識と判断は じつは すでに――それこそ 自由に――おこなわれていたものである。これが 留保されていないわけでは ない。経済学の《はじめ》は これらの構造関係過程の全体でなければならなかった。言いかえると 経済学の《はじめ》の想定は 主観の 無力の有効を――ここでは 価格決定にかんするスサノヲ要因のそれを―― 人びとは じゅうぶんにしっかりと わが身に引き受けているということである。
この有効が喪失したのではなく 人びとの価値の充足に 不足が生じていた もしくは 充足のやり方にルール違反が(悪貨としての主観が)あったというだけである。利潤は この悪貨としての主観が考えるところのものであるから ただちに追放せよというふうには 言っていない。そう言って 社会主義経済を志向する人びとは いる。そして この議論に対してもまた 利潤をゼロとまなすということは そういうかたちで概念としての利潤を 先に持って着ているおそれがある。おなじように利潤が 経済学の《はじめ》になっているおそれがある。利潤が復活する事例さえあるのである。
おそらく こういった議論の中味に対して まずあの《はじめ》の出発点を立てたわたしたちは 《広義アマテラス価格》という言い方をしたほうがよく さらにこれを《インタスサノヲ価格》とまで言いかえておくほうが よいと思われたのである。アマテラス価格が 経験的に実際であるならば あるのだから そのような市場必然の中に利潤をみとめ追求するということも 圧倒的に有力である限り――また計画経済で 利潤をゼロにしようという 利潤の概念が もちろんネガティヴにだが圧倒的な有力をもっている限り―― なにが経済学の《出発点》であるかを 吟味し確認することは 大事である。つまり 利潤を追求する――その意味で おそらくまちがって 利潤を経済学の《はじめ》とした――経験的な意味での悪貨という主観 この主観も じっさいは 価格という観点から見たときには まったく無力であるかに見えた《インタスサノヲ価格》(主観による価格の決定)ということを 知っているし まさに実行しているのである。だから 利潤という分析道具をもってくるときにも アマテラス価格とかインタスサノヲ価格とかという分析視角は それとして 有効である。――奇術の第二の成功。
一般に 価格の利潤部分は アマテラス要因である。それを 一人ひとり個別に追求するところの また スサノヲ要因でもある。このばあいは 交換価値(これをとおして 利潤が実現される)というものじたいを 自己の主観の使用価値とした というところのスサノヲ要因である。もちろん 価額としてそれが マイナスまたゼロである場合を 排除していない。
狭義のアマテラス価格つまり利潤は 価値の[創造および]充足行為に際して その充足行為が一般的な交換の過程をとおして おこなわれるとき それつまり利潤を 本質的な――スサノヲ自己の存在にとって本質的な――要素だとする考え方に もとづいている。これは おそらく 転倒した考え方であろうとおもわれるが 転倒( quid pro quo )であるならば 分析視角じたいには 罪はない。ただし 市場価格という概念に対して 使用価値・交換価値そして自然価格といった視点をもってくることは 意地悪く言えば 哲学的に内向・内攻また内閉していきがちである。利潤という概念にも 罪はないが そしてこれは 経験現実の一部でさえあるが もし問題が その経験現実の中の概念転倒にあるのだとしたら 利潤という見方では 現状を――ネガティヴにしろ――追認したことにしかならない。利潤は 《はじめ総体》そのものではないし 使用価値がス産を主体の使用行為というときのそれ(使用価値)で 自然価格の自然がスサノヲ要因に近いとしても 《使用》も《自然》も 人間そのものではないのと同じように 《利潤》も わたしそのものではない。
価格は スサノヲ主観要因を基体とし アマテラス客観要因を容れて 事後的な分析のうえでは 決まるのであり それを 広義にアマテラス価格と言うことができるし さらにこれを インタスサノヲ価格と言いかえることもできる。そして このように捉えた価格は 現状追認としても 価値本体であり さらに《主観》という概念の領域いっぱいにまで 広がり得て ほとんど人間そのものであるとさえ言っていくことができる。
転倒現状として おそらく そうであり 転倒を正したすがたにおいても いくらか中味に変動を生じつつ そうである。中味に変化を生じるというのは 価格が 動態・行為過程としての価値の 位格・性格またその段階であるとか情況ごとの位相であるとかと見なされるようになり ほとんど 言ってみれば 人格というのと同義語となるからである。
《経験世界のはじめ》において 人間も 時間的すなわち可変的であったからだ。人格は 転倒なら転倒を正しうる 転倒を転倒と認めることができるという点で またこの点でのみ 表現上 不変的な本質をもつをさえ言わなければならないようにして とうといのである。すべては スサノヲ主観の動態の中にあり――要するにふつうの社会生活の中にあるり―― 価格としては すべてが インタ(相互関係)スサノヲ価格なのである。
やや観点を変えることになるが 価格が スサノヲ要因のみから成る場合は 言ってみれば単純再生産の過程であり それが アマテラス要因をも含めているとき 拡大再生産の過程にあると おおざっぱに(または それらの概念を誤解して) 考えられる。
単純再生産の過程でも 価値の総体・だから価格の総量が 拡大することは ありうる。スサノヲ要因(主観の需要・したがってそれへの供給)じたいが 増大することによって また単純に 人口が増えるといったことによって。
したがって 今度は アマテラス価格というものが それは 価値として あたらしく増し加わる内容部分だとすれば――なぜなら スサノヲ価格の単純再生産つまり 一人ひとりの主観要因のみが 自由に 発揮されていて 《はじめ社会の総体》がいとなまれるという場合にも 消費者と供給者との分業があり交換があるとするならば その客体情況の客観アマテラス要因は なんらかのかたちで・つまりそれがゼロだとしても すでに認められ得る これをとおして スサノヲ価格を増大させるということは アマテラス価格という内容部分が増し加えられると考えることができる。できるとすれば――
しかしながら この例のばあいでは それは スサノヲ要因が それそのものとして 内容的に増大するのだと 何の困難もなく みとめることができる。
どうして こんな回りくどい言い方をするかと言うと アマテラス要因・したがって利潤は このような単純再生産の《はじめ》情況から とうぜん 出てきたものだからである。殊に 産業を興すようになって アマテラス要因が 飛躍的に伸び ここで言う拡大再生産の過程に入るわけである。
ところが すでに 単純なスサノヲ価格にもとづく再生産過程の情況でも 価値の増大・発展があるとするならば ただ潜在的にだけでもあったとするならば それを 拡大再生産と区別して 単純再生産なのだと 言わないほうがよいかも知れない。要するに すでに《はじめ》から・また歴史の初めから スサノヲ要因だけではなくアマテラス要因があったし インタスサノヲ価格というかたちにおいても おこなわれていたと見ることができる。《はじめ》において 人びとの経済学過程は スサノヲ要因〔の創造・充足行為〕じたいに アマテラス要因を人びとがはたらかせて生活する歴史である。
アマテラス要因は 客体の客観的な認識のことであり 人に即しては 精神のことを言い――と言っても スサノヲというわたしが 精神的な存在であり―― このとき モノゴトの客観的な認識には 人のスサノヲ主観おのおのに 度合いの差異があったとしたなら――あったであろうから―― このアマテラス要因〔をはたらかせて実現しようとするところの狭義のアマテラス価格〕は 時にしばしば あくまで経験行為のうえで 利潤をもったであろう・利潤が過程段階の差といったかたちで 生じたであろう。
この意味で 悪く見なければならないと同時に 善く見てもよいというかたちで インタスサノヲ価格と言い広義のアマテラス価格と言いしても それは その社会構造的な過程は 利潤の創造の歴史でもあった。問題は 価値の充足において 不足があった 不足を訴える人びとのほうが 圧倒的に多かった すなわち 《はじめ総体》の中で 価値の配分に 経済学として到らないところがあったか または同じこととして 価値充足の主観的な追求において ルール違反があった・すなわち 悪貨〔としての主観〕が良貨を駆逐したか である。
このような歴史過程に対して われわれが言うことができるのは だとすれば そこでは価格というかモノコトの値段が ほとんどそのまま価値であるという《はじめ=社会総体》の過程的な内容が 現実の人びとのいとなみである――分析概念として そうである――ことである。価格が人格であるならば あるいは人格から捉えられた価格であるならば 貨幣が出てきた段階ののちでも 貨幣は 通念として――またその通念を利用するかたちで―― 用いられているか それとも まったくなくなっているかという経済学的な現実は 理想でもなければ 或る理想が実現したというふうに捉えられる・将来すべき《はじめ》の像でも ないだろう。
すなわち 経済学の――つまり 人間・社会にとっての――はじめが つねに 動いているのであって この歴史過程は それじたいにおいて=すでに 上の事実内容を 少なくとも 潜在させている。つまり いまのアマテラス価格=利潤は 《価格=貨幣》的な価値の所有関係のなかで スサノヲ要因とは別個に 創造・交換・充足されているが その広義のアマテラス価格を 広義にインタスサノヲ価格として捉え返してみるなら 上の経済学的な現実を ほかでもなく いま 用意している。
《価格=貨幣》的な価値の所有関係(その法律制度また法治社会)のなかで 価値充足の過程に 主観内容の相互のあいだに ある種 決定的な差別・矛盾があるとしたなら これは アマテラス価格の決定の仕方の矛盾とその仕組みにあると考えられる。そのあとに 権力などが かかわってくる。
われわれの《はじめ》は 法治社会がひとつのその行き方であるとしたなら ただし法律じたいは このアマテラス価格の決定の仕方の変革とともに あたらしくしていけばよい。
(この章のおわり。次章につづく→2006-12-03 - caguirofie061203)