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哲学いろいろ

#84

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Beth Shean, panorama

第三部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイスム

第四十六章 母斑の世界における昼と夜の分別ではなく 前史から後史へという動態の問題

――アウグスティヌスパウロ――


つぎの見解はまちがいである。つまり

世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
マルティン・ブーバー我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)第一部・冒頭 植田重雄訳)

のではない。あるいは

人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて 二つとなる。
(同上)

のではない。《昼と夜》は世界に在るが また《根源語の二重性》すなわちわれわれの考えでは 《アマテラス語(普遍客観抽象語)とスサノヲ語(人間語)》はわたしたちの口に在るが これらに《もとづいて 二つとなる》ではない。《ブーバー先生 誤魔化せり》である。

《根源語》(――人間の言葉というほどの意であろう:引用者――)とは 《単独語》ではなく 《対応語》である。
(同上)

のではなく 《単独語》すなわち《異言》も 《根源語》なのである。異言は 人にはわからないというに過ぎない。しかも 人間の根源語でありうる。

根源語の一つは 《われ‐なんじ》の対応語である。
(同上)

ただしい。《われ》に重きを置いたことばは スサノヲ語である。重きというのは なんらかの実体 虚構であっても虚構として世界に存在するという実体を認めることを意味する。要するに 主観のことである。《われ》なる主観を 《なんぢ》の主観とのかかわりにおいて 述べる言葉は インタスサノヲ語である。
スサノヲ語(人間語)と インタスサノヲ語とは ほとんど同じである。わづかに 次の定義から 独りとしての主観もしくは異言も ありうる。《人間は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である》とのわたしたちの定義にもとづいて 後者の独立主観という側面も 認めうると思われる。
しかるに 《われ》の主観を 《なんぢ》の立ち場から――または その逆のかたちで―― 《思いやって》言う言葉は アマテラス語である。(こういうふうにも 定義しうるであろう)。ここでは さらに悪い側面を取り出すならば 主観どうしの交換がおこなわれている。思いやることと その思いやって捉えた相手の主観を 自分の主観であるかのごとく 述べることは 自らの身体を空気のようにして認識し表現する・しかも自己表現をする抽象アマテラス語である。
このとき アマテラス語は 概念として 公民性・客観性・抽象普遍性などを言おうとしているのであるから 交通=主観の共同化の手段であるとか 中性の基礎概念であるとかの一領域において その固有性を確保しておくべきかも知れない。ただ すでに わたしたちは そこに性が存在しない神の似像=自然本性を想定しているものの 言葉は或る主観によって発せられるなら すでに 性を持って 発語されていると見なされる。またはそのこと(或る主観による発信)によってむしろ人格をになって 主観共同化=交通 の場そのものにおいて  発語されていると見なされる。
このとき アマテラス語は いい意味でも悪い意味でも 《思いやり》のことばでありうる。物理的な(化学・生物・地学等としてもの)科学が発するアマテラス語も おおきくこれである。あるいは ただ何らかの観念をおおいかぶせる場合は――つまりたとえば《和を以て貴しと為す》なる観念を外から上から心理の中へ 入り込ませ 共同化する場合―― それは 思いやりであると同時に スーパーアマテラス語なる共同観念でありうる。

  • つまり 一人のスサノヲに 共同主観としての《和》の尊さを 呼び起こすように発せられたなら 思いやりであり 自らの意見を その吟味を省いて 通そうとして発せられるときには 単なる蜃気楼蔽いである。アマテラス語弁論術の単なる手段である。

この交通の場で 互いの主観のあたかも交換の関係において 相手の主観を先取りしたほうが ただそれだけで 自分の主観(欲するところ)をおこなおうとするのなら その言葉が 《対応語》であるかどうか どのように対応しているかを 確かめなければならない。
しばしば 《先取り》の弁明に アマテラス語としての《思いやり》であるのだという別の内容が用いられる。スーパーアマテラス語として むしろ《思いやり》の押し売りであったとしてもである。むしろ思いやりの押し売りであるからこそ アマテラス語の弁明手段は 精密なものとして磨かれてゆく。
《和》は 根源語・スサノヲ語の中にこそ 備わっているのだから ひとこと 喚起してやればよいのだ。かぶせる必要はない。泥棒でさえ その分捕り品を 仲間内で 平等に・役割に応じて分けようとするという和を貴ぶという見方が よく引き合いに出されるところである。 
《われ》も《なんぢ》もみな ひっくるめたアマテラス語概念によって 或る客観ならざる主観 主観ならざる客観を 自己の主観だと錯覚して もしくは 相手に錯覚させて 自己表現するばあい その言葉は 明らかに スーパーアマテラス語である。身体としてのスサノヲ語は そのとき 空気のように 雲をつかむように アマガケリしている。その雲の上から やさしい思いやりの言葉をかけてくる。
はじめに戻ってまづ スサノヲ語・ことに インタ(対応)スサノヲ語を 《自己を向上させるために》発する言葉は 異言であり 単独語である。じっさいには わけの分からないことばである。すでに言ったように これも しかしながら 人間の言葉であり 根源語だと言いうる。預言つまり解釈が必要である。

他の根源語は 《われ‐それ》の対応語である。
(同上)

とブーバーは言う。

この場合 《それ》の代わりに《彼》と《彼女》のいづれかに置き変えても 根源語には変化はない。
(同上)

と。
まづ 《〈われ‐それ〉の対応語》は ヤシロロジの言葉であると従来はされている。しかも 科学的な客観語(その意味でのアマテラス語)としての主観スサノヲ語である。なぜなら 《われ(S語)》と《それ(客体およびそのA語による認識)》とは 対応しているのだから。
しかるに 《〈それ〉の代わりに〈かれ または かのじょ〉に置き変え》たとき 根源語に変化は生じる。あるいは 別に言いかえると そう置きかえたときには すでに《われ‐なんぢ》対応語と あまり 違わない言葉となっているであろう。そうして 極端に言うと 《われ‐かれ(かのじょ)》対応のばあい 実際には これは単独語ではなく対応語であるとしたなら ここに《なんぢ》は 目の前に存在するか もしくは何らかのかたちで 想定されているかであろう。
このとき――極端に言うとすると―― 《われ‐それ》の《それ》の代わりに 《かれ・かのじょ》を置き換えると それは《われ‐なんぢ》と同じような情況になると捉えられる。《われ》が《かれ・かのじょ》に対応しているというのは 一般に 《なんぢ》を そこで相手にしてそう言っているのであるから 同じ情況であるとまづ言わなければならない。しかもそのような類同性に限られず もしスーパーアマテラス語が用いられるとするなら 次のような事態も生じているように思われる。
すなわち その対応情況の中の《われ》が話していることにまちがいないが それにもかかわらず 分析するとすれば そうではなく われの代わりに 《キリスト》または《マルクス》なる《かれ》 あるいは 《夫なり妻なり社長なり黒幕なりなる〈かれ または かのじょ〉》が しゃべっていることになる事態だ。雲の上から 第二階A圏から そのスーパーA語が 《思いやり》のメロディとして 語られ 聞えてくるのである。この問題は 先に延ばそう。
これらは あいまいなスサノヲイスムとしてのアマテラシスム語 あるいはスーパースサノヲイスム語 あるいはもっと単純に奴隷の自由に立つスサノヲ語(スサノヲ語以前としてのスサノヲ語)になりうる。植木枝盛のばあい 《われ(自己)‐かれ(民権自由家としての或る別の自己)》対応語に そして 河上肇のばあい 《われ(自己)‐かれ(経済学者としての自分)》対応語に それぞれ なりうる。
だから 《われ‐それ》対応語は 一般に自然科学〔これをそのまま適用したものとして成立可能なら その社会科学〕の言葉であるが この《それ》に《かれ なり かのじょ》なりを置き変えるなら 変化は生じる。そして後者はむしろ 《われ‐なんぢ》対応語とそう変わらない。――これらの整理は さらにあとに延ばそう。


わたしたちは 《われ‐なんぢ》対応のインタスサノヲ語が 《われ‐それ》対応のヤシロロジ語になりうると言ったのである。両者は 別個のものではなく 従来の考え方に立つ科学的客観A語によって成ると言われるヤシロロジ観を 止揚したい。なおも わたしたちは 従来のヤシロロジとその成果を このとき わたしたちの前史として 後史において 用いることが出来る。――ただし 《わたし‐それ》対応のヤシロロジ語においては 試行錯誤・多種多様な対立性をまぬかれない。逆に言って 多様なヤシロロジ語を生起させ存在させるというほどに インタスサノヲ語共同主観根源語は 一つである。
このとき 単独語は 異言であり 対応語は 預言である。共同主観は 単独語・異言を語りうるというほどに 一個の独立主観において 対応語・預言を語りうる。つまり 共同主観である。単独語も 根源語であり 共同主観である。A語客観共同は 前史である。スーパーA語は 母斑である。スーパーS語は 母斑に対抗する母斑予備軍である。理論共有としてのA語客観共同(いわゆるマルクシスム)は 一方で 《われ‐それ》対応においてS語の真実を問い求めまたこれを表明しており 他方で 《われ‐かれ》対応のA語(アマテラシテとしてのかれマルクスを言う)客観共同が 主観共同だと錯覚している点において――むろんいわゆるキリスト教とて同じだが―― この真実があいまいであり 両方まとめて インタS語であろうとするあいまいなインタA語である。


《したがって人間の〈われ〉も 二つとなる》(ブーバー)気づかいは 無用である。《一つなる人間の〈われ〉――わたしでないわたし――》のもとに A‐S連関を基軸としたいくつかのその連関の転倒形態があるのみだ。
《なぜならば 根源語〈われ‐なんぢ〉の〈われ〉は 根源語〈われ‐それ〉の〈われ〉とは異なったもの》(ブーバー)ではまったく無いからである。
《〈われ‐なんぢ〉‐それ》の諸連関から成る各独立主観としての《われ》の総体――《社会的諸関係の総体》=やしろ資本連関――が この世界にはあるだけなのである。
やしろ資本は 連関構造ではあるが 時間的・歴史的過程であった。おのおの《われ》が やしろ資本家として 前史と後史とを歩むように やしろ総体(エクレシアおよびキュリアコン)にも この栄光から栄光への移行の歴史があると考えられた。
けれども これは ヤシロロジの問題ではなく――まづ そうではなく―― やしろ資本の推進力 すなわち愛の共同主観的形成としての歴史的進展であると考えられた。この心を 観念論だと言う人は さらに話し合いをすすめるべきである。わたしたちを打つべきである。そうでなければ 誤謬に満ちた・偽ってアマアガリしたやしろ資本家が 自己の墓穴を掘るというさばき(捌き)(三位一体論13・13・17)は起こらない。《収奪者が収奪される》(資本論1・7・24・7)という事態だと思う。
そこで わたしたちは 次のブーバーの一節を 前史また母斑として見ることができる。

世界は 人間のとる二つの態度によって 二つとなる。
人間の態度は 人間が語る根源語の二重性にもとづいて 二つとなる。根源語とは 単独語ではなく 対応語である。
根源語の一つは 《われ‐なんぢ》の対応語である。
他の根源語は 《われ‐それ》の対応語である。この場合 《それ》の代わりに《彼》と《彼女》のいづれかに置き変えても 根源語には変化はない。
したがって人間の《われ》も二つとなる。なぜならば 根源語《われ‐なんぢ》の《われ》は 根源語《われ‐それ》の《われ》とは異なったものだからである。
(ブーバー:我と汝 第一部)

根源語つまり人間のことばにかんする類型的な整理は さらにもう少し延ばそう。あるいは すでに為したであろう。
だから 人は

ああ いかにわたしが叫んだとて いかなる天使が
はるかの高みからそれを聞こうぞ? よし天使の列序につらなるひとりが
不意にわたしを抱きしめることがあろうとも わたしはその
より烈しい存在に焼かれてほろびるであろう。・・・
(R.M.リルケドゥイノの悲歌 第一の悲歌 手塚富雄訳)

とは ゆめにも思うなかれ。また 《焼かれてほろびて》よいのである。
《天使が 聞》かなくとも 《われ》が聞いたのである。なぜなら 《われ》は 《天使の列序につらなるひとり》によってではなく 《やしろ資本の推進力》によって――天使は かれの み使いであるから―― すでに《焼かれて〔昔のふるい《われ》は〕ほろび》てしまった。
《天使》を言うことは 母斑であり 《天使》じしんは 母斑を母斑だとして告げるみ使いである肉体と知能と霊魂をとおして 理性的にまた可感的にわたしたちに 告げる存在である。(と表現してとらえるということである)。

天使たちは皆 奉仕する霊であって すくいを受け継ぐ(アマアガリする)ことになっている人びとに仕えるために 遣わされたのではありませんか。
パウロ:ヘブル書1:14)

だから わたしたちは あせって嘆いてはならないし まして直ちにみづからの力で かれら(天使たち)と同じ上なる場所へアマガケリしていこうとは思わないし けれども 地の低みに走りゆこうとも思わない。
いったい誰が この一つのインタスサノヲイスムの愛を 資本連関を 逆立ちさせたのか。この愛に 焼き尽くされ あたらしく燃え立たしめられる一つの道を 阻もうとするのか。わたしたちは リルケの詩の上品な下劣性を捨てるべきである。つまり およそウェーバーのヤシロロジと変わりないであろう。ブーバーのA語理論を 記憶のかなたへ押しやることができる。
けれども ブーバーやリルケは ほかならぬわれわれだった。マルクスは 預言して 《自然史過程》としても・A‐S転倒連関を排除しない資本諸関係がただいまの歴史(つまり わたしたち自身)だと言った。なぜなら 天使たちを遣わすそのお方である愛は その愛からの愛を 肉につまり人間に造った。《愛》と《愛からの愛》との交わりである愛を 人間が 転倒の転倒をよくするための《保証金 arrabon / arrhes / earnest / Pfand 》また 《弁護人 parakletos / paraclet / Helper・Comforter / Stellvertreter 》として遣わされた。転倒を容れた自然史的過程としての前史に わたしたちがいるのでないなら アマアガリする後史への《手付け・保証金・買い戻し金》は 要らなかったであろう。だから リルケやブーバーは わたしたちの母斑なのである。
けれども この母斑の世界からすでにわたしたちが買い戻されていたのでないなら アウグスティヌスマルクスも 預言しなかったであろうし かれらの預言がでたらめであったということになるばかりか キリスト・イエスは 大ばか者だということになる。けれども ブーバーもリルケも この方を指し示すことを欲したのではないのか。
誰が この道をはばむのか。
誰が 《あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり》ということばを 信じたのか あるいは 信じなかったのか。

(つづく→2007-03-18 - caguirofie070318)