caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《価格》に対するあたらしい見方a

つづいて ここで 価格指標を 用いる場合と用いない場合との いわば二つのシナリオを描くようにして 価値の創造・享受の過程を 考察していきたいとかんがえる。
第一は 価格というものを まったく用いないという場合のシナリオである。したがって 貨幣的な価値額 だから貨幣そのものを この世から すべて なくしたという場合の想定なのである。
この場合 モノ・コトは ただ長さや重さまた単位時間によってのみ 測定されて 人びとは 生産されたものを 交換・消費するということになる。卑近な例でかんがえてみると いま 食べ放題・飲み放題の販売がおこなわれるとする。もし それでも その食堂の経営は――いまは 貨幣で売買するときの例であるが―― 成り立ちうるとするなら その食べ放題に対する価格は とうぜんこのケースでも 一定の値いとして きめられているわけであるが このケースから いまの価格をなくしたという場合を想定してみる。だから このように価格なしという社会のあり方を想定し 類推してみると ちょうどこのケースにおける一定の価格というものは その想定シナリオにおける一時点ごとの生産数量の総体というものになると考えられる。総体の単位あたりの値いということになる。つまりまた この供給量も その決定にあたって 需要量の予測と連動しているはずなのだから。
もし 予測の当否 そして実際にどういうかたちで各量が均衡しあっていくか難しいことを考えずに 試行錯誤(つまり 《はじめ》の過程性)にのみ立つとすれば 言いかえると例に挙げた食べ放題の食堂の経営が それでも 成り立つとする限りでは 想定シナリオにおける価格無しの価値生産と消費も 社会全体的に成り立ちうるという考え方である。
つまり 生産物の目に見えて有限な段階において たとえ 需要が供給を上回っていたとしても 能力に応じた価値の所有・使用が 過程的に構造的に 成り立っていくであろうというシナリオである。人びとは(消費者)は 企業(生産者)は その必要に応じて 貨幣を媒介することなく 求めるものを手に入れ(――つまり 不足のばあいは その生産を待っており または 不足をともないつつ 既に生産されたものを配分させており――) おのおの主観内容の充足を 過程的に推移させていくというシナリオである。
この単純な想定を 非現実的とは見ない。考え方として 理由のないものとは しない。それは 価格が 価値の単なる指標であるということ そのような現実の 少なくとも抽象的な考え方として 単なる言い換えにすぎないと考えるから。価格指標が有力で 各経済主体の主観が 有効の無力とされていても 無力の有効としては 有効である。つまり 主体の主観は 存在している。無力でもその主体は 存在している。のであるから この現行の場合でも 供給の有限性によって 不足は生じており 有限な供給量の合理的な配分という経済学過程には よっているはずであるから。所有権という概念が わづかに 変わるだけである。
いや 所有権ないし占有権の概念も変わらず その評価が 貨幣価額によらなくなるというだけである。つまり 時間と空間(長さ・重さ)との単位基準によってのみ測定されたところの価格(価値の位格・性格)といった指標が 価値本体とみなされるというだけである。
指標が本体そのものと見なされるのは 現段階でも 客体に即してという前提は ないわけではないから。つまり この想定シナリオでは まだ 主観の無力の有効が ただちに有力の有効として実現するとまでは 言っていないのであるから。
だが もし――今度は 第二のシナリオの想定として―― 価格が なお通念じょう なるほど便利な価値の指標だとみるばあいには したがって この通念も 通念として存在するかぎりで わたしたちは もちいなければならないかも知れない。(長さ・重さだけでは 統一的な共通の指標になりがたいかも知れない。)この第二のシナリオも 上の第一のと 実質的に ことは それほど 違わないのである。わづかに 価格なしという抽象的な現実が このばあいには 価格を方便とするという通念をとおして 実現するとさえいった事態をさして 言っている。
言いかえると 価格が用いられるばあい 二つの想定においてそれぞれ 貨幣単位による評価額も時間空間単位によるそれも――上の議論に反するようなかたちででも―― それほど互いに ちがわないであろう。第一の想定シナリオの中で見た議論を 同じくひるがえして言おうとおもえば どちらのシナリオ想定においても 所有という概念に 変更を生じていることになるはずである。かんたんに言えば 価値の客体すなわち 価格(広義の価格)的なモノ・コトを所有するというのではなく そうではなくなり 価値の使用=享受行為 これを〔客体としても 捉えつつ〕 所有していくということになるはずである。
主観内容の充足行為・その過程 これが 所有の対象となるのである。自由な主観が有効であるとき つまり わたしがわたししているとき わたしは 客体たるモノ・コトを所有するのでさえなく その充足行為つまり動態としての価値行為を所有していく。そのために 交通整理の一手段として 通念上なるほど便利な指標である価格が用いられるのなら そうしていけばよい。
これは 人間が変わるというふうに説明したほうが 早いかも知れない。
経済学は ここで あたらしく 生きつづける
はずである。つまり 上の二つの想定シナリオは 想定じたいに 意味はない。これが われわれの積極的な結論であり始論である。つまり 理論のおよび政策のあたらしい展開は まだ 何も言っていない。以下 この結論に立って 手がかりを問い求めていきたいと思う。


   ***


結論内容を整理することから始めよう。
価格は 価値の指標である。
価値とは 主観の目的遂行の――そこに 一目標ごとの充足 あるいはまた 不足・だからそれの充足への再発進があるその――行為であり 過程内容のことである。この価値は 客体(モノやコト)そのものとして あるいは そのような客体の所有行為をとおして 主観が抱くところの(心と身体にとっての)行為事実および意識内容のことである。または あった。
この過程的な主観内容を 指標によってあらわしうるという限りで 価値は モノゴトの値段のことであるとまで 極論されうる。実際の値段のことでなくとも 主観的な値打ち〔という指標ないし無指標〕のことでありうるわけである。これを 貨幣〔による評価額〕であらあwしているかどうかは 二次的なものにすぎない。
ただし この主観価値を 貨幣的な評価額で ずばり表わした場合でも 文学的なすぐれた表現をさえ 凌駕しうるかも知れない。《わたしは  主観が自由で(それは憲法も保証している)有効でしかないから 良心を売らない》と言う代わりに 《GNP(GDP)と同じ価額でなら――例えば三百兆円でなら―― お売りしましょう》と言うばあいである。
主観も――主体たる人間という存在の主観も―― 有限であるから・経験的なものであるから 一定の測定数値で・通念じょうのことばで 表現していくというやり方が 非文学的でも非人間的でもないことは ありうるとさえ考えられる。
ここで――その上で ここで―― 価格が価値の指標にしかすぎないということが あらためて 考慮されるべきである。価値(主観関係的な内容から見て)を表わす価格は とうぜんのごとく 時代と社会との 一定の構造過程のなかでも・かつ その構造によって制約された〔主観関係としての〕価格体系のもとで 可変的・相対的に きめられるのを つねとするからである。
この場合には 今度は あたらしいかたちで・しかも概念のことばとしては旧いものと同じかたちで 使用価値と交換価値とか 自然価格とか市場価格とかといった 価値の構成内容もしくは 価格の成立情況について くわしく考慮がはらわれなければならないようになる。
この点について ただしここでは 《価格の構成内容》を 分析してみることによって 追究しよう。価値の構成要因をではなく 価格の成立情況をでもなく 《価格の構成内容》を分析してみることによって。
価値の構成要因について また 価格の成立情況については やはり正面からは 問わないことにする。
価格の構成内容 というのは しかし とりもなおさず 主観の充足内容にほかならない。その数値化された形態である。のであるが 価格のと言うことによって 具体経験的であり 構成内容と言うことによって 主観充足の決定(評価)要因を 細かく分析するという意味である。
経験世界の必然の力によって 価格が成立してしまっている場合でも 主観の側から その構成内容・充足要因を 分析してみることは――あくまで 分析なのであるが―― 可能であろう。ただし それは 抽象的な概念になるがちな価値の分析ではないと断わることによって。
これまでの理論によると 価格の内容は スサノヲ要因とアマテラス要因とによって 構成されると考えられる。スサノヲ要因というのは 価格が あくまで主観的に――できる範囲で 主観的な判断を基本として――決定される部分を言う。主観が無力にされていて このスサノヲ要因が発動しない場合でも 分析のうえで――なぜなら それは 発動しないと言っているなら そう言っている存在は 想定されているから―― とりあげることができる。時代と社化会とのもろもろの――その現在時の――情況によって制約され その意味で 客観判断としてと言おうか あるいは 客体情況によって余儀なくされてと言おうか そのスサノヲ要因のほかに 価格決定がなされる部分があるとするなら それは アマテラス要因である。
このような分析視角は 上に言ったように 具体的な成立情況とか市場の動きに焦点をあてるのではなく しかもそれから離れず さりとて 価値の哲学的な考察を目指すというものでもない。この行き方にもとづくと――
すべての主観判断が なんら制約されることなく つまり言いかえると 長期的な視野をとってみて なんら制約されることのない主観判断が すべての価値充足の行為主体にとって いわば一定の落ち着いたかたちで 為されるとするならば この《スサノヲ要因価格》は 自然価格と言うに近い。この自然価格に プラスあるいはマイナスのかたちで 他の制約要因=つまりアマテラス要素の額が 付加されるなら その全体の価額は 《広義のアマテラス価格》として 市場価格と言うほどのことである。
また 実際の市場価格が 価値としては 交換のあとに初めて 成り立つものとすれば この《広義のアマテラス価格》は 交換価値をその基軸としている。用語の整理のうえでは たとえば価値の自給自足のばあいでも ただ一人の生活でないならば 使用価値ということにも ある種の交換の要素が 入っていると思われるから。そしてそれらの初めの価値の額は――つまり 生産の過程じたいの段階における あるいはむしろ 生産以前に或る需要として生じ始めた価値の額は―― したがって 《スサノヲ価格》であり(純粋にではなくなっているが そうであり) この生産の目的が おなじく主観的な(自己のあるいは他者の主観的な)使用にあるとすると その限りで 使用価値と相応する。
このように 価格が 分析の上で 狭義にスサノヲ要素とアマテラス要素とに分かれ その価格の全体を 広義のアマテラス価格 もしくは 広義にたとえばインタスサノヲ価格と言いかえて とらえようと わざわざ言うのは ほかでもなく 主観内容の観点からこれらを把握したいがためである。《経験世界》というはじめを立てたことは この《はじめ総体》が 一人ひとりの主観を超えた社会的な運動を持っており その意味で主観を制約するとしても 制約を受けているという他ならぬこの認識を持って 主観は いま経済学している当の主体〔のもの〕であるからである。この限りで 広義アマテラス価格 つまり価格を ――それを主観の一人ひとりは どうすることも出来ないという部分をみとめつつも―― さらに《広義にインタスサノヲ価格》とさえ言いかえてみるということである。
言いかえだから 可能であり 現実を離れない。スサノヲは この意味で 経済〔学〕主体つまりわれわれ一人ひとりの存在のことである。わたしは まるで奇術師のようになってきたが もっと先へすすめなければならない。
客体的な情況の自己運動してのように成立する価格の 客観的な認識は アマテラス要素であり その価額は 広義アマテラス要素ないしその価格の把握というコトは スサノヲ主体がおこなうのであるから スサノヲ要因が無力にされていても その存在を前提する限りで 同じ価格を インタスサノヲ価格とも呼んでみるということである。つまり スサノヲ主観は アマテラス価格に対して無力であるが その客観認識の能力たるアマテラス要素――つまり 精神ないし知性ということだが―― これは 客体に固有のものと言うよりも 主体の持つものである。スサノヲは アマテラス契機を すでに自己の内に持っている。これは まったく当たり前だから 手品な成功した。
このインタスサノヲ価格という呼称は・・・
(つづく→2006-12-02 - caguirofie0611202)