caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《価格=値打ち・値段》

《はじめ=社会総体》としての主観関係におけるおのおの主観の充足は その内容として 価値をとおして 測られる。あるいは 主観が判断をおこない それを《測る・量る》ということばで表現するとしたならば その対象内容を 《価値》と言うといったほうが 正確であるかも知れない。それは 抽象総体的なまた抽象個別的な考え方としての価値判断にかかわって その相対的な・過程的な正解といった精神のことがらを排除しないで ふくめて 具体的なモノ・コトをとおした価値の 主観的な(個人的な)消費=享受が 主観充足の内容である。あるいは 同じようにもっと正確に言ったほうがよいとしたなら
主観の――むろん生活をとおした――動態・その自己実現が すでに過程されていて その内容・つまりだから充足の内容を 特に客体に注目して 表現しなおそうということになれば 具体的なモノ・コトをとおした価値の 生産と消費 といった享受(よろこび)の歴史なのである。モノの生産つまり労働行為も 価値の生産というよりも  《はじめに自己実現した(または するであろう)主観の動態があって それは とりもなおさず 価値で充足されていて(または その充足する過程にあって) 価値を享受している そこに 労働行為も
おこなっている》と見たほうが ただしい。
抽象的に言えば 《はじめに わたしが わたししている ゆえに そこで わたしは はたらく》。経済学の出発点としての《はじめ》は この人間の主観過程を 《社会的な経験世界》に限って とらえるということである。主観過程が実現されている(わたしが わたししている)ということは おそらく むき出しのままの《わたし・主観》ではないであろうから――《わたし》ないし《自我》を 直接あつかう文学でさえ 虚構をとおすのだから むき出しの《わたし》を留保し滞留させてもいるように そうであろうから―― 経済学は 具体的な価値をとおして その交通整理を直接の任務として したがって 特にはコト・モノの客体的な面での主観充足をとおして 全体(大前提)の主観過程の実現に あづかっていく。
この価値の指標には 通念として 価格がもちいられる。価格は 広くとれば 交換価値――具体的に交換に供されたときの価値の貨幣数値的な形態――だけではなく 利用価値といった主観内容を ふくんでいるであろう。
利用(使用)価値といった一つの主観内容も 《価値》そのものではない。《主観内容》そのものではない。なぜなら 理屈を言えば 値いというモノがではなく 利用=享受というコトが・つまり主観の――主観じたいの――充足行為が 価値だから。価値は 《はじめ》に 動態である。主観内容は 行為過程である。
《使用価値》とすでに言ってしまうならば それは 観念である。利用価値は 交換価値よりは ずっと主観に近いけれど まだ その内容の指標であり観念である。交換価値は 客体のほうに近い。客体を 客観単位によって測定するという技術的な前提に立って 価値をあらわそうとする指標である。
価格は もっとも具体的な・また経験現実的な 価値指標である。おおよそ 交換価値の数値化されたものであり ただし 使用価値という観点・要因が まったく排除されているのではないだろう。客観技術的に数値化された交換価値からのみ成り立っていたとしても その価格は あたりまえのごとく 使用されることを予定して 決められており 使用価値(これは 個人差のある主観判断によるところが 大きい)の要因に対して 無神経なのではない。
逆に言いかえると 《使用価値》といった場合も――《価値》をすでに《使用価値》という一面からとらえて 言った場合には―― 社会が分業から成り立っており 生産されたものが 市場をとおし交換されるのであるならば むしろ 表現じょう 《交換価値》と言い変えていてもよいほどの概念を それじたいの幅として持っている。またそれは 使用価値ということが やはり指標であり観念となっていることを しめしている。
もっとも 交換価値と使用価値とは 一般的に言って 客体に近いか主観に近いかで 区別される。そして 客体に近い交換価値といっても その客体の客観的な評価額は 主観が決めるのである。すでに市場が成立していて その必然の法則の有力によってのみ 客観的に値が決められるという場合も 主観が 無力となっていて 決定権を持たないとしても そのような無力のうちに 客観値に決めることを余儀なくされていると認めて 決めているのである。受け容れるのである。主観は 無力のうちに 有効である。使用価値も この無力の有効である主観に近いといっても 自給自足でないならば 客体の側に近い交換価値ということを 考え(主観)のうちに入れて 通過する。
使用価値も交換価値も このようであって すでにそれぞれが 指標となっているのならば 乱暴な議論では 価格という価値指標と同じ概念であるというところまで ひろがる。つまり ここで 極論していえば 価値とは 客体に即してみるかぎりで むしろ具体的に モノの値段であると言ってしまっても よいかも知れない。これは しかしながら 客体だけの問題であるにとどまらず その価格を 動態としての主観のなかに・その充足過程のなかに とりこんで 捉えられる。この限りで 価格が価値である つまり指標が本体である。じっさい 交通整理にその指標として貨幣(貨幣価格)が用いられている現段階では そうである。それでいいというのではなく――しかし ただちに それではよくないと言おうとするためでもなく―― まず このことを認める必要がある。そこから 出発・再出発する。指標が本体であるということは 指標はやはり指標であるという見方を・つまりその見方を保持する主観の有効性を――それは 無力にされているけれども―― うしなったわけではない。《はじめ動態》に立つ経済学が いまの段階で こういう情況にあるというにすぎない。
客体としての価値はまた そのように価格で表わされるならば おそらく 長期的な推移過程の幅をもって(自然史的な過程として――ただし この《自然》がまた 観念でありうるわけだが――) 自然価格のことを言うのであろう。使用価値から必ずしも離れるのではないであろうところの交換価値の 具体的な一時点ごとの成立は したがって価格であり市場価格ということになるのであろう。だから 上の議論にもとづけば 客体を問題とする限りで 市場価格が じっさいに価値をあらわしているのである。むしろ まず こう言いきったほうがよいと思われる。
そんなはずではないというのは 《はじめの経験世界》において通用する指標を 価格とは別の経験現実的なあたらしい指標を 政策として実施せよというかたちで 主張していなければならない。そうでなければ 《それではいけない》という価値判断は そのような主観の有効に立とうとした主張は まったく 空回りである。文学としては通用するかも知れないが だめである。長期的に自然価格に落ち着くといっても 落ち着くのは むろん市場価格としてである。自然価格とか使用価値とかと言っていても それらは指標にちがいはないだ これらを市場価格に――それが価値となっている市場価格に――代えて通用させよというのではないであろうから 主観の有効・有効な主観の 復権ではなく 有効性の哲学的な論証でしかない。まだ  《経験世界のはじめ》から出発していない。まだ その出発点において あそびがある。
《はじめの経験世界》に立つということは 主観自由の有効性を 裁判において 弁護・論証することではない。有効な主観に すでに 立つことである。もっとも そこでは 権力が(行政・政治・政策実施のことが)からんでくるが その問題・その領域が 《はじめ》なのでもない。経済学の歴史的な動態に まず立てばよいわけである。そして それには まず 現段階では 価格という指標が その本体の価値となっていて これが 経験世界の必然法則として 有力であり その前に 価値本体の主体である主観は 無力とされている ただし 有効でなくなったわけではないと 認め合わなければならない。これが 消極的には 《経験現実世界のはじめ》に立つということである。
いまは 市場価格が われわれの価値である。
で これ以上ここでは 使用価値と交換価値 あるいは 自然価格と市場価格などにかんすうる 概念的な考察をおこなわないとすれば 主観における価値の社会構造=過程的な充足については 価格という指標を用いるか用いないか 用い続けるとすれば・またもはや用いないとすれば あらためてどのようにか このことを焦点とした議論に 単純に 移るであろう。つまりこの議論は 見てきたように じっさい おこなわれてきているものである。そして それらに対するわれわれの 消極的な 結論としての主張は まず 《価格が価値となっている》とみとめる・これを はっきりと言う・これを認め合うという作業から出発するべきだということにある。暗黙のうちに認め合っていても だめであるし 公然のすがた・つまり《はじめの経験世界》では むしろ 主観の自由・自由なる主観を主張し 《実践》し その実践はあたかも そうではないのに 有効の復権だと考えている。つまり 経験現実では 一人ひとり個々に むしろ 有力となろうとしている 必然の有力のなかを泳ごうとしている。つまり 《価格が価値だ》を まだ みとめていないのである。
しかも 《価格が価値だ》は 必然世界の経験現実として 有力ではあっても 人間の有効ではないことを ほんとうは だれもが 知っている。むしろ それは 有力ではあっても 無効だということを 無効が実効性をもったものだということを 知っている。これに対して 自由な主観が有効であるならば 経験現実の有力を まず みとめなければならない。そう 言わなければならない。経験現実が・つまり《はじめ》の具体現実がそうであるならば そうだと見なければならない。これによって 有効がますます無力とされるのではなく 有効であるゆえに主観は これをみとめなければならない。さもなければ 経験現実の有力の間隙を縫って まだ 自分も 有力になろうと考えている。
つまり 無効になろう・無効のままでいようと《努力》していることになる。つまり その精神では 道徳的に 無効が実効性をもった必然世界の有力を 批難し その姿勢を見せ 自己を天使のすがたによそおい その《努力》はしかしながら 無効だという自己の経済学過程をたどっている。
多くの経済学説は もしそれらが あからさまに 自分も有力になろう・つまりお金を貯め増やし地位を獲得しようとするためのノウハウをおしえるというのでないとすれば ただ 理論的に 必然現実の世界の法則的な有力を 微に入り細をうがって 証明して見せているものである。変な言い方をすれば――変な言い方をすれば―― 《価格が価値だ》がもろに経験現実となっている市場経済に対して なるほど確かに 別の指標を政策実施させようと主張するいわゆるマルクス経済学にあっては あっても 実際には――変な言い方をすれば――現実に革命を起こす少なくとも用意があるというのでなければ 同じなのである。必然の国の圧倒的な有力を 変なかたちで 回りまわって 証明しているにすぎない。
あらゆる議論をうっちゃって まず 価格が価値なのだと モノの値段で人生が決まるようになっていると 認めなければならないし はっきりと口に出してそう言わなければならない。消極的な結論としては これで 足りると思われる。まだネガティヴなかたちだが これで わたしたちの《出発点》に立てるはずだ。これは 経験的な議論としては イデオロギになってもよいと考えられた。この《はじめ》を知っている人 すでに うっすらと そこに立っている人 これらの人びとは 経験世界のなかで しらけている。もはや しらけるという態度をとっている。もはや 無効の自由競争によって有力な精神の帝国をうちたてようとは思わず たしかに無効が実効性をもとうとするその偽装天使の道徳競争を放棄して ただ専守防衛の行き方のみをとっている。ただし このとき 《経験世界たる社会》に対する意味での《登校拒否》や 同じく《家庭内暴力》にまで《発展》するばあいは その気持ちはわからないでもないが――つまり 外なる必然んも有力が そこまでの自己防衛を課したと見られないでもないが―― それは 自分が弱いのである。あるいは そこまで野性的になれるほど強い自分がいるのであろう。さらにあるいは そうではなく 残念ながらまだ どこかで 通念にならって 自分も有力になろうとする考えがあって そういうかたちで たしかに《強い》のである。善い悪いを別にすれば――それは 法律・裁判の問題であるから つまり経験的にはその問題に限られるから 別にすれば―― そのようであるのが 実際なのであろう。
大見得を切ったので 価値の指標にかんして 積極的な実際を つぎに 議論しなければならなくなった。
(つづく→2006-12-01 - caguirofie061201)