caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《価値(たから・とみ)》a

経済学という知解行為また意志の行為は 一般に 《価値》を その具体的な対象内容とする。
知解および意志行為の基本的な対象は 《経験世界》というはじめであった。その内容としても 抽象的に 《主観関係の社会過程的な総体》である。具体的には 《価値》である。つまり《はじめ=社会総体またその動態》に対して そしてその中で互いに 関係するおのおの主観の内容が 具体的にまず 価値である。
われわれの《大前提》は 主体であり 人間である。《小前提》は 出発点としての経験世界である。小前提は 大前提から 主体の特に意志の側面を受け継いでいるなら――その意味で 経済学が 文学を一つの基軸としているなら―― それとしての《第一原則》を保持している、これは 主体の 行為全般をふくめた 主観(主観という動態)である。経済学は つまり言いかえると その小前提において 関係過程的な主観から 具体内容をとりだす。それは 価値である。具体という意味は 経験的というほどのことであり モノ・コトの個々の具体をさすこともあれば 経験世界の全体すなわち主観関係の社会的な総体をさして言うこともある。価値は 個々のモノゴトのそれでもあれば 社会総体的なそれでもある。この価値を おのおのの主観がとらえているというところが 大前提・小前提ないし第一原則が有効であるための場である。
《はじめ》の関係動態を 《価値》という視点から捉えていこうということである。
くどいように言いかえよう。《客体に対する主体の関係過程》 これが 主観であるが それは おなじかたちで《そのような主体と他のそのような主体との 社会的・歴史的な関係》のことでなければならないから この《主観の内容》としての価値は 《社会=歴史 としての現実総体》たはじめに そのまま かかわって 生じている。このことがまだ 最初の議論の言い換えにすぎないということは すでに大前提の抽象的な議論を 経験的なものごとに限ったと同時に ただモノとかコトとかとしての価値にまで限定したのではなく この価値を主観の内容とみることによって 人間の主観の場をあくまでも保持したいということであり 保持したということである。
主観の行為を 経験的な過程に限ったというにほかならない。価値イコール物 と言ったおぼえはない。と同時に 客体としてのモノとかコトとかに即して 価値つまり主観内容を 経済学は その具体的な――一般としての具体的な――対象とする。主観内容の中味は 価値の評定・選択そして生産と消費である。
文学は この前提のままで つっぱしることが出来る。一般に 日常生活も そうである。モノ・コトという客体じたいを ――主観の関係過程から どういうふうにしてか わからないが 離れて その意味で――客観的に 知解しようというのは 自然科学である。これにつられてかどうか 経済学は 価値つまり主観内容を やはり客観的に 測定し評価し また 操作する。これは 客体たるモノ・コトを 客観的に価値評定しうるという仮説的な作業をふまえて そうだというのである。だから この従来の経済学の考え方に対するわれわれの態度は 微妙である。
価値という主観の内容(形式でもある)を 客観的に認識しあえるというのは そのモノ・コトを 客体として(客体としての限りで) 認識しうるという――特に数値化しうるという――いま一つ別の前提に立っている。たとえば 主観の行為としての労働を たとえば時間的に――客観的な単位基準としての時間量によって測定し―― 認識しうるということであるとか さらに その労働によって生産されたモノを 客観単位としての長さや重さに酔って評価しうるであるとかの今度は技術的な前提に立っている。労働によって供給されるコト(サーヴィス)も 労働とかモノとかが 客観的な単位基準によって はじめの《関係総体》の構成内容(つまり価値)として 認識できるという価値観のうえに立って おなじく そこに 組み込まれている。
このとき 価値の源泉は 労働であったとしても 労働行為時間などという客観的な他に基準が そのまま 価値の大いさを決定するのではなく そうではなく 価値とみなされるべき具体的なモノ・コトの生産の有限性と張り合って 価値の額は決定されるというぶんには そのおうに説く向きには このような価値の額として 主観関係に内容が たとえば単位的な労働時間を一つの指標として 有限関係のなかで相互対立的に 動きあるかたちで 決められていくと 考えることも できるだろう。また 労働行為時間というのは すでにおこなわれた過去のではなく 未来のそれでもありうると考えられ これは その労働を産み出す現在の消費(再生産)行為の時間量であっても よいと考えられるから。つまりこれは 需要の大いさという一要因につながっていく。つまり 客観単位という一つの技術的な前提が みられる。
分析的には 価値が客観的に――あたかも自然科学のように――認識しあえるというのは このようにであろうと思われ 思われるのだが じっさいには はじめの想定において 価値は 全体として かつ 主観関係として あるので かあんらずしも 客観単位による測定が 絶対的な評価の基準だというものではない。そして このことも これまでの経済学は 知っている。
一般に経済学は この必ずしも客観単位による測定には片寄らない主観関係の内容である価値 その価値相互の――また流れの――いわば交通整理を おこなうものである。ここからは 文学を離れる。文学の行き方を禁欲する。つまり 意志(政策・ポリシでもある)の行為として 文学が 主観 対 主観の関係を 直接に扱いうるのに対して 経済学は これを 主観の内容つまり価値をとおして その交通整理をおこないつつ 目指している。第一原則が消えたわけではないと同時に それを留保している。

  • 文学も それにつられてか 主観と主観との直接的な関係を 保留してしまったとするなら それは 自殺行為である。もともと 第一原則に対するしかるべき禁欲は 作品として・つまり虚構をとおして文学するというかたちの中に おとなしく おこなわれているのであるから。

交通整理の指標には これまでの実際のところ 上に触れたような価値の客観測定値が――一般に労働行為時間価値のさらに貨幣的な評価額 つまり 価格が――用いられ この《価格》は たしかに あくまで価値の指標であって(主観関係の過程的な・さらには 一時点・一情況ごとの)内容を指し示すしるしであって) 指標にしかすぎないから したがって 経済活動の自由な競争であるとか 殊に 等価交換といった《指標にかんする理念(方針)》が そのとき同じく はたらいていると見なければならないが 通俗的に言わば この価格よりすぐれた《価値交通のための指標》は 見出されていない。
資源(モノ)やもろもろの生産(コト)の あるいは 生産の関係(コトガラ)の 合理的な配分などの指標となる国民総生産などといった考え方も 価格を 第一の(技術前提的な)指標としており その経済成長率といった指標も むろん同じ考え方の上に立っており また 自由競争から来る独占といった弊害をあらためるための考え方も やはり価格を指標として 実行に移される。つまり 価値の生産(さらに交換・消費)の社会的な動きの関係を整理する経済学は その価値の指標として 価格を用いる。
価格という指標が すでに旧い考え方にもとづいており もはやまずいものであるのか あるいは この指標じたいは それとして有効だが その用い方に どこかまずいところがあるのか等々は 追って 考察したいとおもう。

  • ただちに 改善策があるというわけではないということ。改善しなければならないものであるのかどうかも あらそわれるかも知れない。わたしたちの視点は いま 主観内容たる価値が 価格という指標によって 認識されるとき――つまり 客観単位によって測定され 殊に数値化されているというとき―― この価格が われわれ一人ひとりの主観の内容を映し出したものであるのかどうか これを問うことにある。価値イコール物ではないというのは 価格イコール価値ではないと たしかに 言っていることであるのだから そして このことは いまの経済学も 知っているし ふつうに そう考えているゆえ。

価値による交通整理 これをとおしての・つまり主観の内容に対する交通整理をとおしての 主観関係の実現つまり人間の実現を はかろうとする経済学は その手段として 価値の数量的な指標たる価格を 技術的な前提とし その統計資料にもとづき 交通整理をするという行き方を 自己のつとめのすべてとしていないことは すでに 経験現実である。そして ここでは この点を さらにいま 問い求めようとしている。
社会のひとまとまり(あるいは世界全体)といった《はじめ》の中で経過するところの おのおの主観の 基本的な具体内容を 価値として捉え これをとおして あるいは これの流れを・つまりひいては主観関係を・だから《はじめ=社会》を 共同自治していこうというのが 経済学である。もしなんならば これが われわれのイデオロギである。
そこで 同じことを言いかえると まず第一に 経済学的な価値というのは 《はじめ=社会総体》としての・したがって人間にとっての価値である。まず 抽象的に これである。つぎに この総体としての・または抽象的な(ただし 経験領域に限った)価値が 経済学客観的に その交通整理の対象として 個々に 評価されることを 前提させる必要がある。たしかに そうである。需要の総額を上回る供給が――ということは モノ・コトの客体についてということだが―― すでに・つねに 存在する(生産されている)場合には 必要はない。そのときには 能力にもとづいて欲求されたものは すべて 手に入れられ その限りで 主観は 充足している。そうでない場合には より多く取った者も より少なく取った者も それぞれ主観の歴史過程(つまり生活)として 不足することは なかったといった情況が 経済学的な交通整理の目的かつ内容となっていることだと考える。
ひるがえって 価格を指標として経済学してきた場合でも つまり 客体的なモノ・コトの貨幣的な評価を柱として 交通整理してきた場合でも この価値の貨幣的な量の側面の重視で こと足れりとしてきたわけではなかった。すでに こう考えられた。言いかえると たしかに そこでは 充足の度合いに 過不足があった。つまり 不足するところの人口が少なくなかったと言わなければならないにもかかわらず 一般に 主観的な充足は――関係過程であるゆえ―― たえまなく 問い求められてきた。《不足する事態のときのほうが 主観的な充足への努力は おのおのにおいて むしろ真実になされてきたのであって 少なくとも 価格指標的にゆたかになった情況と そうでなく貧しかった情況とを比べてみて 主観的な価値――価値のほう――の充足の過程は いづれも それほど変わらないのではないか》といった見解も 聞かれないわけではない。これは むろん こうだとしても 昔のほうがよかったなどという懐古趣味を満たすために言おうとするのではなく 先に述べた経済学の《はじめ》の想定を 別のことばで 言いかえたものにすぎない。《はじめ》が 動いており 交通整理に 終わりはないと言うにひとしい。あるいは 交通整理の一定の時代や段階ごとの方策には それぞれ初めがあって 終わりもあるというに過ぎない。
価格という指標の是非にかんして あるいは この指標の扱い方にかんして あたらしい動きが 生じてくるものであるかも知れない。
(つづく→2006-11-29 - caguirofie061129)