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哲学いろいろ

#14

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§21

マルクスの議論のはこび方は 一方で かの《跳躍点》におけるその跳躍点に対する肯定的な理解(われわれが 会議の出発点とよぶもの に立っているということ)と そして もう一方では まさに跳躍としての出発・しかもこれを擬制的に出発点一般とするもの に対する否定の理解 これら二つの理解を 同時に示して すすめていくものではあるが そのうち 否定的な側面について まさに否定すべきゆえだからのように むしろその現象形態を現象形態のままで 叙述するくせがある。同じくせで 反面には 《収奪者が収奪される》などのような勇ましい表現があらわれる。
現象形態を現象形態のまま――すなわち客観的に つまり客体そのものの動きとして―― とうぜん だれもが 認識はしなければならない。するはずである。感性・心理・その意識などは 合理的に整理された認識ではないが 素朴に(あるいは素材として) それである。マルクスは この認識を むろんきわめて煮詰めた知解を経てだが ほぼそのまま 叙述するくせがある。これは 強い方法だと考える。
つまりもちろん くせがあるということは そのくせが主張なのではなく むしろこの強い方法ゆえに 主張・意図は明白なのであり 明白なのだが ひるがえって くせがつづくと 叙述としては 否定すべき跳躍の現象形態が その肯定的な理解の側面と 分離しているかに見える。われわれの観点では 跳躍の密会を 一歩すすんでというべきか もともとというべきか すでに 無効の行為だと考えた。これが 否定されるべきものであっても 現実に存在すると マルクスは言っている・考えていると 受け取られうる。確かに無効の跳躍も 社会的に有力となって 過程されている(だから これを認識する)のであるが しかも基本的に 関知しないとやはりわれわれは 考えたのに対して マルクスは その描写があまりにも真に迫るものであるゆえにのように これを仮想敵として 設定したかのごとくである。
こういう単純で幼稚な物言いを もう少しつづけたい。
だから たとえば 商品として生産するものでも その使用価値の生産が労働の基体(基本主体たる人間に属するもの)であるという性質と そして 商品たる価値記号を生産するという労働の性質とを言って 《商品に含まれている労働の二面的な性質》(資本論 1 (岩波文庫 白 125-1) Ⅰ・1・1・2)というふうに叙述していく。《この点が跳躍点であって・・・》とつづけるところに 一方で その背後の意図は明白でありつつ 他方で 労働の性質をあたかもこの二面に分離したと受け取られるか または いわゆる国民経済学では・つまり経験現実では この《商品に表わされた労働の二重性》こそが 分離されずに ただいまの実態のすべてだと言っていると語ったかのように受け取られるおそれが でてくる。
二つの受け取られ方は 同じ一つのものであって そこに 仮想敵がひそんでいる・または現われていると 解剖学上の分析としてなのだが 語っていると受け取られかねず マルクスの意図は このような仮想敵の認識とそれへの対処に 集結されたとやはり 受け取られやすい。かんたんにいえば 跳躍点に対する肯定的な理解と 跳躍行為に対する否定の理解との 明確な二面性のことであり これこそが マルクス理論の真髄であるなどといった理解が生じえたことである。
理解された個々の要因――そしてあるいは もとに戻って この理解の意図――は 総じてわれわれも 同じくする。このきわめて妙な物言いゆえに 重箱の隅をつつくようだと見なされないために 補論をさらに補って あらためての一つの再論とする。
マルクスはまず こう言う。

この章(Ⅰ・1・1)のはじめに 普通に行なわれているように 商品は使用価値であり また交換価値であるといったのであるが このことは 正確にいえば誤りであった。商品は使用価値または使用対象であり また《価値》である。商品は その価値が その自然形態とちがった独自の現象形態 すなわち交換価値という現象形態をとるとともに ただちに本来の性質であるこのような二重性として示される。
(Ⅰ・1・1・3〔・A・4〕)

われわれも正確にいえば誤ったかたちで表現してきたのかも知れないが 商品あるいは労働そして価値に もはや 二重性はないと言おうとおもう。《労働》は 人間労働があるのみだ。一般に 交換を前提にした すでに社会的な人間労働。《価値》は 基本最終の価値 その意味での使用価値があるのみだ。交換をとおして つまり言いかえると 価値をめぐって互いに信号が交わされて 信実が成立すると それは 等価の記号をもつ。それだけであり したがって 《商品》は この記号をもった価値としてあらわれるが やはりただ これだけのことだと。
たしかに もし《二重性 / 二面的な性質》を言おうとおもうなら 言えないことはないのであって ただしそれは 商品が 基本価値と価値記号とをもつ――いわば構造的な一つの価値形態の――を言うのでは決してなく あるいはだから 労働が このとき決して 基本価値の生産と価値記号の生産とに 分かれて二重になるなどということを意味せず もし《二重性》があるとするなら それは 上の主観共同化の出発点(そこにおける価値構成)から さらに跳躍したばあいに生じることになるのだということであり 明らかにそのとき 労働は 記号価値の生産(またその増加分の増殖)の一面へ 頭の中の創造による操作として 跳躍する。
つまりだから――そのばあい 頭の中では 価値のもつ記号が 独自に自己目的を見いだして 記号価値となるのであり―― 商品は 基本価値という基体のうえに この記号価値のみとして存在するようなものとなって 浮き上がるということである。
商品の二重性と言おうとおもうなら それは 《使用価値とその価値記号との基本構成》と その基体からあたかも独自に浮き上がった記号価値(貨幣価値そのものとしての価格)とのそれであると。だが この二重性について われわれは 会議の基本出発点に立ったうえで それは 跳躍の密会(だから二重会議であるかも知れない)として認識はおこなうのだが 同時に 知らないのである。

  • 知らないのである。ものの認識については大人にならなければいけないが 悪事に対しては こどもでいてよい。

商品が 記号価値として《独立》したとしても それが 会議での合意事項たる記号概念をもって 交通関係のなかに 流通されるかぎり 《基本価値とその価値記号との 出発点での構成》をたしかにになっているかぎり あとの密約について われわれは関知しない。跳躍は 存在しないものである。つまり 無効として存在しえた。
無効の交通関係――また商品流通――について 法律は 法律の問題として 対処する。しかも 一般にそれは 合法的であるだろう。われわれは基本的に 関知しない。わづかに 出発点の生活態度への復帰をつとめて想起せしめるのみである。そして これは つねに経済行為をとおした上でなのであるが 同時に 経済外の問題である。
なぜなら

われわれの分析の証明するところによれば 商品の価値形態 またはその価値表現は 商品価値の本性(基本構成)から出てくるもので 逆に価値や価値の大いさが 交換価値(記号)としてその表現様式から出てくるものではない。
(Ⅰ・1・1・3〔・A・4〕)

からである。基本価値構成のなかの《価値記号》が あたかも独立の(また理念的な)自己増殖するような《記号価値》となって 出てくるとすれば それは 信号・交換の主体・その意図〔なる価値かがみ〕から つまり 政治行為もしくは愛の問題として である。

  • 人間の考えおこなう愛には 正・負の両様がある。

マルクスの議論のすすめ方は ふたたび この出発点を確認しながら つづいて 《だが このこと〔――つまり 記号価値から商品価値が出てくるかの現象――〕は 重商学派とフェリエやガニール等のような その近代の蒸し返し屋たちの妄想であるとともに またその対立者であるバスティアとその一派のような 近代自由貿易の外交員たちのそれでもある。うんぬん》(同上)というように 跳躍にかんする認識を あらためて蒸し返していく疑いがある。必要事項なのであろうが われわれの瑣末思考からの物言いは 一段落ごとにそのつど 意図をしめくくれということにある。マルクスの締めくくり方は こうである。

彼ら(重商学派およびバスティアとその一派)にとっては商品の価値も価値の大いさも 交換関係を通した表現以外には存しないし したがってただその日その日の時価表の中だけに存するのである。
(同上:Ⅰ・1・1・3〔・A・4〕)

これでも 意図は明らかである。もっとも 少しすすむと ふたたび

それゆえに ある商品の単純な価値形態は その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態である。
(同上)

と言う。だから われわれは この点をこまかくむしろ二面的に 分けて 考える。つまり 一面では 《商品は 会議の合意事項にのっとって 〈使用価値とその価値記号との基本構成〉としての現象形態である》(そして そこに 《対立》はない) 他面では 《商品が跳躍しうる すなわち 〈使用価値と価値記号との基本構成〉たる形態から跳躍して 価値記号が記号価値として独立し 浮かび上がった一つの現象形態をも持ちえた》と。
記号価値は独立性のみせかけをもって 《使用価値とその記号との基本構成》形態に 《対立》する。そして この意味では 労働も あたかも二面的な性質をもつかにみえる。
このニ重性は しかし 無効として起こるものであり その無効の事態の認識(分析解剖)までのことであり じっさいには 二重性ではありえない。
欲望――その密約――は われわれはそれを知らない。会議の出発点が 有効な一本の糸である。有効の生活態度(――跳躍する資本主義志向に対しては ふつうの資本志向――)が無力になりえ 無効の跳躍運動が 実効性をもって 有力となりえたこと これも認識している。これだけである。
ウェーバーは この出発点からの跳躍を 歴史的に 《プロテスタンティズムの倫理――むしろ心理の交通形態 そして 禁欲も 欲望の概念と次元との問題である――》にその起源を問い求め これが 《資本主義の精神――だから 密約をともなった意図と信仰との交通精神――》となったと 議論した。
議論したが これは 独立性の見せかけをもった記号価値の履歴書であり 明らかに この記号価値の自己運動の方面についての研究として ただ一冊の犯罪調書を作成したのである。経済基礎において社会生活が 基本構成の商品生産を志向し その意味で 社会生活を資本志向の意図をもって出発しはじめた近代市民の 愛の会議の歴史的な発展(アダム・スミス) これは ウェーバーの議論とは別のところにある。
マルクスは このことを語ろうとしているが そしてその意図はむしろ大筋で 明々白々であるが 叙述としては これを 浮き彫りにしたかたち――あるいは 時に受けとりようによっては 未来社会にこそ求めたかたち――であり そのしめくくりが きわめてあいまいである。

わたしたちは ここで はなはだ図式的ではあるが つぎの了解と主張とをもつ。近代市民以降の社会の経済的な発展にかんして 出発点の会議の展開としての資本志向の交通関係と その出発点からひそかに(これは あくまで 秘密にである)跳躍して記号価値をそのものとして自己運動させてゆく資本主義志向(資本志向主義=ガリ勉資本主義)の交換形態とを 基本的に区別する。前者は ふつうの勤勉である。後者は 近代‐現代社会の 心理的な起動力(ウェーバー)となったかも知れない そして 前者が 同じくこの歴史の――同じこの歴史の―― ふつうの推進力であった。通俗的にいえば 縁の下の力持ちであった。
資本志向主義も 出発点に立ったのであって そうして 商品の基本構成を それとして守った この点では ふつうの推進力となった資本志向の交通関係(つまり勤勉 としての生産力=生産関係)と 混同しまた入り組んでいる。
わづかに 跳躍する心理の起動力は その信号の隠れたところで 密約を持ち それをよしとしていた。広い意味でいう資本主義社会は 密約の跳躍を たとえばすべての市民がひとしく国家公務員であるといった労働のありかたを実現させることによって ゆるさないという建て前で 成り立っている社会だと。もし 後者に物言いをするとすれば はじめの会議は ふつうの人間・市民であることによって 成り立つものなのに 社会主義社会のその体制のもとで平等な国民となることによってはじめて 成立するという志向の構造が 前提されている。過渡期の一形態だからなのだろうか。(そうは思わないと言いたいのだが。)資本主義志向という跳躍の密会は 商品記号の経済問題をとおしてだが 経済外の政治行為また愛の問題であるゆえに 社会主義経済体制は 同時に同等に 政治体制として 跳躍の無効を なきものにしようとするものである。政治権力によって これに関知するわけである。

  • われわれは あとは関知しないが 原則である。法律制度の問題は それとしてあるから 別だ。

なお マルクスは 使用価値とともに商品の基本構成をつくる価値記号が あたかも《世界の市民》(Ⅰ・1・1・3〔・B・1〕)となって記号価値として独立していくかのような経過を したがって これが貨幣形態となるにいたるまでを 丹念に のべている。つまり表題だけをひろえば

     Ⅰ 資本の生産過程
1 商品と貨幣
   1 商品
    ・・・・・
     3 価値形態または交換価値
        A 単純な 個別的な または偶然的な価値形態
           1 価値表現の両極 すなわち 相対的価値形態と等価形態
           2 相対的価値形態
             a 相対的価値形態の内実
             b 相対的価値形態の量的規定性
           3 等価形態
           4 単純な価値形態の総体
        B 総体的または拡大せる価値形態
           1 拡大された相対的価値形態
           2 特別な等価形態
           3 総体的または拡大された価値形態の欠陥
        C 一般的価値形態
           1 価値形態の変化した性格
           2 相対的価値形態と等価形態の発展関係
           3 一般的価値形態から貨幣形態への移行
        D 貨幣形態

われわれは 横着に ほとんどはじめから 貨幣形態のおこなわれている社会をすでに前提していた。いくつかの論点を さらに追っていこうとおもう。当面 このあと 〈第四節 商品の物神的性格とその秘密〉までおさめられたこの〈第一章 商品〉を 焦点とする。

§22

抽象的な議論をつづけなければならない。
われわれは 社会的な分業の交通関係において 経済生活の面で その労働生産物は 所有され使用されることを目的とするのであるから 先ず第一に この目的が 価値ということばで表わされるなら その生産物本体に 《最終使用価値およびその価値記号》を持つことを 知っている。つまり 労働生産物が商品として交換されることを。私的なまたは個人的な労働は この交換ないし主体としては交通の関係をとおして まさにその広く交通という行為関係において 社会的なものとなる。主観的な使用価値が 主観相互の信号交通をとおして 共同化を成立させ その価値記号の活用をつうじて 社会的なものとなる。つまり 最終の使用では 個人的・主観的なものでありつづけるが この価値が 社会的な流通を経て――いいかえると 社会の洗礼をうけて――実現されるという形態をとる。
《使用価値とその記号との基本構成》をもった労働生産物商品 これの流通を 社会的な交通関係の経済生活面での手段としようというのが 人間の会議の合意事項であった。ここから 経験的に出発する。交換価値というのは 使用価値の等価形態の記号のことをいうのであってよいし あるいは 商品交換とその流通の一般化にかんがみて 《使用価値および価値記号の基本構成》総体をもって言っても わるいわけではない。
記号が記号であるように 交換価値は 交換という一過程での使用価値の一つの現象形態にしかすぎない。交換にあたって人間は 使用価値の主観的な判断(意志)および交換しようという意図をもって 信号をおくりあうのであるから そこで成立する記号は 信号に後行する。既に社会一般的に成立している価値記号に従わなければならない場合にも 基本的に意図の信号は 先行する。
そうすると 交換価値は 価値記号であろうと基本構成総体であろうと この信号主体どうしの交通に 後行するものである。すると 信号交通の成立は 価値記号ないし交換価値としての成立に先行して いってみれば主体どうしの信用関係としてすでに実現している。会議の主体であることが 自由に会議しうるという基本的に関係しあう存在であることをあらわし 出発点が生活態度として形成され交通しあうと 信用関係として 生きる。
ここで 経済生活上は 労働生産物について具体的に信号を出し合い 記号を成立させて交換をおこなう。社会的な分業形態における商品流通をとおしての生活様式は 会議にもとづくこういう生活態度をおのおの出発点として 成り立っている。価値は 基本的に使用価値であり 交通関係として同時に 価値記号をもち この記号の点で 交換価値ということばでも表わしたりする。価値記号は 価格とも呼ばれる。
価格とも呼ばれる価値記号が 商品の基本構成という取り決めの中の一手段であって しかも この手段であるままで一個の価値となるかにみえる場合が どこかで生じた。むしろ 基本構成をそのまま守りながら さらにその外のどこかで 価値記号が 記号価値とよばれなければならないような一個のあたかも使用価値となるその跳躍が生じた。
価格というからには 貨幣形態を前提しなければならないとおもわれるが もっぱらの価値記号たる記号価値の生成をマルクスは つぎのように説き明かす。

一般的等価(価値記号)という役割を演ずる商品は 商品世界の統一的な したがって一般的な相対的価値形態(基本構成をもった商品どうしの価値関係)から 〔あたかも〕排除される。
(Ⅰ・1・1・3〔・C・2〕)
商品世界の一般的な相対的価値形態は この世界から排除された等価商品である〔たとえば〕亜麻布に 一般的等価の性質をおしつける。
(同上)

これは 排除された等価商品の価値記号が 金なら金 銀なら銀に そのおちついた形態を見いだして そのかぎりで 記号価値また貨幣となることを見る説明の一過程である。ところが じっさい まだ貨幣を前提しなくとも(捨象してみても) このばあい 商品世界の統一的な流通形態から排除される一商品種というのは 亜麻布に限られず すべての商品種がそれぞれ こういった排除という想像上の操作をうける。だから要するに 一定の社会における商品世界の一まとまりから排除されるもののその領域というのは じっさい その交換の主体の想像の世界・あるいは交通とその信用関係の領域のことである。端的には 交通とその信用関係じょうの やはり交換過程にある価値ないし商品の 記号概念のことである。
そしてこれを思考し詮索したりする想像領域のことである。主体が 会議において 自由であり平等であるとか その労働が等一性を有するとかと拡げていえば この記号概念は 理念をふくむ。あるいは 理念にもとづくものである。そしてやがて 金なら金という貨幣記号を ひじょうに便利な手段として見いだし 活用させるようになったというものである。
亜麻布なら亜麻布 そして便利なかたちとしては金なら金が 他のすべての商品群から排除されて 価値記号というしるしを押し付けられるというのは 記号概念・それの想像による操作の問題である。価値の記号は その概念としての生成の点で 人間の理念につながっており それに裏付けられうる。
貨幣形態は こうして この価値記号のしるしである。すなわち この限りで まだ 価値記号の記号価値への転化は 生じていない。依然として 商品流通は 交通における信用関係のもとに いとなまれている。
会議は まだ健全である。

そして この除外(思考じょうの排除の操作)が 終局的にある特殊な商品種に限定される瞬間から 初めて商品世界の統一的相対的価値形態が 客観的固定性と一般的に社会的な通用性とを得たのである。
(Ⅰ・1・1・3〔・C・3〕)

としても 出発点は変質をこうむっていない。

そこでこの特殊なる商品種は 等価形態(記号概念)がその自然形態(モノ)と社会的に合生するに至って 貨幣商品となり または貨幣として機能する。(機能は 価値記号のことである。)商品世界内で一般的等価の役割を演ずることが この商品の特殊的に社会的な機能となり したがって その社会的独占となる。この特別の地位を・・・一定の商品が 歴史的に占有したのである。すなわち 金である。
(同上・つづき)

というときにも 事態は 基本的に変化をこうむっていないと考えられる。価値記号の機能を 金に代わってすでに自然形態とは関係のない紙幣またその補助貨幣が になうように取り決められていっても ことは同じである。この貨幣が もっぱら記号のしるしであるかたちで 価値となるというのは したがって むしろ 主体間の交通関係・信用関係・そのしるしとしてである。
しかも この記号や記号物に 秘密はないし それは なんら恥じるべき跳躍もしていない。貨幣手段に罪はない。密約があるとしたなら すなわち 価値記号のあたかも独立としてのような記号価値への転化があるとするなら 信用関係の内部の隠れたところで 信号がやり取りされて密会したばあいにある。
しかも これは 基本構成をもった商品の交換と流通との 会議での合意事項にのっとって あるいは のっとろうとして つまり 合意事項をやぶらず 密約があっても つじつまを合わせて おこなわれているものである。すなわち 会議は 少なくともその出発点として じゅうぶんにすこやかである。
会議の出発点にのっとった資本志向(商品流通の形態をとった使用価値とその合理的な増産への志向)と そして 跳躍の密約があったとするなら この資本志向を 守りながら 守るがゆえに 守ることにおいて あらたにあたかも会議が成り立つと考えるところの資本志向主義とが 互いに入り組んで 展開されたものと考える。
後者は たしかに二重会議であり 第二次の会議は 基本の会議から浮き上がっている。われわれは 会議の合意事項を守るがゆえに 資本志向を 一つの歴史的な生活態度の経済的な側面としたし またはそこでの発進の問題であるとした。この資本志向を守るゆえに 会議が成立するのではない。また それでは 会議からの展開を実現させることも出来ないのである。
第二次の会議――じつは 密会――というのは 基本の会議を それがすでに開かれたというのに もういちど開催しなければならないと なぜか 思い込み それへ向けて そのために 開くところの・言ってみると準備(事後的な準備?)の会議であって 会議でもなければ その展開でもない。つねに 基本の会議にたどりつくために準備するというのだから 永遠の準備なのであって その資本主義志向はなるほど 終局的なものにみえる。跳躍したと思って じつははじめの会議が開かれたという知らせを受けたことの中へうずくまり その基本の会議の下あたりを 這い進もうというものである。これは 密約である。
跳躍の密会は しかしながら勤勉なのであって その自己目的化した無限運動が いのちだと考えられているらしい。自転車操業だとか上げ底だとかという批判的な一認識もあるが わたしは ガリ勉だとおもう。
会議の勤勉ではなく 準備会議の永遠のガリ勉だとおもう。そして 一つの出発点からの展開として 資本志向の勤勉と資本主義志向のガリ勉とは 経験過程的に互いに入り組んでいると考えられた。
密約・密会は 記号概念の中にはなく 信号交換・信用と交通の関係 さらにその基本主体の内面での問題であったから 議論は 経済学としてもその踏み出しにおいて 抽象的なものとならざるをえないし なってとうぜんだと考えられる。生活態度の問題であって 心がまえのそれでは必ずしもなく――なぜなら 会議の合意事項からの無効の跳躍は これを知らないということを われわれは前提していた―― そして 他方でマルクスが 次に見るように 生活態度における主観の意志や意図から独立して運動する法則を まず解剖してみせて(そこまでは よいのだが) この解剖学の知識ゆえに 運動法則をどうにかししようと もし言ったのだとしたなら これも 問題点が誤認されているのではないかと 考える。
つづく→2006-01-07 - caguirofie060107