caguirofie

哲学いろいろ

#16

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§25

われわれは マルクスが理解した《跳躍点》を 基本出発点とそこからの秘密の跳躍とであると解した。だから 跳躍の密会は 基本出発点を 見に見えては 守りつつ おこなわれるというとき それは しかしながら 無効であって いくら社会的に――資本主義志向として確かに――有力となったとしても われわれは 基本出発点(つまり経済生活として 資本志向)をとおしての関係(および じっさいには 交通)の問題では 関与していくが 密会そのものに対しては 関知しないと。
マルクスの跳躍点は 実質的には 基本出発点の会議のことであり その跳躍点からこそ 一般に経済学がその諸範疇をとらえだしてきたという場合も これも じっさいには 基本出発点での価値記号をもとにした合理的な理論のことであって 跳躍は さらにもっと内密におこなわれているものなのだ ゆえに 跳躍点というものは すでに無効の行動を指し示すただの蜃気楼なのであると。
そう 強引に読み替えようと。われわれの理解と理論とにも はじめからのものと比べれば 変化があり ところどころ 矛盾する表現もあるかも知れない。マルクスの理解と表現とに まちがいがあったというものではないとも考えられる。だが いまでは あたらしく 読み替え 表現しなおしていこうと。
わたしたちの歩むべき道は そのような跳躍点を向こうにまわして 不平をいうことにも それを打倒することにも あるいは 別のどこかへこっちが飛翔していって 跳躍点のもつ虚偽をあばき欠陥を取り除くといったしばしばありがちな高尚な行き方でも ないのだと。関与するとき 虚偽を指摘し その欠陥の取り除かれることをねがうが それは 基本出発点にむしろとどまってのことで 跳躍に対抗して何か飛翔することによってなのではないのだと。生活態度の確立・展開・再確立が 問題であり さらに抽象的にいうと その基本主体たる自己の自乗 これが 道であると。
といっても われわれは いたるところで欺かれうるように 密会する跳躍には 悩まされる。悩みの原因をさぐることは ふつうの出来事である。つまりわれわれは 無効の・それゆえに関知しない(そして その限りでむしろ 関与し得ない)跳躍に対して それでも 事の本質を認識することは ありうるわけである。
わたしは こう認識した。すなわち 基本出発点での 経済行為上の生活態度は 商品を 《使用価値とその記号との基本構成》をもつものとみる。なるほど そこでの価値記号が 分離し独立させられてのように 自己運動する記号価値として 立てられることが あるかにみえる。しかも この記号価値といえども まだ 商品の基本構成のなかの記号要因なのであって 記号概念じたいは 基本の生活態度のもとにとどまる。ただし この生活態度が 価値かがみのようになって 商品交換に際して 等価記号の成立を意図しあう相手の信号を互いに映し出し 経済主体が この信号をよみとろうとするとき すでに一方が他方を蔽い 他方は一方におおいつつまれるという事態が生じうる。これこそが――すなわち 経済行為(また記号)をとおしての・かつ経済外的な(信号の発進としての)むしろ 人格の交換こそが―― 無効となる跳躍の秘密なのだと。
いちど会議に列席し そこでの基本出発点に立ち しかもこの生活態度を離れる。ゆえに かれは 永遠に 会議を準備しつづけているという商品生産者となる。商品の基本構成は とうぜん 労働の基本構成なのであって 商品生産者となることは――むろん それは 歴史相対的なものでもあるが―― 主観が共同化され私的労働が社会的な労働となる基本の生活態度の出発点であった。
この会議を 一たんそこに列席したあと どういうわけか離れて しかもその理念については無視しえないと思っており 従ってその結果 もはや永遠に会議を準備していくという密会に変えるのは それが跳躍のことであるが 記号概念で 商品(ないし労働)の基本構成にもとづき 主観の信号交通では 基本構成から遊離する信仰形態に立つことである。労働の基本構成に 一方では基づき 他方ではそこから遊離しているということは 基本構成の生活態度を 後生にも永遠に 準備しつづけるということである。つまりまた これは 会議以後の問題である。そのあたかも先行するとひそかに言い張るところの根拠は 人格の交換の神話である。
労働が等一性をもち 人間が平等であるという会議の基本合意事項は それに向かって努力するという労働=商品生産によって 守られるし実現されると かれらは考えた。逆である。会議は 人間の努力の尽きるところで あたかも尽きたところで 開かれたのである。もしくは 先行するものの領域として 努力されるべきことである。そうして その出発点の生活態度は 経済活動の側面として 労働およびその生産物たる商品の 基本構成を 取り決めあった。この特殊な歴史的な一つの会議にかんしては この一本の一重の 信仰動態・信用交通・信号伝達そして記号活用が あるのみである。準備がととのったなどとさえ言う必要がなくすでに会議は それとして 成立しているし まして これから準備する必要は生じない。
会議の議長になりたいと欲した人が 人の目をくらませて 準備の会議すなわちしんきろうの密会を 用意した。われわれは 基本の会議を 永遠に準備しつづけなければならない社会的動物だと。そう言っておいて そのためには 根本のところで 人格を交換すること もっと簡単にいえば 相手の人格を この準備段階に引きずり込んで 蔽い包み 自分が主導権をにぎらなければならないとして交通すること――たしかにこれは 無効だ――が 不可欠であり王道であると信じた。これが じっさいには蜃気楼であるところの跳躍点の秘儀である。すなわち じつに 跳躍点は この世に 存在していない。
このことが 一九八五年十一月刊行の《ダブル・バインドを超えて》を読むと その著者・浅田彰によると 次のように説明されていた。

たとえば 母と子のような抜き差しならぬ関係において 《私はお前を愛している だから私を愛しておくれ》といったメッセージ(信号・・・引用者。以下同じ)が母から子に送られ しかも 態度(生活態度またその展開)を見ると本気かどうか疑わしいというようにそのメッセージを否定するメタメッセージ(跳躍したところの信号)が同時に送られるとき これをダブル・バインド二重拘束つまり二重会議)といい こうしたダブル・バインドが反復されるとき 子の側に分裂症(統合失調症)が発生するといわれる。
・・・

  • われわれは 無効の二重会議に関知しないとき それからさらに発生する病気――病気!――に対しては なおさら関知しない。ということは このダブル・バインドは 子の側の問題ではなく 密会しよう(それは 支配の主導権をにぎろう)とする母の側のそれであり 少なくともこれら母子の信用関係の問題であり しかも 一般に 抜き差しならない関係は これら二人の親子のみに限られず 同時に この例に考えられる存在としては 父親がかんでいると思われ そういった三重の親子関係の問題であって さらに同じくこの一般の場合では 子の側にだけ 病状が発生するものとは思われない。または 三者関係の中でのみ 子の側にだけ 症状が発生する。・・・引用者。
  • 関知しないといっても 基本出発点の問題としては――つまり その相手の人が 基本会議人であるという部面をこそとおしては―― 関与するのだから 少し譲歩していうと じっさいの問題は 子の側にだけ症状が起きるとするなら それは 子が 子である期間において 両親のそれぞれの二重会議の密会の踏み台となることを意味している。
  • どれだけ歳をとっても 子は親に対して子であるではないか。だとすると たしかに 永遠の会議を準備しようとつとめて その限りで 子は 親の生活のための踏み台となるのであろう。たしかに ここまで 認識しておかなければならない。
  • われわれが一般に言えることは  言わなければならないことは 会議はすでに成立したということである。

ここでは 本質的な重要性をもつ人間関係が 水平で対称的な相互関係(会議の合意事項・・・引用者)としてではなく 垂直で非対称的な力関係(→人格の交換)としてとらえられている。
・・・母は母子関係全体をコントロールしうる立場にあるのに対し 子はその関係の内部にはりつくほかなく 関係が歪みを帯びるとき それは犠牲者としての子の上にのしかかってくるのである。

  • また 無一文の自由な労働者となるという 会議の前夜を くりかえすかのごとくである。

このような見方は たとえば 貨幣経済における交換関係を考える上でも役立つだろう。〔新〕古典派経済学は 商品と貨幣 《売り》と《買い》の交換関係を 水平で対称的な相互関係としてとらえてきた。

  • 記号の理論としては それはそれで よいのである。・・・引用者。

だが 貨幣は 他の商品と並ぶ単なる一商品ではない。それは 他のあらゆる商品の価値を指定し根拠づけるもの――いわばメタレヴェルの商品なのである。

  • そうであっても まだ 会議は健全である。

したがって 貨幣所有者は商品交換の関係そのものを設定しコントロールする立場に立つのであり 商品所有者はその関係の内部にはりついて《売り》という《命がけの跳躍》にいどむほかないのである。この非対称性は貨幣経済における基本的事実であり ここから究極的には恐慌を含む不均衡なダイナミックスが生じてくることになる。
浅田彰ダブル・バインドを超えて〈序にかえて〉)

引用文の最後のほうの《基本的事実》は 無効の跳躍が 有力となった事態である。《不均衡なダイナミックス》とは 密約の跳躍をおこなった人の信仰動態 そしてそれが それ自身の普及によって 信用をえたとき しかも この信用による蜃気楼の交通関係が 破綻をまねく そういった蜃気楼信用の破綻をまねく不均衡をともないつつ 資本主義志向の信仰動態は 資本志向の信仰動態(経済生活)と 社会的に入り組んでいることによって 跳躍を重ねつつ 永遠の準備会議を実現させつつ 浮き上がりながらも 余命をたもっているという歴史過程のことである。
資本主義志向のそういう経済的で かつ経済外からの信号力による経験現実 これを 説明しようとしている。すなわち 貨幣所有者の貨幣記号が 記号である限りは 会議の資本志向行為のもとに普通にとらえられているが 人格交換の信号のもとに・跳躍した信号というむしろ経済外の生活態度によって その人格交換という信号の端的な記号となる。記号の背後に 跳躍の力がひかえている事態となっている。
こうだとすると このばあい われわれが この貨幣所有者に相い対する当事者であるとするなら その信号――貨幣記号の背後の信号――を 無効であると認識しているとは どういうことか。
この跳躍する信号の原因あるいは作用を 人格交換という狂信であると認識していて あとは関知しないということは どういうことか。しかし つまり 譲歩している。それだけである。じつに われわれは 会議への復帰を想起せしめるところの関与の機会を 待っており じつに人格としては 狂気におつきあいするのである。
無効の跳躍に 仕えていく。どれいとなるのではない。あるいは――良心のために・すなわち われわれのではなく その人たちの良心のために言うとすれば―― どれいとなったとしても かまわないわけである。はじめに《ダブル・バインドを超えて》いるからである。そうでなければ かれらの跳躍を 無効と認識しない。
ちなみに浅田彰は 《だが 貨幣経済について述べたのと同じように そのような逆説的状況(――われわれが無効と認識する事態――)こそ人間関係における基本的事実であるとはいえないだろうか》と 議論をひきつぐ。これは まず 《基本的》という表現にこだわらないとすれば マルクスが 《自由の領域は かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる》(§12)ということ すなわち 先行領域は後行領域と しかし 同時並行のものだということを 語ろうとしている。つづけて

それを一時的な障害とみなし 究極的には豊かな心の所有者の集う調和のユートピアを夢想するというのは 豊かな貨幣所有者たちの均衡を理想化するのと同様 安易な観念論にすぎないのではあるまいか。
われわれはダブル・バインドを本源的なものと見なければならない。
(同上:ダブル・バインドを超えて )

わたしたちは 会議を歴史的なものとしてとらえてきたのだから 《ユートピアの夢想》とは考えていないが そして 《本源的》という概念が 何をいうのか よくわからないが この点では 先の前提的な説明の部分とちがって われわれは 意見を異にする。
《本源的》が 本源的(先行的)蓄積というときのそれから やはり 跳躍の密会によって 人格の交換をつうじて 自己の信用を蓄積するという準備会議の準備(つまり 永遠の準備会議への前史)のことを 言ったものであるかも知れない。そして 先の《自由の領域は かの必然の領域を基礎としてのみ開花しうる》という一つの認識の事項と合わせて われわれのいう基本会議の展開のありようを 語ろうとしたものであるかも知れない。そして わたしたちは すでに 二重会議をもはや存在しないのだと 読み替えていこうとも 考えていた。
そのように 意見を異にする点をのべて――なぜなら われわれの考え方は きわめて《安易な》ものである―― あとは いまの議論にかんする当の浅田の意図を 次のように確認しておいて 一たん保留しよう。次にみるように 詳しい主張の展開は もう一つわからないからである。

あくまでもその中(本源的なものと見たダブル・バインドの中)にとどまり 矛盾を突きつめていかなければならない。それは何らかのブレークスルーを生むだろうか? そのブレークスルーはわれわれをどこへ連れて行くだろうか? 答はわからない。ただ 《ダブル・バインドを超えて》というタイトルがこうした文脈で読まれるべきものであって 架空のメタレヴェルへの上昇による矛盾の解消を指すものではないということは 確認しておくことができる。
(同上)

つづく→2006-01-09 - caguirofie060109