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哲学いろいろ

#18

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§27

われわれは マルクスの《資本》の何分の一もまだ読んではいないが もっと読め もっともっとという声には 必ずしももう従わないでよいと考える。

  • 経済史の問題 経済学文献の研究整理史の問題等々 これを残しつつだが。

わたしたちは――といつも この主体の呼び名を 落ち着かないかたちで 二通り使いつつ―― 跳躍の密会の現われ方を認識して 人格の交換(または包摂)だといった。経済行為を場として 経済外のところから 全体の意図が 隠れたいまひとつ別の信号として送りだされるのを 見るようであり それは一般的であるとさえ考えられる。
浅田彰が この二重会議なるやっかいなしろものが 社会的に有力となって作用するかにみえるところの《ダブル・バインドを本源的なものと見なければならない》と言っていたこと(§25)を想起してみよう。《 ursrünglich (本源的)》という意味なら それは マルクスが《本源的蓄積》と・つまりスミスが《先行的蓄積》というところの事態(§14)と からんでいる。
すなわち いうところは 会議からの資本志向の出発が しかるべき一定の資本(生活の資糧・手段)を貯えることを もたらしたか あるいは めざしたかというかたちで 余裕を持つことが 先行的蓄積のことだとすると この先行的蓄積は とうぜん つねに 資本志向主義なる二重会議の産物であったなどということは出来ない。しかも 同時につねに この跳躍の密会の作用しうるかにみえる余地があったということ こういうことだろうと考えられる。
すなわち さらに その心は 基本先行の会議にのっとって ふつうの資本志向が 基礎(つまり経済生活として)であるが あたかも二重会議では 資本志向の理念が念観された観念の心理的な起動力となったものを 先行させた すなわち 経済的な蓄積の行為に 人格の交換を先行させた(――人格としては もともと 経済行為に先行しているものである。その人格にかかわって 交換すること・要するに相手の人格に寄り憑くことを先行させた――) すなわち 跳躍の問題としては 人格の交換が 本源的なものとなるかにみえる というものである。跳躍の密会にかんしてのみ 認識してみよう。
人間労働等一性にもとづいた記号を指標とする商品の交換 このばあいに 労働の等価は 人間の意志の自由 存在の平等にもとづいて――つまり そういう経験的な会議の合意事項として――成り立ったものであるのに ここで 商品記号の等価性とそれにもとづく交換のゆえに はじめの会議が準備されまた成立するであろうと 考えることが起きた。交換は 一つの前提条件であり 最終の使用価値目的の実現の一手段ではあったのだが。
だがしかし 会議の準備が 本来の会議だと見なされる。永遠にみなされていく。準備(手段)は会議そのものではないのだから。つまり 二重会議。つまり 人格交換の神話には もってこいの一つの会議理論である。しかもつまり 互いにその理論内部で循環して この準備を成功させるためには いつわりの先行するものとして・そういう本源的なものとして 人格の交換・人格の包摂・他の人格の主導が 不可欠だと考えた。知解力にすぐれる選ばれた人(エリート・インテリゲンティア)であると 自称し また他称の信用を そうして きずいていく。知解力にすぐれていることじたいは まちがっていないのである。しかも じつは 準備の会議が 虚構の会議だということも 知っているわけである。基本の会議の実現のために この準備をおこなうというのだから。
虚構から真実へ移るためには しかも 自分たちがつくった虚構を支配しなければならないとも 考える。《生産過程が人間を支配している社会形成体に属していること》を かれらは じっさい よしとしない。
商品記号の支配のためには じっさい 記号には罪はないから つまり記号は罪や虚構をつくる主体ではないから ほんとうの主体のほう・その信号を 自分の支配のもとにおかなければならないと いさみこんだ。つまり 人格(信仰)の交換・包摂である。これは 人格の 相互抱擁――相互依存とか互恵援助とか――と 言いあらわされる。それによって 信用を得ることができると かれらは踏んだ。ここから 二重人格・二重信仰(単純には 現実と理想とは別だと言い張るもの)・二重信用(単純には 例のよく言う二次会のほうでこそ 相互の理解が得られるのだというもの)・二重信号(物分かりのよさ・察し合いというそれ)が 起きた。二重会議のほうが 値打ちがあるというわけである。
こういうふうに言うと かしこくないなぁ・かわいくないなぁという場合である。そんな固いこと言わなくても いいじゃないか まあまあまあという場合。われわれは 二重会議・二重拘束などというそんな片苦しいこととは 無縁である。資本主義志向の一つの生活態度のほうが よほど 固いのである。跳躍の密会である。
つまり密会のほうで 人びとは 心を一つにして 硬く団結している。虚構をつくっておいて 虚構をなくすための(止揚するための)虚構という手口。核兵器を廃絶するための核?
つまり 本源的蓄積は 二重である。経済上の商品価値(または記号価値)の蓄積と 人格交換によって得たかのような信用の蓄積と。もちろん 基本会議の資本志向から見れば 人格のはじめの信用関係ゆえに 資本を 個人的におよび社会的に 蓄積しあっていくのだから 二重であって二重ではない。経済学と人間学とは 二つにして一つの実践である。
しかしながら 経済学が 人間学の準備行為だと 錯覚され得た。衣食足って礼節を知るというではないかと。そういう準備の会議が必要だという議論である。しかし ほんとうにそう言っている人は すでに衣食の足りないときにも 礼節を知るゆえに 語っている。実践しているのである。経済学としての準備の成功のためには 人間学の準備も必要だと わざわざ・あるいはさも正当な考えとして 白昼堂々と狂気にも 主張され信じられた。みづからが ダブル・バインドにかかったわけである。みづから その二重(あるいは 二段構えの)拘束にかかっていったのである。跳躍したと信じた。つまり 拘束でないと信じ込んだ。
ところが かれらは このみづからの二重会議なる人格を 相手と――経済行為をつうじることを基礎として―― 交換することになる。白昼堂々と しかも かくれたところでの密会として。ところが これが 起こりえたのである。無効が 既成事実とともに 実効性をもって有力となりえた。よろこぶべきかな。かれらのダブル・バインドのみじめさが ほろぶためなのである。何世紀かかるかは わからない。人格の交換が ともあれ成立したところでは はじめにそれを仕掛けた者の人格は そのじつは悩んでいたダブル・バインドが 解消したかにみえる。なぜなら 交換したのだから。かぜを移して 風邪がなおったのである。つまりかれらは このロードスで跳んだわけである。人格の交換にまさって 無効の犯罪行為はないのだが それにもかかわらず 商品の等価交換では すべて合法的な行為なのである。たしかに 会議がこれを保証している。自首すべきだが 自供の必要はない。
もちろん跳躍の常習犯は 人格交換にひっかかりやすい人びとをえらぶ。その嗅覚は さえてくる。しかも 会議の合法的な事項はこれをよく わきまえている。ロードスは密会の王国となった。しかも このロードスは われわれの会議の場である。資本志向と資本志向主義とが 入り組み入り混じっている。
会議の実践が 人間学と経済学との二つにして一つの生活であるのとあたかも同じように 密会の実行は 人格の交換と経済上の交換とが たくみに組み込まれている。たしかに 準備の行為である。二つまとめて 人間の交換と言ってもよい。労働力としてのと 物財としての 二つの商品の交換。記号に罪はないから すべて合法的な等価交換だと弁明されうる。しかもそれは 妥当である。
人格の交換というあたかも本源的な跳躍は そこに《経済的なものと政治的なもの》とが 互いに同等に入り組んでいるという言い方で マイケル・ライアンが 議論している。

すなわち マルクスの《資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)》第一巻は 経済発展と政治上の力との間にきっぱりした二項対立を置くことを許さないこと そしてこの二項は 《相互に作用し合う》何か均質の二つの審級ではなく 相互作用するが区別をもった物や均質の実在体( entity )の存在論として記述することのできない決定不可能な限界または差異的な力関係として構成される。この二項はそれぞれ 決定不可能な形で一方が同時に他方である。二項はめいめい 経済的でも政治的でもある限界(――信号の内なるそれら二分野間の境界――)であり 専らどちらか一方であることはなくて 両者の間にある限界にほかならない。
経済発展が〔資本主義の生産様式における〕政治の力から独立して起こることはありえないし 資本主義の政治上の力の方も 決してそれ自身のためにではなく 経済上の理由から行使されるのである。
〔この主張の後半は 大多数のマルクス主義者に受け入れられている洞察であるが 前半は 批判的なマルクス主義者と科学的マルクス主義者(レーニン主義者)の間で論争の的になっている。・・・〕
(§§4)

デリダとマルクス

デリダとマルクス

わたしは 個人的な二角関係のばあいを例にとって 信号と信号との問題 そして 信号には 記号の等価が成立してしまえばその役目をいちおう終えるふつうの信号と 跳躍しつづけて密約の尾をひく二重信用の信号とがあるという言い方で認識した。ライアンの分析のほうが 社会歴史的にひろがっている。そして 《政治上の力》が信号や信用のことなのだから 二重会議の政治も 経済記号として書き表わされるときには すでに基本会議の合意事項にのっとって 合理的・民主主義的なものとなっている ともかく経験妥当なものとなっていると 付け加えれば じゅうぶんかと思われる。《論争》は むしろ その記号の背後の密約信号をめぐってのことであって 必ずしも容易に結着がつかないものであるかも知れない。
ライアンの議論にかんして あと一点だけくわしく見てみようとおもえば かれは 二重会議による経済発展およびその政治上の力 という資本主義志向の側面 これと がっぷり四つに組むようなかっこうである。

客観的な法則は 主観的な過程と絡み合っているのである。これこそ 生産活動というマルクスの概念の主眼であり この概念が 経済発展はもはや不可避の客観的な機構だとは考えられないという形で 自然と歴史 自然とテクノロジーとの二項対立に 徹底的にディコンストラクションを施す。経済体制は 自然に発することはない。経済体制は 生産力の作品であると同様 政治的暴力のテクノロジーの作品にほかならない。ただし 当の暴力も 主観的な意図や意志に還元することは決してできない。
それは システムの制約 状況 コンテクストによって形成されるからだ。経済と同じく政治的暴力も 純粋に《それ自身》であることは決してない。それは 運動力と抵抗との差異的な限界(――境界。ぶつかりあうところ――)であり 主体が築き上げる客観的構造が引き起こす主観的な行動の差異的な限界なのである。
(M.ライアン 同上)

資本志向と資本主義志向とは 互いに入り組みあう――つまり 記号論としてはおおむね同じものとなり だからまた その前に 同じ一つの会議に立った――のだから 資本主義の側面と 正面からあいわたりあってもよいかと思われるのだが その側面の 記号と信号との両領域 あるいは むしろ 信号の一領域での 記号成立でひとまず済む基本展開とそれでは済まない密会の展開とを 分けて 考察したほうが よいと考えられる。
記号で表わされる一連の信号(つまり 価値記号が 使用価値を代理してしまって それでよいという合意が成立したばあい)と 仮りに二重の信号とを――つまり言いかえると そういった 両様の政治(愛)の行為を―― 《主観的な行動の差異的な限界(両者の境界・差異的だが相互に入り組んだ境界)》という言い方で認識するよりも 〔ただし この《差異》ということで 両者を相対化していること・またたしかに区別していることは 重要であるが〕 そのうちの後者・つまり二重信号で密会をつづける愛の起動については 無効の跳躍だと見たほうがよい。見ておくべきである。
《差異は同一性から派生するのではない。むしろ逆に 差異が同一性を可能にするのであって・・・》(ライアン 前掲書§§1)ということは その差異が 歴史経験的な一つの会議の合意事項(その限りで 同一性)を 見させたし またそこから出発していもするものなのであるから 一重信号と二重信号とをもって 差異とは言わない。
《差異は 記号理論の上ではおおむね同一である資本志向と資本主義志向とのその同一性から 派生するのではない》からである。資本志向の単一信号と 資本主義志向の二重信号とは 互いに差があり異なっているが 後者は前者から 派生した・ないし跳躍したものである。
《主体が築き上げる客観的な構造(商品世界・生産様式)が引き起こす主観的な行動》にも 差があり異なったものが見られるが 記号成立とその流通をめぐっての主体の会議は はじめに同一性を前提していたし この同一性は 先行するものとして そのまま同一性のかたちで 有効でありつづける。客観的構造の背後で 主観的な密会信号の行動をおこなうばあいには それは 同一性の単一信号とのあいだに 《差異》をもつのではなく それから明らかに跳躍しているのである。跳躍しつつ 《同一性》(会議)を同じくしようとしている。
この密会する跳躍によって 抽象的な基本認識としては この跳躍の愛(政治)を 人格交換にもとづこうとする《政治的暴力》と名づけるのである。暴力は 信号の二重発進として 隠れて抽象的に本源的に 起こっている。経済発展は この政治的暴力とふつうの愛の力との 入り組んだ生活態度の展開 生産労働の結果である。
この今度は二つの力の入り組みに対して 互いが互いにとって《差異的な境界》をもつという言い方は あまりしないほうがよいと思われる。分割できないからだ。区別して認識し――認識によって区別し―― 批判しうる。ライアンは この批判の主体の主観と客観事態との入り組みとしての地点 つまり 批判の地点(それは 出発点のすでに展開されている一地点)を 明らかにしようとしている。
労働と愛 生産力と政治力とは 二つにして一つの生活態度であり力である。能力としては 知解と意志と。愛(信用・信号)また政治力の領域で そしてそのかくれたところで 労働・生産力の領域をとおして 無効の跳躍がおきる。有効の無力になりうる進歩と 無効の有力になりうる跳躍とは 互いに差があり異なっているという現存するものの認識からすすんで むしろはじめの基本会議の出発点に立ったという同一性に さかのぼっていくことはできる。会議の生活態度(またその生産および愛の力)は その歴史経験的な前提に立つ限りで 有効だと承認されたということは 無力になりうると表現することができても 有力になるとかならないとかとは 言わない。ふつうの有効の力であり 自己の自乗の過程として やはり すでにつねに 有効の力であるという以外にない。
無効の経済上および政治上の力は 有力になることをめざす。正常を保った狂気 狂気の正常である。主体が築き上げる客観的構造のなかに生きる行動としては 有効の進歩と無効の跳躍とは 正常・合法性を一つの基盤として 入り組んでいて 主体ごとに入り組んでいて 分割することが出来ない。資本志向と資本主義志向。資本志向の会議が 自然の側面つまり 自然に見合ったものとして資本志向をおこなっていく(自然志向=資本志向といったような)側面を 忘れていたとしたら 想い起こすべきである。
つづく→2006-01-11 - caguirofie060111