caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《はじめ(出発点)》b

また旧聞を繰り返したように思われるかも知れないが 微妙な点であって 経済学が いわゆる経験科学であることは 《原理》のあとに――しばしば いわゆるイデオロギが・つまり脱イデオロギというイデオロギをふくんだそれが この《原理》を代替すると考えられることがあるのだが 《原理》のあとに―― そう(経験科学)であろうとするとは 言うべきでないのであって 《はじめの経験世界》を立てたことにおいて すでにそうであり かつ 最後までそうだとみること。つまり早く言えば なんならこの《はじめ》を立てたこと これが ひとつのイデオロギだと見られてもよい 便宜的にはそう見るべきだということである。つまり《規範》でもなければ まして《原理》ではないという前提に立ってということになる。
これが 《考えるの 信じるへ向けての開放をもった人間の存在》という大前提の内容であり かつ 経験的な保証である。
そうでないと 経験科学であることという旧聞に属する経験的・便宜的な前提が 人間の存在という大前提の実践に対して 一つのただ従属概念であるだけではなく 障害となると考えられる。便宜的な小前提が いつしか大前提とみなされ 小前提にもとづいて築かれた理論の世界が とじられていく その便宜世界のみが《世界》であると言ってのように 独立(?)していくことは 目に見えている。小前提の上に築かれた世界が――経済学の国が―― 独立すると もともとそれは 人間という大前提を言い出すと 人は それは イデオロギに囚われた見方だと 狂気にも 言ってははばからない。しかも わたしたちは 《原理》にかかわるところのイデオロギについては 詮索しないと決めたのである。そういう便宜的な《はじめ》の想定としてのイデオロギである。このようなイデオロギであるなら よく言われるところの脱イデオロギでも着イデオロギでも ないはずである。旧聞に属していたのなら 特別 新しい考え方ですらない。
すなわち このようでない場合には 実際問題として 一方で 《経済学》じたいが 超経験的な原理とみなされ 規範から自由であった一般生活が 暗黙のうちに 一個の経済学説を一定の規範としていなければならないか(つまり キャピタリスムの中のいくつかの学説) それとも 他方で 経験現実的な経済学のいわば背後で その学がなんらかの一義的な規範としなければならないような《人間が考えたところの原理》を やはり暗黙 いや公然のうちに もっていなければならないか(ソシアリスム)と なるであろうから。
後者のばあいは たとえば《人間による人間の搾取》を・だから一般に《私有財産》を 原理的に 否定するという規範が 経済学の《はじめ》となっている。このような規範を 幸か不幸か もたない前者のばあいも なんらかの経済学説を 原理としてのように――つまり 経験法則の必然の圧倒的な有力を 神としてのように あるいはまた 原理=真理は一つであろうのに いくつかの原理があると言ってのように―― そのあとで 主体たる人間を じっさいには 考えている そうして このなんらかの《経済学説的な人間》という一種の前提的な規範が――さらには 人工の《大前提》が―― ふつうの人間の存在を 制約しかねない。これは まるで 遺伝子の操作をしているみたいだ。
きわめて微妙な点であるが われわれの経済学のはじめは 経験世界としての人間・社会・歴史であって――ただし その法則また法律ではなく あるいは この経験法則から自由になって脱け出し 何が何でも新しい法律をもって共同自治していくための権力ではなく はなはだ素朴に 全体の経験世界という動態であって―― このことが 最後まで有効でなければならない。ということは この《はじめ(出発点)》が むしろ その全体として 動いているということにある。そう言っていくことも重要であろう。
いくつかの経済学説は このとき 《経験的なはじめ》の動きに合わせて 推移するのだとさえ――そのように 無節操だとみられかねないかたちでさえ――捉えなければならないところの 人間の有であるはずだ。われわれが用いるものであるはずだ であって 他方で 経済学一般が 文学を基軸とすると言ったなら 具体的な個々の経済学説に 当然のごとく 私有財産(または その社会的なあり方)の解決とか福祉厚生などなどといったそれぞれ文学的な見解は――主観的なものだから 個人差があるであろうが―― 反映しているものであるはずでも ある。
こうして 経済学が 政策主張としても 理論認識としても 自由に 表現され そのような主観の 世界の内における 相互対立的な関係たる《動く出発点》のもとに われわれは すすむ。
もし このように言うことが 非現実的だと見る分には ありていに言って 権力の問題が――いま現在の権力が どの経済学説を 支配的に 採用しているか これが―― 介入してくることによっていると言わなければならず 言わなければならないのだが いま主張するような《はじめ総体》のもとに 経済学があって すすむという場合には 権力も そのような意味での経済学者・つまりわれわれ自身の中に――もう一度繰り返せば あの《大前提》の人間・つまりわたしたちのおのおのの主観過程の中に―― あると見ていくことになる。権力を言わなければならないとしたなら それは われわれ一人ひとりの中にある。
しかし 主権在民といった法ないし一つの規範であるが それとして すでに 現実的である。そして――それでも―― 非現実的な考え方だと見えるということは あの人間という《大前提》が まだ あるいは 相当程度すでに 有効であるけれども それが 必然の世界の経験法則の有力の前に ほとんど無力とされていると見ることと おなじである。この ただちには現実的でない考え方を――経験世界というはじめに立つという前提を―― われわれの経済学は ふたたび積極的に 第一原則として持っているとおもうのである。人間とか生活とかの全般に付随する第一原則として持っているとおもうのである。
われわれの《はじめ》という動態が 現在では 《主権在民》という一つの法規範を持った。これは ただし そうなる前にも 《はじめという動態》は そのことを 一つの内容としていたはずである。《はじめという総体》を小前提として立てうる・立てたということは その立てる主体である人間・市民の一人ひとりに 主権があるということでなければ 出来ないことである。これは わたしたちの普通の《大前提》であるが これを たとえば《世界精神》といった原理が そのように 歴史的に現象するようになったなどと見るのは 文学の問題である。
われわれは おそらく そうではなく 《はじめ》としての人間の有が 歴史過程的に 人間によって そう表現されるようになったと言っている。民主主義が常識となるために もし戦いがあったとするなら――確かにあったが―― 文学の問題が関与しているし 経済学も これを一つの基軸としていないのではないのだ。
権力の移行とか 一般に社会制度の再編成のプランとかを そのために さらに述べなければならないであろうが それらのことが 《はじめ》ではないというのが あたらしい経済学の考え方なのである。だから 《はじめ》の さらにやはり 具体的な内容ではあるだろう。くどいように言うと 経済学の一つの基軸となる――あの《大前提》に立ってそうなる――文学的な視点は 《はじめ(社会動態)》そのものではない。いわば文学は この第一原則で 突っ走る。経済学は 《はじめという総体》の観点に立つ。両者は 互いの相違をみるよりも 互いに綜合されてあるところ(その姿 つまり 自己の主観)を 見るべきであろう。
この主観は むしろ 一般的にと同時に基本的に つまり基本的に《人間という大前提》の問題であり 社会一般的に――むしろ――権力の問題だと 考えられる。ともあれ 経済学は 《経験世界というはじめ》から出発し つねに そのように進んでいる。これは もし 大前提としてのふつうの人間が 社会経済的な経験法則の有力によって 無力とされており しかも有効であることをやめないとするなら むしろ有力な経験法則すなわち 《はじめの経験世界)の具体内容であり形式であるものに わざわざ対抗していくのではなく それをそれとして認める小前提に立つのだというかたちで――しかも そこでも 文学的な意志の側面としての第一原則も 同じく有効にはたらかせているというかたちで―― 経験行為としての一つのイデオロギとさえして 主張していってもよいように思われる。この《はじめ》が 時間的な前後関係としてではなく あたかも原理的に 権力とか経済制度とか価格の問題等々に 洗脳すると考えるのである。(これは 経験的な考えである。)
(つづく→2006-11-28 - caguirofie061128)