caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2006-11-18 - caguirofie061118

《考える》は《信じる》の関数であるが 《信じる》は《考える》の領域で 表現される(つづき)

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精神が肉体に結合される仕方は 人間によって理解されること能わず。しかも それこそまさに人間なり。
アウグスティヌス神の国〈5〉 (岩波文庫) 21・10 cf.パスカルパンセ (中公文庫) 2・7)

これを わたしは 《考える(精神)》と《信じる(表現として 霊としよう)》との関係におきかえて 言い換えることができるとおもう。《霊(精神の霊でもある)が精神に結合される仕方は 人間によって理解されがたい。しかも これこそ 人間である》と。
つまりまだ 《考えるが 信じるの関数である》を言いかえたにすぎない。《考える》経験科学が それを超えたところの領域を 信じるにせよ信じないにせよ その超え方は 精神において むしろ つながったかたちでだと思われる。そのつながり方は にわかには理解しがたい。これは 定義でもある。しかし精神において その接点が あるであろう。
精神も この意味において 霊だと言われる。そして 精神と肉体とが 霊の関数である。逆の言い方をしても 同じ意味内容を言うことになろう。
科学は――現代科学は――霊について 言い及ばない。大前提をもうけた上で 正当にもである。大前提をもうけた上で なおかつ 大前提が含んでいるところの《信の領域》を われわれがそのものとして 詮索しないという意味でも 正当にである。
ゆえに 《我れ欺かれるなら 我れ存在す》は 科学の試行錯誤の過程としても 解釈することができる。アウグスティヌスは ここで 主体を言ったわけである。われわれの特には 精神の運動ということ。しかしそれとして 《わたし》のことである。科学は その対象(世界)を 経験世界として見ているわけである(つまり むろん 経験科学である)。その意味で 《わたしは考える ゆえに わたしは在る》と言う。
科学においても 《わたし》を置いてけぼりにしていってはならないし それと同時に 《わたし》は 信じる領域そのものではない。ゆえに 科学の領域で(科学をとおして) 欺かれたなら 《信じる》に再到来して 存在し(存在を確認し) 《考える》を引き継ぎゆき 語る。つまり 存在(本質)を いわば自乗・三乗しつつ この存在である《わたし》にどこまでも とどまる。このわたしは 科学行為の主体である。

  • 科学として未知のことがら・つまり いづれは知られるであろうということがらについても 仮説が行なわれるなら ささやかにその奥に《わたし》は控えている。けれども それだけではなく そのような経験領域について科学する行為じたいに――つまり《考える》行為じたいに―― じっさいには《わたし》とその信の領域が控えていると考えられる。
  • 考えるは 信じるの関数である。その関数の中味・仕組みは にわかには分かりがたい。
  • 自乗・三乗しどこまでもその連乗積をつくって 自己の同一にとどまり とどまりつつ その自己を開く存在である《わたし》は もし 《考える》だけの主体であったとするなら――つまり《信じる》の領域など まったくないとするなら―― 科学行為の成果としての知識は その基本的な理論の部分が 《わたし》だということになる。だとすると その理論が欺かれた(まちがっていた)なら その《わたし》は まちがった存在だということになる。だから とうぜん そうではないはずであって 存在(われあり)と行為(考える)とは 互い

に別である。だから ただしくは 《まちがったとき・欺かれたと気づいたとき わたしは存在する》と言っていなければならない。《われ考える ゆえにわれあり》は 《欺かれるなら われあり》からの派生理論である。
ただし――ただしである―― 一般的に言って 《信じる領域》を詮索して想い描くことをわれわれは しない。(神秘主義思想家は それを 好む)。
このわたしは おそらく 《欺かれえない信じる領域》に 触れられている。(あるいは そんな《〈信じる領域〉などないと信じる領域》に なんらかの根拠を 置いている。)しかも その領域をあれこれ想いやらない。(想像力をたくましくして 思いやっても 一向にかまわない。)その触れられる仕方は――つまり 表現としてわかりやすく言えば 神に触れられているそのあり方は わたしには わからない。わたしは 信じている。信じたゆえに わたしは語る。考える動態として あるはずだ。
考えるを前面にもってくれば 信はこの考えるの関数であるとも言ってみることができる。《不合理(わからない)ゆえに われ信ず》(これも アウグスティヌスのことばだが)は この《考える動態》ということと 潜在構造的に おなじ一個のわたしである。
経験的な存在であるわたしは なお いたるところであざむかれるであろう。しかも わたしがもはや あざむかれることを欲していないというそのこと自体は あざむかれない。あざむかれ得ない。欺かれえないと知るとき 欺かれるということを そもそもの話として 恐れないであろう。だから わたしは 自己を恃(たの)まないであろう。
《考えるが信じるの関数であるという構造過程的な存在》つまり自己は 《信じる》の対象ではない。だから 計画経済の社会が この大前提そのものでもなければ あるいは 大前提の社会的なすがたに似ているとすれば 似ているとしても 大前提の理念的な形姿も そのもし言うとすれば忠実な反映としての社会形態も 人間ないし自己そのものではない。ましてや 信じる対象ではない。と同じように他方で 市場経済の社会では 考える経験領域で捉えられる経験法則が 圧倒的に有力であったとしても われわれの大前提ないしそれをもった人間=自己は 有効である。というふうに 考えすすむ。この動態。
わたしたちは 《人間が考えるとは どういうことか》を考えているのであるから この小論は この《考えすすむ》ということを 結論としているのである。
つぎには 精神と肉体との関係について 考察すべきであろう。この考える動態・つまりわたしは 肉体を離れて 存在しているのではないから。そうでなければ わたしは 自己を・自己の精神を 恃んでいることになる。精神は 接点だが――信じるの領域との接点だが―― まだ信じる対象ではない。考える果てにであるなら それは 考える領域の内にある。まだ《見える手》である。つまり この小論の最後には 偽りの精神主義を 批判することへ すすまなければならない。精神と肉体との関係を偽る考えが 見られる。


精神(理性・知性・また意志力)は 人間の有(もの)であり 人間が経験的な存在であるからには 経験的な(有限な)ものである。有限なものである精神は 無限なもの=考えられないもの=信じるべき(もしくは 信じないという判断を信じるべき)ものと 接している。という考えも 同時に これまでのわれわれの結論的な内容であった。
精神は 人間の経験的なことがら=考えるべき領域 の最高のちからであり また 場である。俗にというか一般通念として――つまり その限りで 考えとしてだが―― 人間は天使でもなければ 獣でもないその中間的な存在だと言う。これが 精神のことに注目している。すなわち 肉体と結びつきあった精神 と同時に 霊(信じる領域)と接しあった精神 という定義においてである。われわれは 肉体的な存在であることにおいて 質料(モノ)の運動を――生物自然として また 生理的なあり方として この質料の運動を―― 動物と共有している。動物がこれを 考えないし 自覚しないとするなら われわれの精神の作用は 天使の領域に かぎりなく近づく。近づくというのは 接点があるであろうという意味で 似ているということだ。天使という言葉じたいも この接点ゆえに 信じる領域が 霊だと表現されたりすることから あたかもその霊である主体(神とよんでいる)からの使いだという表現になるのだと捉えられる。天使と精神とは 同一だということではない。
天使とは 仮りにというか表現上(だから これも 一つの考えとして) 信じるべき霊の領域でのあたかも《考え》を捉えて 言ったことばであろう。この霊としての考えは そういう《はたらき》ととらえるとよい。《考えられない領域》のはたらきが あたかも 考える領域において(また これをとおして) ふと見られたと われわれが いつか 直観したとき これを捉えて ことばでは 天使と言う。《考えられない領域》のあたかも《考え》。
われわれは 《信じる》とき この天使の存在を欲する。自己を恃まないということは そういう意味である。考えられないと分かるとき したがって ことばで言い表わし得ないと悟るとき しかもなお われわれの意志を・心を つたえたいと思っているとき 精神(考える)を超えて――あたかも超えて―― この天使の存在を欲する。科学も 考える領域以上のことには もはや言い及ばないというとき 潜在的には 天使の領域にゆだねたのである。正確には 信じる領域にゆだねて その領域の使いであるかのようなはたらきの存在を 欲した。
天使の存在を信じないと信じた場合 天使の存在を欲しないことを欲した場合 この場合も 意味内容は 同じだと思われる。ひらたく言うと いづれわかる時が来るだろうと考え――そこには なんらかの信じる行為が見られるはずだが―― その時を待ったのである。言いかえると 《信じる》には この期待がある。信じることが なお考える余地のあることをとおして われわれを ふたたび・みたび起ちあがらせるであろうという希望がある。
ただし 信じる領域じたいは――定義にもとづけば―― もはや 時間的・経験的に考える必要のないというほど 同じく信じる必要すらないと言うべきほどの神の領域である。したがって そこには――その限りで―― もはや希望するべき何ものも 希望する必要も やはりないであろう。人間が 考える領域で生き しかも 考える領域を超えて 信じるというとき それは この《望む》を内包している。
精神は それじたい 人間の有であるから 《信じる・望む》の対象となる領域ではないが この領域とつながっている。じっさい 考えられる以上のことに対しては 信じる(信じない)・望む(望まない)あるいはその他 ねがう・いのるなどという言い方を 経験的に するわけである。
つまり 精神は 有限である。あたかも肉体の――その質料(素材)の――朽ちるべき性質にもとづいてのように 可変的・時間的にして 有限である。しかも いってみれば 不可変的にして無限の・または不壊敗的なものを 信じ のぞんでいる。その領域を 待ち望んでいるし その領域の作用としての天使の存在を欲している。または こんなこと どうでもよいと考えている人は しかし こんなことを取り立てて否定しようというのでもないわけである。

ところが 精神が 人間の最終的な拠りどころと見なされることは 精神じたいが 信じるの対象となったことを意味する。

すなわち 精神は 信じ望み 天使の存在を欲するのではなく 天使の能力を 自己のもとに 欲したことになる。ここに 偽りの精神主義が ひそむ。精神による自律といった考えが 生まれる。それしかないという主義が 出てくる。

  • むろん 信じるの関数である精神(考える)のそれとしての自律・自立は ありうる。

これは みづから 自己の肉体を この世で 脱ぎ捨てたことを意味する。のではないだろうか。天使の定義に関するかぎり そうであろう。それとも 他に 別の定義があるだろうか。
繰り返そう。肉体のない天使の能力を――なぜなら 天使は その使いとしてのはたらき自体が 存在なのであるから 肉体など持たないその天使の能力を 人間が――欲するということは この世で 自己の肉体を欲しないで これを脱ぎ捨てたことになるのではないだろうか。その人は あたかも空気のような存在になるのだ。意外とこういう人は いるものである。
端的に言って かくて 道徳(精神の徳)の旗じるしのもとに 不道徳な信仰(つまり 思い込み)や それらにもとづく考えが 横行する。和を以て貴しと為すと説きつつ その和を自ら裏では乱す精神主義の思想が横行する。
わたしの精神は つまりわたしという人間は もはや何ものにも欺かれない存在だと その人は おどろくべき狂気をもって 宣言したのである。道徳的に精神的に聖く堅忍不抜だという考えによってである。《考える領域》によって・これをもって 信じる領域に代えた。早くいえば 自分を神とみなしたわけである。
かれらの考えることは じっさい 狂気に満ちている。すなわち 人間の精神と天使の能力とのすり替え 天使の存在と肉体的存在との 精神を介した倒錯。あたかも神のように――あたかも神のように――いかなるものの下にも立つまいと言ってのように この経験世界を離れていき じっさいは ただ 考えているだけである。まちがっても 決して非を認めない あやまらない そうすれば わたしは天使の能力を駆使していると思い込む。思い込みは強い。すなわち 《信じる・望む》と《考える》とを 転倒させている。
平たくいえば おのれが信じ望むものは みな おのれが考えているのだからと錯覚し それらは この経験世界において 何でも手に入れることができるとうそぶく。そんなこと出来っこないと知っていても 自分は もはやこの世を離れて天使となったのであるからと言ってのように すでに すべてを獲得したと言い張る。精神の領域が それだと かれらは 説教してはばからない。これが 人間の支配欲の世界における支配欲の充足のための――その支配欲に自らが支配された――《考える》の世界であり 偽りの精神主義である。
独裁者とか専制支配の問題でもある。市場経済の社会全体 あるいは 計画経済社会の その上に君臨するむしろ精神主義の精神。かれらは かれらも――かれら自身にあっては 自分たちだけが―― 《考えるが信じるの関数であるところの大前提に立った〈人間〉》であって 《需要と供給の関数であるところの経験現実の価格とその体系》を そこから抜け出て 自由に操作し管理できるのだとしばしば 考える。
この精神主義は その転倒において 肉体主義・物質主義にほかならない。肉体を離れたと宣言するところの肉体主義である。もし 言われているように エコノミック・アニマルが 経済力による支配の問題だとするなら これは いま見てきたように 精神主義すなわち偽りの道徳主義によっている。われらが日本社会という生活共同の徳と善をかかげる精神主義というのも 大きいと思われる。そういう肉体主義・物質主義は 偽りの精神主義が 実態なのだと思われる。肉体が転倒するのではなく 精神が 考えると信じるとを 倒錯させるのである。道徳また法律は 考える領域のものであるのに それらに違反しないというただそのことをもって 自己の精神とし この精神(考え)を信じている。あとは どれだけこの思い込みが強いか――狂気のように天使の能力を欲し どれだけ獲得したか――によって 競争している。この競争に勝てば 肉体も物質も 法律に触れないかぎり 自分の自由自在だという精神の帝国主義である。
科学も これに仕えるとき 狂気によって天使に偽装した社会が そこに 出現する。科学(考える)が それに同意したのであるとしたなら そうである。
(おわり)