愛をめぐる基礎理論
(ダイアリ20040914の再録)
§1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと
世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。
- Y=考えれば分かること。
- いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行為によって分かるようになると考えられること。
- 科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明しうることがら。
- X=考えても分からないこと。
- いやむしろ 分かるか・分からないかが 分からないこと。
- 人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そのことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら。
- もしくは むしろこのように想定してしまっておくことがら。
ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。
経験領域(Y)は 有限で相対性の世界であると定義しておくならば もはや超経験領域(X)は いまの定義のなかに織り込まれているとも言える。
だが それとして触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。
- 超経験の領域= X
- =超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
- =〔そしてこのような意味での〕神・
- =〔人によっては次のごとく言う〕無・空
たとえば 経験領域における未知のことがら(あくまでYに属する)は はっきりとXではない。人間の精神は 人間も経験存在Yであり 精神も有限でありYに属す。《精神は永遠(=Xに属する言葉)なり》というのは 喩え(修辞法)や冗談でなかったなら 間違いである。《無意識》は Xに属しておらず 神でもなければ絶対法則でもないだろう。
§2 《考える》と《信じる》
考えるのは また考えたことを表現するのは また表現をとおして意思疎通をおこなうのは そしてさらにこの意思疎通の歴史を伝えあっていくのは 人間であるから 経験領域Yの中より 特にこの人間を取り出して その位置を捉えよう。
- 人間存在= Z
とすれば 経験領域Yに対する人間Zの関係が いまの議論では《考える(Y−Zi)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域Xに対するわれわれZの関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが 意味をなすかどうかは 分からない。
《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(=X)》に対するわたしZiの関係は 一般にも 《信じる(X−Zi)》と称される。これは 《考える(Y−Z)ではない》という意味で 《信じない(non-X−Zi)》と名づけても 同じことである。そもそも Xが 経験世界で言う有かも無かも 分からないゆえ X=non-Xであり 表現は《わたしZi》の勝手である。
したがって わたしZiは 信じる(=信じない)の対象(したがって すでに非対象)を 空(欠如)X−Zaと言おうが 阿弥陀仏(無量寿・無量光)X−Zbと言おうが 自由であろうし 神X−Zcとも ヤーウェX−Zdとも アッラーX−Ze等々とも 言い得る。
逆に 気をつけるべきは 仮に信仰において 信じる対象は わたしZiがわたしの精神によって思考して抱く神の像(すなわち《考える》の問題=Y−Zi)ではないことである。人間Zが信じるのは 道徳規律でも 倫理の信念でもなければ 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X(X−Z)と Y(Y−Z)〔特に 精神とその産物〕とは峻別しなければならない。
§3 超自然Xが 経験世界Yないし人間Zの歴史(��Y-Zn)に介在しうるか。
これに対する答えは むしろ簡単である。
絶対者Xを想定したときから すでにわたしZiは そのXによる介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(non-XーZi)において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界(��Y-Zi)は 思議すべからざる絶対者Xに対して 開かれている。
しかも ややこしいことには わたしZiたる人それぞれによって その介入のあり方(X-Y-Zi)は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない。(宗旨替えなどと言われる。)
議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を一人ひとりが 明確に判断し 仮に変化を受けつつも その形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。
信じる(X-Y-Zi)か 信じない(non-X-Y-Zi)か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。
いま一歩進めるならば このおのおのの基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計の誤解やら対立やらを 防ぐことができよう。
信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言い換えると たとえば神Xiが人間の歴史(��Y-Z)に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。
もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示をも含めて わたしZiのX体験およびX史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。
§4 超経験Xと 経験領域Yおよび人間存在Zとを 峻別するならば 議論を交通整理していける。
たとえば 愛は まず次のように整理しうる。
超経験XとわたしZとの関係たる《信じるX-Z》の領域で享けとめられる愛と わたしZが《考えるY-Z》領域で経験される欲望・意欲・観想などの愛がある と。
われわれは もしくは世界は 信仰領域での愛によって包まれている。無信仰の人の場合 愛(X)によって包まれてはいないということは 愛の無 (non-X)によって包まれている ことになる。これは 初めの想定なのである。
超経験の領域は 経験存在たるわたしたちが 有だの無だのと 人間の言葉で言っていることがらを超えているのだから その絶対者Xを有と言っても無と言っても 互いに変わりはない。言い換えると 繰り返しになるが 信仰の領域では 有神論(X−Z)も無神論(non-X-Z)も それぞれの意味内容に変わりがないし 二つの呼称は 仮のものである。もしくは 有神の名称(かみ ブッダ ヤーウェ アッラーなど)も それぞれ仮のものであり 同じく代理表現だと言うことができる。人間のことばでは捉えきれないX(non-Xを含めた意味で)を 仮に翻訳して・また代理させて 用いている。
このように交通整理できると思うが 問題はなお発生するかも知れない。
ひとりの人間であるわたしZiは 現実には 信仰(X-Zi)と経験思考〔情感を含む〕(Y-Zi)とを合わせた全体である人格(X-Y-Zi)として 生きている。経験感情で受けとめる愛と 信仰の観想で享受する愛とは 果たして 区別・峻別することができるであろうか。
いまこの問いに対しては 二つの側面に分けて答えうる。
- 感情経験や思考経験のなかで捉えた愛(Y-Z)が 信仰の愛(X-Z)の代理表現ではないかと察せられる場合があるかも知れないという一面。
- 別なのだが 超経験Xが経験Y+Zに介入すると見た場合には 経験領域(Y-Z)がすでに 信仰領域(X-Z)を容れて 二重構成(X-Y-Z)となっている。つまり わたしZiが 経験存在Y-Ziであると同時に そのままで 信仰の主体X-Ziでもある。
- にもかかわらず だとすれば おそらく 事後的にであれ 分析によって 二者は 区別されうるであろう。
- そもそも 信仰の愛X−Zということ自体が 考えるY-Zをとおして捉え得た観想X-Y-Zでしかありえない。二重構成であると同時に どうしても互いに異なるものが 初めに想定されている。
ゆえに 分析が必要である。
§5 経験Y・Zと 超経験Xとを 識別する事例
仮にわたしは 経験の愛によって包まれていると言った場合 この時の愛は 欲望の愛であったり穏やかな愛情であったりするだろうが それは 憎悪や怨念や嫉妬に包まれていると表現する場合と 互いに同じ次元のこと(Y-Z)だと考えられる。
このような情感のすべては そのそれぞれ(つまり愛情なり嫉妬なり)を 相手から受ける場合 時にはなるほどわたしを包むと捉えることもあろう。しかも これらの感情経験は いずれも わたし自らが その行為者になりうることがらであり そもそも初めからわたしはその経験主体として存在していた。
信仰の愛は 受動することはあっても 人間みずからが 主体的にそれを持ったりおこなったりすることは ない。したがって 包まれるというのは 厳密には こちらの愛つまりXの領域によってという場合に限定するのがよいと考えられる。
経験領域で 愛(愛情)の反対は 憎悪であるかも知れない。同じ次元に属している。信仰の愛は これらの次元にはない。これらの次元に 代理表現を見出すのではあるが あらぬかなたに その存在領域は想定されている。
この非経験・絶対の愛は 反対を持たない。愛の無(non-X)は 同じもの(=X)であっても 反対物ではない。強いてあげるならば 信仰もしくは無信仰という基本の形態を いつまでも 曖昧のままにしておき 自らの立場としては明らかにしない態度である。つまり 愛の反対は 憎悪ではなく 無関心である。
このように 交通整理の事例を分析し 増やしていくことができる。
§6 練習問題
- 必然・偶然という概念は 果たして わたしZiにとって 経験Yと超経験Xとをめぐって どこに位置づけられるか。
- はじめに ことばが あったと言われることがある。言葉は それでは どうか。神Xであるのか それとも 今このようにも言葉を用いて表現する経験行為中だが どうなのか。
- そのほかに XとそしてYおよびZとの区別という交通整理をしておいたほうがよいと思われる用語は なになにか。その内容説明とともに 示しなさい。