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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-20 - caguirofie050420よりのつづきです。)

第四十四章 《出発点》じたいが 動態である。

柄谷行人氏が 偽善をかかげたからと言って これを ただちに偽善原則の二重人格であると決め付けるのは まちがいである。その点に触れつつ 批評を補っておきたい。
煮詰めた議論としては その著《探究(1) (講談社学術文庫)探究2 (講談社学術文庫)》によれば 柄谷氏は同じくのように 信仰原理を《出発点》において捉えているように思われる。

  • わたしたちの批判点は それが 思想原則ないし科学認識に終わっているのではないかという微妙なところにあった。だとすれば 人間的な偽善の原則となって 必ずしも話し合いの実質的な内容を 実際には形成しがたいというものである。だが 無神論として 一つのしかるべき信仰形態であるかもしれない。

わたしたちの見方と対照させるかたちで 次のような柄谷氏自身の図示をとらえることができる。

(R)人間(人間原則)の《出発点》にかんする柄谷見解

                 《観念》
                 ・・・・
                  普遍性
                   |
                   |
  《概念》‐‐‐‐一般性―――+―――特殊性
                   |
                   |
                  単独性

(《探究2 (講談社学術文庫)》p.150)

次のように 形式として 対応する。

(R−1)われわれの見解〔cf.(§43)〕
《主観真実 〈Y−Y−Z〉−Zi》=《信仰X−Zi》 + 《知性真実 X−Y−Zi》
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     《信仰 X−Zi》
                     ・・・・・・
                      真理 X
                        |
                        |
  事実 Y‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐一般性―――+―――特殊性
   (その概念認識 Y−Z)      |
                        |
                      わたし Zi

  • ここ(R)で《観念》とは 《無限》の観念であり 真理 Xのことだと考えられる。または それとの関係たる信仰 X−Ziのことである。
  • また 知性真実 X−Y−Ziの中の概念認識は 類と個 ないし一般性と特殊性とが かかげられている。これら二項のみを掲示する形式を踏襲した。
  • あとは わたしたちの《出発点》と同じだと思われる。
  • ひとつの早速の疑問は 次である。《単独性》――たとえば《この私》――として わたしたちの言う個人=《わたし Zi》のことが捉えられているにもかかわらず その意思表示が具体的に実践に(つまり 話し合いの過程に)現われて来ない嫌いがあるようにわたしは見ている。

紹介や説明はすでにこの図解や著書のほうに委ねたいと思う。そのほかには 次の一点を補足として取り上げておこう。
探究2 (講談社学術文庫)》の中で柄谷氏が 具体的な信仰形態を 一方で 有神論(デカルト / スピノザ / キルケゴール ら)として 他方で 無神論フロイト / ウィトゲンシュタイン / 柄谷行人じしんら)として とらえているように思われるという一点である。
もしここでも ひとつだけ批判があるとするなら それは《あとがき》の中で 次のように締めくくっているところである。

(S)・・・これら(探究(1) (講談社学術文庫)探究2 (講談社学術文庫)・そして新たなⅢ)を書いている時だけは 《考えている》という実感がある。
探究2 (講談社学術文庫)文庫版〈あとがき〉p.370)

ここで《実感》は もしこれを《確信》とよむなら 主観真実の――その表明であるとも考えられるが これだけでは 独善ではなくむしろ独言となり その独言は―― その実感が《〈考えている〉という》内容であるだけに 人格全体の出発点のあり方に呼応しているかどうか 上に(R)の図解の如く解釈はしたけれども わかりかねると思われ だとすれば――むしろ自己閉鎖的とさえ受け取られかねないように思われるからである。自由原理(原理自由)に立って話し合いにつくというよりは 話し合いには無論コミュニケーションとして無条件に就きつつも 実際には 原理自由よりは出発点の図示内容に関する認識とそれの意識的な実現へ向けての努力とが 重要視され先行しているように思われる。
この極論(また 印象批評)の限りでは つまりのこと この自己の鎖国感のように受け取られかねない内容は それが 出発点の無力の有効を現わそうとしたというよりは その鎖国感が人びとに与える印象の作用によって 一方では 好悪自然の無原則を自らは排斥し自らに寄せつけまいとして 他方で その拒否の姿勢のもとに むしろ世の中の悪貨関係の中に自らもそれとして別個に有力となろうとしている このように読む人があっても それに反論することが難しくなろうと思われるからである。人はすべからく この引用文(S)のように 自らの著作ないし探求の全体とも関連して その内容をもって 《考えて》いなければだめだと言うかのごとく 突き放してしまっているように思われる。ただし――この印象批評を抑えるならば―― その著書の少数の・真の(?)読者に対しては 連帯(つまり 信頼関係?)を述べようとしたにすぎないのかも知れない。
けれども ここには表現の問題があって それに関連して さらに次の二点をやはり言っておかねばならないと考える。一つは 人間の存在にかんして想定した柄谷氏の《出発点》(R)が普遍的であると主張するのならば これは 社会関係における具体的なコミュニケーションつまり話し合いの過程で 過程的に実現するものであると解していなければならないということである。その実践過程にある単独者としてのそれぞれ個人は もはや《わたし》でありつつ 必ずしも 私的な《わたし》ではないとも捉えなければならないと思われることである。社会のなかで特殊な立ち場にあって 一般性を議論するわたしは 互いに思想原則や具体的な意見を異にしつつ しかもその対立関係を超えて 話し合い過程のひとまとまりとしては もはや必ずしも(または あたかも)わたしではなくなっていつつ 答責性のもとに互いに妥当性を求めて 過程的な解釈に従っていかなければならない点である。このことが 必ずしも明らかになっていないように思われる。
そうなっている(明らかにそれも主張している)と見なければならない《可能性》はあるのだが 感想としてなら それらをすべて《考える》の領域で 一歩引いた傍ら(《外部》?)から 語っていると思われる。その《考えること つまり探求》が 《自己言及性》として 出発点いっぱいに(ということは 具体的な話し合いの場に文字通りに)ひろがっているかどうか この問題を残しているように考えられる。
逆に 《考える》を超えては 愛ないし信頼をむしろ《実感》の次元へ 表現じたいとしても はこんでゆく。つまりそのような実感を内容とする表現によって打ち出していくという行き方になっているのではないか。これは無力の有効なる出発点のあり方からは 出てこないことである。《考える》を超えてのことがらでは 原理自由の信仰現実 X−Ziのことは別としても その信仰の説明 〈X−Z〉−Ziとして 愛ないし信頼のことが 文章表現において語られてくるのでなければならないと思われる。《無神論》ゆえ 信仰現実ないし信仰原理については もはや何も触れられないということがありうるではあろうが それに代えて 《考える》やその《実感》の問題で処理されているとすれば 思想ないし科学認識としての人間的な偽善を 自らの原則に立てているように考えられる。そしてそれであるなら 好悪原則によっても持たれ得る建て前(その精確の度合いを別として)のことであるかに疑われる。
これもまだ 感想程度である。
第二点は もし思想を共有する少数の読者との信頼関係をとらえ これを持続させようという意図が 引用文(S)の主張にあるとすれば それに対してわたしは それじたい批判する必要がないとしても やはりその行き方は どこか違うと考えている。わたしたちの意思表示としての表現は むしろ思想なり信仰なりを異にする人びと 特には好悪原則につく人びと に向けてこそ なされるべきだと考えるからである。
その愛を別として――つまりほとんどただ社会的存在であるということ その存在関係のみを内容として普遍的であると想定される愛を抜きにして―― 信頼関係をきづこうとすることは出来ないし 信頼関係をきづけると思う一部特定の人びととの連帯を優先させることも その部分じたいにおいて むしろ有効なる無力を なんとかとにかく有力なものにさせようとしているように思われる。その仲間どうしの間の勢力の結集〔という行き方〕は むしろ好悪原則に沿っておこなわれていることのように捉えられる。
この連帯は 愛の愛を その少数者の間の信頼関係を むしろ一塊の社会的な有力となそうとしがちである。仲間のうちでは 出発点としての無力の有効で進め 外に向いては そこから離れた好悪原則の《無効の〔その実効性としての〕有力》によって そのような外への対処・また外との交渉には 結局 無関心となっていはしまいか。鎖国政策でないとしても 好悪原則の世間に対して あたかもそれぞれ自分の国が別々であると捉えていないだろうか。その上で 対立し批判をおこなっているようにも思える。
実際問題として・または通俗的に言って 国の政策なる個人間の事件なりさまざまな案件については 内部の連帯や他の勢力をも含んだ結集によって社会的に有力となることも――妥当性と答責性との原則のもとに――じゅうぶんありうると考えられる。しかしながら 同志のあいだで 《出発点》の認識を固め これによって(つまり 理念なり自覚なりの経験思考によって かつそのことの実現をはかる意識的な努力によって) 互いの連帯を形成し自らを有力にしようとすることは べつだと思われる。《観念(=この場合 非経験 X)》についての観念によって 信頼関係をきづきあうことに つながるかに思われる。
だから それならば 《〈考えている〉という実感》で連帯する必要はない。原理自由に立って さまざまな思想原則の対立情況そのものの中において 互いの意思表示の内容をとおして 理解しあい そうとすれば連帯しあっていけばよい。大幅に乱暴にいえば 《〈考えている〉という実感》を表明していることは まだ意思表示の現実過程の上に出て来ていない段階だと思う。しかも《出発点》のあり方を説明した図解(R)も それは あくまで想定であり すべては実際の自由な意思表示の場で過程的な結論を出し合っていくのだから その時の交通整理のために 〔《出発点》の考え方は〕用いられていくと言うべきである。この出発点は たとえ信仰原理にかかわると言っても 〔その図解としては〕せいぜいが交通整理のための一道具である。
柄谷氏の思想に対する批判は 確かにこのように微妙である。必ずしも理論的にではなく それは 印象批評の領域を出ないかも知れない。初めには その中から《偽善原則》のみを取り出して 論じていた。次に《世界宗教ないし普遍的原理》の内容を検討した。さらにこの章では 《出発点》が その認識としては わたしたちと共通しているとさえ思われた。このような批判の筋道は 必ずしも適切なものではなかったかも知れない。その上で疑問が残るとすれば――あらためてここで疑問を提出するとすれば―― 《探究2 (講談社学術文庫)》とその成果の叙述は まだ ひとつの前段階=つまり助走の段階にとどまると思う。《あとがき》からの引用文(S)における《実感》の表明は 《出発点》にかんする(R)の図解が ただその認識と理解とにとどまるように思われる。(S)の表明は (R)の図解を 道具として活用するに到っていないのではないか。無条件に自由な話し合いとしての本走・本番に現われて来ないのではないか。
この批判点は 実際に話し合いをもって具体的に尋ねてみないことには分からないことだが その旨わたしは読者の便りとして かつて質問したことがあるから なお暫定的になるかもしれないが 率直に以上のように考えるところを記すことにする。
(つづく→2005-04-22 - caguirofie050422)