caguirofie

哲学いろいろ

#5

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅱ §9

もとに戻って 信仰を想定することは そこに主体と自由意志とを想定することになるという点について。
従ってたとえば 自由意志の主体が みづからの信仰領域とそして思考領域とを 混同せず 取り違えることなく 明確に区別して 表現行為に及んだことがら これは――抽象的に言うことになりますが―― 基本的に有効なのだと定義することになります。けっきょくこれも 初めの想定の内容そのものなのですが。つまり いまの有効・無効は――経験思考上の明らかな間違いを別にすれば―― その区別にかんする判断が 決められないという内面領域でのこととなっています。
つまり 具体的に表現された経験思考と行為とにかんして それらは 言うならばすべて主体の自由意志にもとづいておこなわれると見ることになるわけですから それらの有効か無効かを決定することは 難しいし 無理だとも考えられます。そうすると あくまで前提としての想定内容そのものの中でのみ いまの有効・無効を 定義していることにもなる。これでよいという一結論に達することにもなるのですが それはつまり 信仰とその具体的な形態(とくには 有信仰と無信仰と)にかんして有効であるというのは そもそも 無力の有効だということです。これは 《不可能性を宿命とする〈享受への意志〉》という捉え方に呼応しているはずですが 《無力の有効》として信仰領域は想定され その限りで・そのような形で 実際は・実際にも 経験思考の領域に 先行しているということになると思われるのです。むしろ――先走って言えば―― このゆえにこそ 交通整理をおこなえるようになると思われるのです。
まず 主体における信仰にかかわる自由意志は 無力のうちに有効である こういった内容が やはり前提事項としてみちびかれます。経験的な対象に向かう欲望(意志)とはまったく切り離された意志(純粋欲望の純粋受容〔また非受容〕) これが有効であり かつそれは どこまでも――どこまでも――無力のうちにある。まずこのことが想定され しかもそのゆえに わたしたちは 社会経験の上で表現される経験思考の一般に対して 時にこれこれの内容は無効ではないかと指摘しあうことができ この指摘までとしての交通整理を 可能とさせます。
具体的には すでに一例として示したように 一方で基本的に もはや有効・無効は 判断できないにもかかわらず 他方で もし一定の思考表現に 明らかに信仰領域のことがらが混在していたとするなら これについては 経験合理性の規準によっても 説明することができるからです(§8)。あるいは逆に 信仰そのものにかんする表現行為があったとすれば これに対しても もしそこに じつは 経験思考のことがらがすべり込ませられていたとするなら しかるべき説明を与え その限りでの無効を指摘することができるからです。
このとき こんどは 信仰は――つまり信じると考えるとの区別は―― むしろその純粋欲望と経験欲望とを 分離するがゆえに つなぐ役割を果たす領域であり むしろこの信仰領域ゆえに 経験欲望(経験思考とその表現一般)が 有効となって・または有効であることを目指して 生きることができると考えられます。
言いかえると 隠れたる神なる純粋欠如と人間主体なる経験存在とを 前者から到来する純粋欲望の純粋なる受容として つなぐ役割を果たす信仰行為が――ここまでは 内面領域であり 次には そこから外面の行為に踏み出してのように―― 人間主体どうしの経験的な表現をとおしての交通を 整理し そのように みづからの信仰とそして思考とをむしろつなぐ役割を果たす。
そしてこれは――分離の前提の上に つなぐゆえ―― 無力の有効のうちにだと やはり想定しなければならないと同時に それが 一つの過程的な結論にもなっている。一つの結論的な 人間の存在過程をも表わすことになっている。
このとき そのような つなぎの役目などどうでもよいという場合も そこに含まれるはずです。どうでもよいと言う人も どうでもよいと言われた人も いづれの人も 信仰と思考との両領域の区別という点では 経験合理性で議論することができ その限りで 時に必要なばあいには 具体的に 有効か無効かという指摘にまでも及ぶことができると考えられます。あるいは もっと具体的には 妥当か否かを議論することができるようになっている。
このことは 主体とその自由意志という想定内容にかかわることだと思われます。信仰および自由意志の主体が その限りで 社会関係的な独立性を帯びているということが 一点。この主体の意志の自由のゆえに 独立信仰は 無力の有効であると同時に 社会経験の交通においても 表現とそれにかんする判断を 自由におこなえる。そして その意志が 信仰と思考とに――主体において―― 共通となっている。
信仰の導入にあたって このような主体と自由意志も その基本的な想定内容として 前提しておくことができると思われます。直前の論点にも触れて もう少しこの章の議論をつづけます。

§10

自由意志とその主体にかんして いま一つの論点は 《信仰にもとづく自由意志の 無力の有効は それが 持続過程である》ということにあります。
純粋欲望は その充足が不可能な享受であるからには 信仰によって純粋受容したというときにも その享受としてわれわれの内にはたらき その限りで享受の対象となっている純粋欠如は あくまで どこまでも 他者 l'Autre でありつづけます。――つまり 内面においても 無力の有効。――しかもこれが 《内なる外》でありつづけるということは この純粋欲望の領域に――非経験でありつつ・または非経験に接しつつ―― 或る種の持続する過程が 想定されると考えられます。
ほとんど事実としてもそうなのだと言ってよいと思われますが そして じつは これが信仰であるのですが 特にそのはたらきとして・あるいは はたらきのあり方として 人間主体の意志自由というかたちでも 捉えておきたいと思うのです。
この信仰として持続する自由意志は 先行領域たる非経験に接し続けるという限りで ふつうの表現としては 人間存在の出発点におけることがらであると考えられます。そして そうだとすれば この出発点じたいがまた 一個の動態的な過程(時間的な存在)でもあります。純粋欠如から到来する掟(=人間の基本的な存在条件 / またそのような或る種のはたらき)に従うか否か そしてまた これらのいづれを選択したとしても そのあとに再び 意志決定を変え 別の選択をすることがあるということ そのようにはたらく自由意志 ここまでの内容が 人間の出発点に存在していると考えます。
この内容をまったくどうでもよいとする立ち場を含めて そのように初めの想定が展開されると言えるはずです。このあと――出発点から―― 同じく自由意志は 一般に信仰領域を離れて 一般の経験対象に向かっても さまざまに経験思考ないし欲望として その表現が展開されてゆく。いいかえると 経験領域のなかで その社会関係に対しても 《考える》というかたちでその能力が発揮されるのも この自由意志によってである。――むろん 意志がつらぬかれるかどうか 意志内容が実現されるかどうかは いま別の問題です。
信仰としてそれ(自由意志)が無力の有効なら 経験的な表現としてのそれが無力なのも必然ですが しかも なんらかの社会的な力を持つにいたるまで 実効性を発揮する側面も 事実問題として 見られます。
すなわち 信仰領域が みづからの信仰とそして経験思考とつなぐというのは じっさいには この自由意志の行為である。信仰じたいに そういう側面の内容がある。一方では人間内面にあって いわゆる信教・良心の自由にかかわって 出発点としての自由意志があり 他方では 広い意味での表現の自由にかかわる経験領域へと踏み出していく自由意志。この内外にわたる広義の自由意志には むろん 同じく内外にわたるその主体が存在している。
この自由意志の主体は その存在としての出発点じたいが 持続する過程にあり 動態であると考えられる。そしてこれは 信仰領域の存在ゆえにでありますから この動態が 無力のうちに有効だというときには とうぜんの如く 信仰領域としての・狭義の自由意志の問題であるはずです。これからして 無力の有効だということは 広義の自由意志にかんしてその経験行為へのみづからの能力の発揮は より一層 有限にして 相対的であると言わなければならないことになります。
まとめて言うことができるとするなら まず実際には 考えるの領域として 人間の社会生活の動態過程(歴史)にあって しかも 或る種の仕方でそれに先行する人間内面の領域があり これが 信仰およびそれとしての自由意志(またその主体)であって つねに 社会関係の過程のなかで 出発点となっている。しかもこの出発点じたいが ほんとうは(先行領域として)人間主体にとっての時間動態である。信仰が この持続過程であり その《わたし》であり わたしの原動力は 想定として純粋欲望であり このとき自由意志は 片や内面においてこの原動力たる純粋欲望の純粋受容(つまり信仰)であるとともに 片や一般に外面において あらゆる経験欲望の出発点ともなっている。または 踏み出し地点とも なっている。
欲望の発端としての人間の能力に着目するならば この出発点たる自由意志は ある種の統括者である。享受が不可能であるからには この統括はもちろん 無力の有効のうちにある。だから(時間過程にあって みづからの有効が無力であるというのだから) 持続過程であると言えるとともに 持続過程であるゆえに 無力の有効として=すなわち時間的に はたらくとも言える。
時間的にはたらくというのは 一定の時間の経過ののちに一定の既存の表現内容が修正され またさらに 時間過程(歴史)のうちに この修正・再修正は 必ずしも有効そのものであるかどうかさえ 決めかねるというかたちになっている。こういう持続過程として わたしたちは互いに生きている。しかもこれが つねに おのおのの主体のうちに 出発点となっている。つねに 出発点なのである。
ここからして――外に踏み出したとき――経験欲望の充足としてのいわゆる効用も 一般に 能力(自由意志)に応じてのことである。ということは 経験領域にあって 各自の欲望の表現と充足行為は 互いに相対的なものであり その考える能力や・またその考えの内容に応じて・あるいは 応じてかどうかもわからず決定しがたいかたちで 限られたものである。
時間過程にあるゆえに 別の見方では この欲望も むしろ無限であるとも見られる。一定の時点では 効用・快楽・つまり経験欲望の充足を 自由意志は持つ。また自由意志は みづからの主体として出発点を持続する限りで それに応じて 外面領域でも あらためて・または新しい形で 効用を経験する。出発点という想定の限りで 効用の経験は その経験(欲望の充足経験)のしかたが 純粋欲望ないし信仰に従うかたちで それとして 人間的であり 人間のものとなっている。
この最後の点は やはり無力の有効のうちにであり その最終的な結論を出しかねるという前提の上に 《有効》の問題がある。しかもこのばあい 各主体の経験として つまり その主観の問題ともなっている。あるいはすでに 経験欲望にかんする表現は それの有効か無効かを決定できないとすると あらたに 経験合理性にもとづく妥当という問題だと言えるかも知れない。すでに出発点からの外の領域へ出かけたあとにかんしてなら 妥当という問題へ移っていると考えられる。
妥当の問題も 出発点としての信仰の有効が それに先行しているとするなら 自由意志がそれを無力のうちに 統括している。これも 主観であるが 無力の有効としての統括である限りで 自由意志は 経験思考にかんする妥当性についても 力を発揮し 判断を寄せる。ただしそれは 妥当という問題そのものとしてであり これは 経験合理性じたいの問題となる。それは 後行する領域であり より一層 相対的な世界の中にある。すなわち経験合理的に妥当かどうかとしてでも判断を及ぼすのは 遠く出発点としての有効を保持する信仰のはたらきたる自由意志にもとづくのであるだろう。

§11

いまひとつの論点は 自由意志が信仰主体にはたらくというとき この信仰という内面領域は 二人や三人の主体が寄り集まって初めて 形成されるのでもなければ 同じく 持続過程としてその能力が発揮されるというのでもない。したがって その独立性にかんしてであります。
信仰主体の自由意志たる主観行為は 独立しておこなわれる。けれども この主観の独立は 独立といったその瞬間に同時に 自己のそれと他者のそれとが 互いに関係していることが 明らかになると思われます。信仰領域において自由意志の主体は わたしもそれであると同時に あなたもそれであるとしか考えられないから。わざわざ初めの想定で説明しようと思うなら かの純粋欠如とそして人間個体との関係構造が わたしにおいても あなたにおいても 同時につねにそして同等に 成立しているという以外にないのだから。
すなわち 信仰主体の意志の自由は 人間主体どうしの間で 平等である。信仰内面にかんする限り 自由意志は各主体にとって 互いに平等である。この限りで 自由は 即 平等のことであるにほかならない。
まとめていうならば 人間主体は おのおのの信仰領域にかんして 社会的に独立存在であると同時に 関係存在である。そのはたらきたる意志も 自由であると同時に対等である。自由な主観の表現が 互いに平等である。動態としての出発点が これとして どこまでも 互いに有効となっている。信仰の有効ゆえに 同時にそれは無力であり 無力の有効でありつづける。この出発点の存在が 広く経験領域にもあって 社会と歴史の主体である。
これを 信仰の基本原則とよんでおくことにしよう。

  • ちなみに 次のように表現しても 同じであろう。

今や 人間科学=社会科学によって確認された根本的事実 すなわち構造が《主体》をつくる 構造の作用や関係の結節点としてのみ《主体》が存在する という事実は疑いようがありません。
(p.32)

現代思想の基礎理論 (講談社学術文庫)

現代思想の基礎理論 (講談社学術文庫)

いまの基本原則にもとづき 今村理論における《排除された第三項》は 純粋欠如に引きあてられ それが純粋欲望として到来するとき 主体の自由意志がこれを受けて 信仰領域を形作っていると読む。これに対して 経験領域における・たとえば 犠牲身体としての《排除された第三項》は ことばは同じであっても 自由意志によって主体が みづからの出発点からも踏み出し 経験思考を介して表現し 社会的に現象させた結果のことがらであると考えられる。妥当性の領域にかかわっており 信仰は この経験妥当のことがらにかんしても もしその基本原則のおよぶ内容がからんでいたとするならば 自由意志によって それの有効性にいかんにまで立ち入って 判断をなす。経験領域そのものとしてある犠牲身体をもし 非経験の純粋欠如=隠れたる神であると 表現して来るなら たとえ多くの・あるいは犠牲身体を除いたすべての 人の主観がそう主張していたとしても それは 無効であり 共同の主観ではなく 共同の観念(観念たる神)・また共同の幻想であると宣言する。
ここまでが 基本原則とそしてその応用原則の内容だと思われるのです。応用原則とは 出発点における問題だと考えます。
信仰の基本原則は なおも 想定です。したがって その仮説の検討のための議論をひととおり終えてからでないと 何も言えませんが 或る意味で本論となるべきことがらであり それを先に まとめて序論として述べました。そのものとして以上が これからの議論の前提となります。
つづく→2006-02-05 - caguirofie060205