caguirofie

哲学いろいろ

#6

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅲ 《信仰》を導入すると 一般にどういうことが言えるか:《愛》ということ

――《非対象化労働》について――

§12

かんたんな議論からはいっていきたいと思います。
あまりにも単純な議論になるかも知れませんが まず 今村理論のなかから 《非対象化労働》という考え方をとり上げます。中味は重要だと思われますが なにぶん信仰領域としての無力の有効そのものを内容としていると考えられ その点では これまでの基本原則の復習になるかとおそれます。ただ 題材は新しいことがらであり そのほかに 基本原則に いまひとつの補論をつけ加えたいとも考えます。先に補論をとり上げます。

§13

先に結論づけていえば この《非対象化労働》が 信仰(その領域・その行為)のことであると考えます。信仰領域における自由意志が 労働行為一般にかんして発揮されるその側面 これに注目して 想定されているとも考えられますが けっきょく《信仰領域における》ですから 無力の有効という想定範囲のことだと言ったほうがよいでしょう。
《非対象化》とは ほとんど《非経験(つまり それにかかわる)》という意味に解されます。自由意志は 広く社会経験一般にも開かれ その領域に踏み出してもいますが このとき なおこの経験領域と対峙するようにして 出発点にとどまり持続している自由意志 そのはたらきが 《非対象化労働》として捉えられた こう考えます。
わたしたちのことばとしては 《愛》です。信仰にかかわる自由意志の単なる言い換えだといっても よいかと思われます。わづかに 社会経験あるいは社会関係の領域へ いづれは 踏み出していく・または すでに踏み出しているということを 予表するようにして この自由意志が 愛または非対象化労働として 捉えられるのだと。
したがって 出発点たる人間存在にかんして 愛は どちらかというと その独立存在性というよりは 関係存在性の側面で 定義されるとも考えられます。
もっとも 自由意志の主体にかんして その独立性も関係性も 社会的な存在として 同時一体のことではありますが。
この《愛》の問題も 前章までに述べてきた信仰の基本原則の一内容として ここに 補っておきたいと思います。
個々の対象にはたらきかける・生産としての労働が 《対象化労働》であるということですから 非対象化労働は その生産とは 区別されます。けっきょく 人間の生としての労働・または生活そのもののことだと考えられ ただしこのことが 《非対象》という捉え方の限りでは 明らかに純粋欲望にかかわる出発点の内面問題として 想定されているのだと思います。
この非対象化労働は 《アソシシアシオン(自由人の連合) / 共同性 / 協働性 / あるいは社会関係》のこととして説明されています。しかもわたしたちは これらの説明のことばを 代理として認識にかかわらせることはあっても 観念として捉えない・つまり経験思考の産物そのものとしては扱わないわけですから 信仰領域においてそのような性格内容を持ったはたらきなのだと解します。これを 愛とよんだのですが それは 《非対象化》という限りで 妥当だと考えます。
少し踏み込んで捉えるなら この愛は 自由意志なる行為能力として出発点における発端となっているだけではなく 行為過程にあっても その行為能力としてはたらき しかも 個々の欲望の対象を生産する労働過程一般を ある種の仕方で統括しており 全体として 出発点たる自己にそれをつなげて見るというかたちで 享受するかにはたらいている。また この享受も 出発点たる信仰の有効性を持続しえているかどうかにかんして 無力のうちに 判断しようとするかに はたらいている。この限りではじっさい 愛も 信仰の持続過程であり かつその出発点である。
意志が 純粋なる受容としての自由意志とそして経験なる個々の対象にかかわる自由意志にまたがり 欲望も 当然のごとく 純粋なるそれと一般的な経験欲望とに分かれるとすれば この愛も 広義にそのような両様の側面をもつとしなければならない。だとすれば 信仰における狭義の自由意志が そのまま 狭義の愛である。それとして不可能な享受の意志という前提の限りで 一般の経験欲望(すなわち 愛情・愛欲・知識欲・労働意欲など)の統括者である。これが 非対象化労働である。
つまりじっさいには 対象化(経験)と非対象化(非経験)との両領域にわたる社会的な生の過程にあって 両領域をつなぐその精神(信仰)の意志のことにほかならない。
一つのまとまった議論として 次の文章が参照される。

異質的諸活動を各人において固定化せず むしろ収斂させ統一性を実現するところの《通約するもの》は それが対象化活動でないというかぎりで 非‐対象化労働と名づける他はない。諸種の対象化活動は特定の目的と特定の性質をもった活動であったが それを《通約するもの》は そのような特定性と対象性を〔直接には〕もたない。それは ただひたすら もろもろの活動をとりまとめ 集約し 収斂させ ひきつけるところの独自の人間の活動態なのである。
(p.258)

わたしたちは 愛と言いかえ 《通約するもの》に対して 《統括者》という説明を与えた。すなわち 不可能な享受という無力の有効は 愛にかんしても同じであるという大前提に立ってである。
経験領域では当然 この性格(無力の有効のうちに統括者であること)を同じように 保たざるをえない。
この限りで 愛が 社会関係を アソシアシオンとする。つまり人は愛によって 人間関係において他者と 共同・協働の関係に入る。経験欲望において特に生産にかかわる対象化労働の一般を みづからの内面領域での《享受不可能性》において 総括している。享受不可能というのは 享受の或る種の予感があるといってもよいのではないか。この予感ということは 唐突に提出したかも知れないが そのようなむしろ経験を介して推進力となるのだと。
予感というのは 主観の問題であり これにわざわざ触れて説明するのは わたくしの主観であって 二重の主観性の危険を冒しているかもわからないが 要は 自由意志の持続過程だということにある。
内面の基本原則は 社会経験に踏み出す以前にも すでに無力の有効でしかないのだが どこまでも《無力の有効》という持続過程であるのだから そのあり方が いまの愛にかかわって 応用原則として 問われるかも知れない。非対象化労働といったように 社会経験にかかわる認識概念で 基本原則の説明を展開していくと ある種の応用原則の問題がそこにかかわってくるかも知れない。議論の過程で もはや応用原則などないとわかれば それもよいとすることになる。
ここまでで 基本原則をさらに補ったことになります。以下では 今村理論にかんしていくらかの論点を取り上げて 読んでいくことにしたいと思います。

§14

すでに第一の論点として 《非対象化労働》をとりあげています。これについての読みは かなり単純な内容になると思います。拍子抜けされても困るのですが しかも空想のような議論に終わるかと思われるのですが あえて触れておいてもよいと思われました。次の章以降の論点につなぐこともできるようです。

・・・具体的にどういうことかと言えば

・・・各人がどんな排他的な活動範囲をももつことがなく どんな任意の部門ででも腕をみがくことができる共産主義社会にあっては 社会が全般の生産を規制し まさにそのことによって私は 今日はこれ 明日はあれをする可能性を与えてくれる。つまり 狩人 漁師 牧畜または批判者になるなどということなしに 私は気のおもむくままに 朝には狩りをし 午すぎには魚をとり 夕べには家畜を飼い 食後には批判をするという可能性である。
新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫)

労働のオントロギー―フランス現代思想の底流 (Keiso c books) p.249)

一例としてこのようなかたちで 非対象化労働の実現する社会が 説明されている。それは フーリエの調和社会という思想からの影響があったと論じられている。
これについて まず むしろわたしは 信仰の基本原則を大前提としたうえで 大筋で認めたところから出発しようと思います。保留事項は 若干あって しかもそれらを あとに廻して 次のような空想の議論を ここに さしはさんでおこうと思います。もっとも 空想とは 無力の有効のことでもあります。
議論というよりは 単なる覚え書きのようなものですが いま フーリエ理論との関連のぎろんも すべて端折って 唐突にそして単純に 旧約聖書から さらにその淵源となったのではないかと思われるような箇所を引用しておこうと思います。イザヤ書の 第三部(§56−§66)の中で 黙示録ふうに書かれた部分(§63−§66)から たとえば次の文章。長くなりますが 一括してかかげることにします。上に引用されたマルクス(またエンゲルス)の文章内容と比べてみてください。

・・・
見よ わたしは新しい天と新しい地とを創造する。
さきの事(《あなたがたはわたしが呼んだときに答えず / わたしが語ったときに聞かず・・・》)はおぼえられることなく心に思い起こすことはない。
しかし あなたがたはわたしの創造するものにより
とこしえに楽しみ 喜びを得よ。
見よ わたしはエルサレムを造って 喜びとし
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び わが民を楽しむ。
泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。
わずか数日で死ぬみどりご
おのが命の日を満たさない老人とは
もはやその中にいない。
百歳で死ぬ者も なお若い者とせられ
百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。
彼らは家を建てて それに住み
ぶどう畑を作って その実を食べる。
彼らが建てる所に ほかの人は住まず
彼らが植えるものは ほかの人が食べない。
わが民の命は 木の命のようになり
わが選んだ者は
その手のわざをながく楽しむからである。
彼らの勤労はむだではなく
その生むところの子らは災にかからない。
彼らが呼ばないさきに わたしは答え
彼らがなお語っているときに わたしは聞く。
おおかみと小羊とは共に食らい
ししは牛のようにわらを食らい
へびはちりを食物とする。
彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく
やぶることはない。

と主は言われる。
旧約聖書〈7〉イザヤ書 65:17−25)

いまは あくまで 主体における内面出発点としての 純粋欲望にかかわる自由意志の問題として よむのであります。自由意志の 社会的な文脈のなかでの その基本原則(信仰の持続)にかんする応用原則いかんにかかわってのことです。つまり 非対象化労働=愛の問題として。
けっきょく 経験概念をまじえた表現で説明されたことがらについて わづかにその認識をとおして 無力の有効としての内容を 捉えてみようかという問題です。そのためには むしろ経験現実から離れた空想のほうがよいかとも考えられると同時に 逆に そんなことはどうでもよいという立ち場をも予想したうえでのことです。
表現にかんする限り ここで非対象化労働は 《各人がどんな任意の部門ででも腕をみがくことができる》その――無力の有効のうちにある――統括者(はたらき)のことである。すなわち 《自らの勤労(対象化労働)が むだでなく / その生むところの子らは災にかからない》《その手のわざをながく楽しむ》・そしてそれらの統括者としての愛のことである。
もし図式的にいわば――ここではあくまで想定にもとづいての話ですから―― イザヤ書の《わたし / 主》が 《純粋欠如・隠れたる神》のことである。
いいかえると――重要なことは―― 必ずしも将来の《共産主義主義社会》の問題なのではなく また啓示された《新しい天と地 / エルサレム》という時点での問題でもなく いま現在の 人間存在の条件としての 自由意志と愛・すなわち非対象化労働のことが――いまわたしたちの議論している時点では・またこの時点でこそ―― ある種の仕方で 考えるの対象となってのように 一つの主題が提示されているのを捉える。そのような題材ではあると思われます。信仰原則の 最小限での応用におよぶかに見られます。実質的な内容は 愛の持続過程ということのみであるかも知れません。
表現にかんする限りで もう少し見ておこうと思えば 《彼ら(=あなたがた・わが民)が呼ばないさきに わたし(純粋欠如)は答え / 彼らがなお語っているときに わたしは聞く》 これが 純粋欠如から到来すると想定する純粋欲望の問題だとも 考えられます。
そうして ふたたび 《彼らが建てる所に ほかの人は住まず / 彼らが植えるものは ほかの人が食べない》という むしろ社会経験上の対象化労働(生産)にかんしても 表現上 触れられている。これにかんする無力で有効な統括者が 愛であるということになる。
《建てる・住む・植える・食べる》は 経験欲望また対象化労働の世界である。そのことにかかわって 非対象化労働のあり方・それが発揮されてある情況が 妄想のごとく上のように 表現されている。《建てる・植える》という労働にかんしては かんたんにそれらが疎外されないと言おうとしている。同じく妄想の限りで 《住む・食べる》にかんして 或る種の享受があると。
愛という自由意志(あるいは精神)が まさに非対象化労働をおこなって このように見させるということだと思われる。実質の問題としては――実質といったからといって 経験現実そのものに帰るのではなく そうではなく―― いまの愛=非対象化労働の実現へ向けてはたらくその持続過程が 出発点として想定できるのではないかという一つの議論だと思われるのである。
初めからの想定の限りで ここに 非対象化労働と愛とが 合致すると捉えられると思う。このように非対象化労働が いま現在 各自の主体の内に 有効にはたらくとも言えるし
 それは それだけだ・単なる空想だ・つまり無力だということにもなる。
一方で すでに大いに《考える》の経験領域に踏み出したかたちだと言えるし またそう言わなければならないと同時に 他方では 信仰内面における基本原則にかかわる自由意志が 愛=非対象化労働としてはたらくという一つの応用原則としても 想定できると思われるのである。
応用というのは 基本原則が 愛において 社会経験の領域への踏み出しに 迫るようにして大いにかかわるという側面をとらえて言ったものである。もっとも 別の見方では あの純粋欠如から到来してはたらくと想定する純粋欲望じたいのことを 愛をよぶこともできるかも知れない。そのようなはたらき自体として 純粋欠如そのものを 愛とよぶことが また できるかも知れない。
重ねていえば いま これ以上のことを論じるつもりはないし また 論じることもできないはずである。わづかに 基本原則を述べた中で少し触れたことを ここで確認しておこうと思えば いまの《愛の応用原則は じっさいには みづからを低くして 背景(信仰内面)へと引き下がって 社会経験そのものの領域での 妥当性の原則に 道をゆづる》と思われることである。
妥当性の原則は 信仰・自由意志・愛にかんする基本原則に 必然的に付随する原則であると言えるかも知れない。いまの議論(信じることと考えること)では 原則というものは もはやこの付随原則までだと思われます。念のために言っておけば いわゆる道徳・倫理規範 これらはすべて 経験思考にかかわることがらであるでしょう。むやみにそれらを貶めるわけではありませんが。付随原則たる妥当性の問題にかかわるわけですから。ただし道徳信仰であるとか 戒律を信仰とするなどということは ありえないわけです。それらも自由でしょうが しかも信仰としては 無効であると わたしたちは共同主観し宣言することができるでしょう。
次の論点へ移るためにも いくらかを再吟味します。

§15

先に引用した《新編輯版 ドイツ・イデオロギー (ワイド版岩波文庫)》の文章のなかで 《共産主義社会にあっては 社会が全般の生産を規制し》という箇所は わたしにとってその内容が必ずしも明らかではありません。――これをとり上げたそのわけとしても 未来の人間社会のあり方を論じるためではなく いま現在の・その時点での・その時点ごとの現在の 主体における出発点のあり方を問うためであるということは すでに触れました(前章)。またこの文章表現そのものに即して考えるにしても 《規制》のあり方といった点などは よくわからないと言わざるをえません。
要するに ここでは このような経験事態そのものにかんする議論は 扱っていないということになります。この点が まず一つの但し書きです。
また 少し議論を先へ進めるならば 対象化労働というものが――今村理論では―― 《具体的有用労働》に そして非対象化労働が 《抽象的人間労働》に それぞれ比されています(現代思想の基礎理論 (講談社学術文庫) Ⅲ マルクス論 第三章 非対象化労働論)。この比定のほかに わたしとしては 物・商品そのものにかんして この労働の二重性が言われているとも考えます。その場合には 《抽象的人間労働》も 愛としての非対象化労働のことではなく あくまで《考える》という経験領域のものであって 商品にかんして それらが社会の中で流通しうるという情況で 互いに通約されうるというその交換価値のことであると思われる。また かんたんに言って それが 共同主観(そのままにではないだろうけれど)によって認知されている形態つまり ものの値段のことだと考えられる。
すなわち繰りかえすならば具体的有用労働と抽象的人間労働とは その二重性の全体として あくまで経験思考によって捉えられる概念装置だと思われる 少なくともそういう一面があるのではないか これが 但し書きの第二点です。
もう一点として。この交換価格が 各商品にかんして通約されうる《第三項》であり かつ その価格を測る規準として通約する役割を果たす貨幣が 同じく《第三項》であると説かれています(同上=現代思想の基礎理論 (講談社学術文庫))。これらは――もはや単純に言って――一般に 経験欲望の世界での出来事であると思われます。
経験思考の領域でも 抽象概念は むろんありえます。すなわち 非経験の純粋欠如たる《排除された第三項》とは 想定で区別した限り まったく別ものであるでしょう。ただ そこでは 第三項排除効果 / 第三項還元といった論理的な構制は 共通ではないか――つまり非経験と経験との間に共通ではないか――とも 議論されています。
けっきょく これらの但し書きとしての三つの事項にかんして すでに信仰の基本原則の上からは 容易にしりぞけることができるとは思われます。思われますが 基本原則は 想定にすぎませんから ある程度 具体的に議論をかみ合わせる必要が生じてもいます。まだ触れていない他の論点をも合わせて 以下に検討しておきたいと考えます。
上の第三点は 具体的に供犠の犠牲の問題で 説明されています。すなわち 《排除された第三項》は 信じるの領域での非経験であるのに 論理的にせよ・つまり考えるの領域にかかわって 従って 経験欲望におけるその構制にからんで 類似の現象として現われるといった議論は 供犠の考察をとおして 説かれています。章を改め この点を次に見ておきたいと思います。
つづく→2006-02-06 - caguirofie060206