――シンライカンケイ論――
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第二部 シンライカンケイについて ――風の理論――
(2005-04-17 - caguirofie050417よりのつづきです。)
第四十章 諸原則をめぐる普遍的原理について
(M) 日本が提出していた《核廃絶》をうたった核軍縮決議案が 十八日の国連総会第一委員会(軍縮・安全保障)で採決され 賛成百四十 棄権八で採択された。国連総会でも 正式に採択される。国連外交筋によれば 軍縮の分野で日本が単独で決議案を国連総会に提出したのは初めて。総会決議は拘束力を持つものではないが 《核廃絶》を掲げる決議の採択は 国連史上初めてという。
(朝日新聞1994・11・19夕刊)
国連安保理の常任理事国入りをめざすためその狙いがあったということのようでもあるが これは 意思表示の問題であると思う。信頼関係へ向けての明らかな意思表示であった。この背景や決議の内容について詳しいことは追わないが この事態の報道のみ ここに差し挟んでおこう。
このような平和原則が 日本の唯一提示しうる普遍的原理だという時のその原理について つづいて考える番である。
ここでは 一般に《表現の問題》において 位置づけ それによって 社会的に過程される話し合いや交通にかんする整理をなすことができればと考えている。その基礎 その前提となる事柄をとらえようと思う。
世界宗教なり絶対的な他者なる神なりが出て来ているので 《信仰》――人間の表現としての信仰――のことをも含めて 次のように考える。人間のおこなう《表現》をまず次のように図解する。
(N) 人間とその表現
主体〔関係〕――その行為――その対象(非対象)――その表現
人間Z・・・・・・・・《信じる》・・・・・非経験=真理X・・・・・・・信仰X−Z
・・・・・・・・・《考える》・・・・・経験=事実Y・・・・・・・・思想・科学Y−Z
――――――――→主観真実X−Y−Z
この図解にかんして その前提事項の説明とともに そこから次のようなことが考え出されると思われる。
① まず 真理 Xないし信仰 X−Zが 《原理》の問題である。《原則》は より一層経験的なことがらにかかわって 事実Yないしそれについての思想・科学 Y−Zが その法則的な内容をもって 提供するものである。《真理 X / 事実 Y / 真実 Z》は この想定でのみ そのように規定して用いる。
② 《非経験=真理 X》は 人間の《考える》を超えているその領域として想定する。すなわち 真理 Xは 人間にとって《考える》の領域にはなく それは 《考えても判らない / 考えても わかるか・わからないかが 判らない》領域とする。従って 非経験で 非思考ゆえ 明らかに《非対象》のことである。
③ ただし 上のように想定して それをも人間の思考をとおして説明しようとする時には その限りで――想定じょう―― 一個の対象となり この対象(非対象)と人間との関係は 《信じる》という言葉で表わすことする。すなわち実際には 非対象なのであるから これを《信じる》と言おうと《信じない》と言おうと まったく同じことである。有神論(信じる)と無神論(信じない)とは 人間の用いる言葉の上で 違いがあるだけであって 《真理 X》に違いはない。この《X》を 真理と言いたくないならば 無だとか 空だとか ブッシツとか言えばよい。これらすべては 代理表現であるにすぎないから。無論 《X》も 代理表現である。
④ 繰り返そう。誰かが《私は真理 Xを信じない》と言った場合 それは 《真理 X》というひとつの代理表現が嫌いだと言っている。神とも仏とも名づけたくないとするなら そうだとしても その名づけたくない《非対象》との関係では 《信じる》状態にある。さらには この《非経験=非対象》と自分との関係について 《信じる》とも表現したくないとすれば 《信じない》といえばよい。ただし それを 《考える》と表わすことはできない。対象が違うからである。《信じる/信じない》は 最終的には 《考える》によってはいない。その非対象 Xが 経験思考のうちに入って来た時には ヤハウェだの阿弥陀仏だの 説明表現を受ける限りで 考えるの対象ともなっている。
⑤ 《非経験=非対象=真理 X》に対する人間 Zの関係は 《信仰 X−Z》と呼ばれる。ここには いわゆる無宗教という態度も入る。そして《信仰 X−Z》についての経験的な思想・科学すなわち《〈X−Z〉−Z》が営まれる。人間は経験存在であるので 信仰は 部分的にというべきか 経験行為である。経験事実 Yに属している。
⑥ ちなみに 具体的な物事あるいは想像上のことがら これらは もともと経験対象であるから 比喩として言って《鰯のあたま》である。これを《信じる》とは 言わない。思い込むと言う。
⑦ さらに具体的な実際は 信仰 X−Zについての言説 〈X−Z〉−Zが 経験領域 Yに入って来ているから 思想・科学 Y−Z(さらには とうぜん経験思考 Y−Zに対する経験思考 〈Y−Z〉−Zも営まれる)と相い俟って 人 Zの精神生活は 主観真実 X−Y−Zとなって現われる。
⑧ あとは この(N)の図解で それを拡げつつ 理解できると思われる。
⑨ ここで すでに言えることがあるとすれば たとえばまず 考えるの対象である《経験=事実 Y》が一般に相対的であると言うとき それとの対比では 《非経験=非対象 X》が 絶対的であると説明表現されることに不都合はない。想定上の問題でもある。あるいは 《事実 Yおよび真実 Y−Zとしての経験》とその相対性を言うために 《真理 Xとしての非経験》とその絶対性〔の想定〕が 必要とされているのかも知れない。言いかえると 相対的な経験領域(Y/ Y−Z)が それ自身において閉じられておらず つねに開かれているだろう(つまり相対的な存在)という認識かつ現実を表そうとしているものと思われる。これは 《信じる X−Z》という想定とその経験的な説明表現が ひとつの経験現実であることと呼応するもののように考えられる。
⑩ 全くの実際として 人の表現一般は 信じると考えるとを 一個の主体において合わせて その《主観真実 X−Y−Z》となって 経験現実なのだと言ってよいだろう。
⑪ 主観真実 X−Y−Zの中で 対象(非対象)の違いによって 信仰 X−Zと思想 Y−Zとが区別される。この交通整理が重要だと思われる。もっとも 思想は 科学認識 Y−Zと信仰 X−Zとを合わせた主観真実 X−Y−Zについての総合的な思想 〈X−Y−Z〉−Zである。
⑫ 信仰は 経験真実(Y−Z / 〈Y−Z〉−Z)がそれ自体閉ざされているのではなく開かれているということを――その相対性・有限性・時間過程性などを――自覚するためにあるというに過ぎないかもしれない。それでいて そうでなければ 認識・思考があやまりを犯しやすいとすれば 考え方の上で信仰は 経験真実に先行している。非経験=真理 Xないしその絶対性の想定は それを信じるか否かの問題よりは その想定を無視しないでありつづけることによって 経験上の人間真実が――相対真実は相対真実として―― 妥当でありうるために 存在している。この意味で 同じく想定じょうの規定として 信仰 X−Zが《原理》にかかわり 科学 Y−Z・思想 〈Y−Z〉−Zが 《原則》にかかわるものと思われる。そのようにここでは定義する。
⑬ 《原則》とは 科学的に合理的で妥当だと認識された経験法則のことであるか あるいはむしろ個人個人の主観真実にとっても基本的な考え方・生き方のことである。従ってここで言う《原理》は 超経験である。または超経験にかかわっている。また その限りで 信仰 X−Zは 思想〈X−Y−Z〉−Zに先行している。そのような位置関係にある。
⑭ 従ってたとえば とうぜんの如く 信頼原則と好悪原則ないし偽善原則 これらは 思想としての主観真実であって それぞれが そして互いが互いに 相対的なものである。それゆえ これら三種の人間原則ないし行為原則は それぞれ自由に 経験合理性ないし妥当性のもとに表現しあってゆき そこでは互いに自由に批判しあえる。思想・表現の自由。
⑮ これに対して 信教の自由は 《原理》的なことがらにかかわり その主観真実として説明された内容はこれを 同じく自由に主張し批判しあえると思われるが 信仰 X−Zじたいにかんしては 議論にあまりなじまない。代理の言葉をとおして代理表現された説明内容をめぐって 議論しあうのである。信仰そのものに限りなく近い説明表現は いわゆる神秘的である。神秘主義も自由であると同時に それだけでは 一般に説明が理解しがたい。さらには 平和原則にからんで生命原則と言っていたものは 先行する非経験の領域とかかわって 生命原理と呼んだほうがよいかもしれない。
⑯ ちなみに宗教とよばれるものは まず 信仰の共同性(�遙悄檻據砲砲ǂǂ錣蝓ゞ饌療Ľ砲呂修里い錣罎覿亀繊憤貭蠅凌侔沈睫澄 劭悄檻據咫檻據砲鬚發箸箸靴董^豼反ァΠ貅匆颪任里劼蹐❹蝓吻堯劭悄檻據咫檻�1〜n)を指して言っている。個人的な信仰の説明表現として言う場合もあるかと思われるが 教義と呼ぶまでになったかたちを想定し 一個人を超えて複数の人びとの間での共同性を 中味としているとすればよいと思われる。
⑰ わざわざ 宗教を取り出すのは 同じ宗教のもとにあっても 個人個人の信仰は 互いに差異をとうぜんの如く持っているであろうと考えられるからである。その確認をしておきたい。とくに大雑把に文明として捉える時には もはやその宗教(�堯劭悄檻據咫檻�1〜n+α)と そして個人(Zi)の信仰(X−Zi)とは 互いに距離があり差異があり 相反することさえあるかと思われる。
⑱ そこで 《世界宗教》と言うときには 一方で 信仰にかかわる原理(そのいわば絶対的な自由)と思想にかかわる原則(その相対的な自由)とをともに含みえて かつこれらを明らかに区別せよといった行き方を内容としているはずである。これが ここで 《普遍的原理》の問題である。とはいっても 他方では いま上に触れた文明としての漠然とした 信仰のひろがり・ないしその社会的な〔緩やかな〕共有というほどの内容であるかも知れない。《絶対的な他者(つまり X)なる神》を持ち出すというのは そのこと自体が問題なのではなく――なぜならそれだけでは X・Y・Zの互いの位置関係の問題であるにすぎないから―― 《信仰 X−Zは 原理的な自由に立ち 思想 〈X−Y−Z〉−Zは相対的な原則のもとにある自由に立つ》というほどのことを言おうとしている。これは 上に見た《世界宗教》の第一点の内容である。そして その信仰の原理的な自由は 実際上 人間経験の具体的には 有神論(狭義のX−Z)と無神論(nonX−Z)とを そのありうべき形態とすると考えられる。
⑲ ちなみに ここで信仰が 表現上《信じる》を主張する有神論 X−Zと《信じない》を主張する無神論 nonX−Zとの両形態に分かれると言った時 それらは いづれも類型として いわゆる一神教〔広義の〕monoX−Zであって ほかに多神教 multiX−Zなり 汎神論 panX−Zがあるではないかと言う人がいる。そのような人は 前二者より後者のほうが優れており正しいとさえ 主張していたりする。これにかんして かんたんに交通整理しうる。まず 多神の《多》はすでに初めに 経験的な思考の産物である。非経験 Xは 数や有無を超えていなければならない。経験思考によって 初めから 対象を選択していては それは 信仰ではありえない。思い込みである。
有神論の神は なるほど神・仏 ヤハウェ・キリスト・エローヒーム≒アッラーハなどなどとして 対象選択しているように見えるが これらは いづれも 《非対象 X》の人間の言葉による代理表現である。
無神論が 無神という代理表現で 非対象 X(それとして 唯一神)を立てるのと同じである。多神論が たとえば山川草木の中から 神体山・神磐・神木などを経験事物として選び立てるのとは わけが違う。こちらの場合は 経験思考の産物でしかない。つまり 思想ではある。これが ひとまずの交通整理であり 多神教は 信仰ではないと言う基本的な理由である。
汎神論は一般に 非対象 Xの代理表現(たとえば神)のそのまた具体的な代理(あらゆる事物・現象)を立てている。信仰原理と思想原則とが一体となっている。そのような成り立ちを自覚しているなら それとして信仰であるかもしれない。また原理と原則とが一体であるというその一体の成り立ちを納得しうるように説明できたならば ひとつの主観真実として 相対的な自由のもとに 妥当であるだろう。実際問題としては 神秘主義の様相を呈するであろう。
⑳ 繰り返すならば 信仰にかんしては 真理 Xの有か無か またはそれを信じるか信じないかのみ 争われうる。表現の上でである。すなわち その一つの選択判断のみ 考えても最終的・絶対的に決めることが出来ない。それゆえ大きな類型としてまず 有神論か無神論かのふたつの具体的な信仰形態がありうる。有神論類型の中でさらに その非経験 X=中立的な意味での唯一神 Xを 人間の言葉でどのように代理表現するかによって 信仰形態が分かれる。実際には 信仰の説明表現のさらに教義としての表現(神・仏などなど)の差であろう。言いかえると 同一の信仰(たとえばブディズム X〔仏陀〕−Z)のもとでも 個人ごとに内容の違いがある。その差は 有神論一般と無神論との差をはるかに凌駕するかに思われる場合がある。いづれにせよ 信仰 X−Zは 広義に 人間にとって同一の存在形態であると言ってよいであろう。
これに対して もし《真理 Xは 多神である》と言うなら――繰り返しになるが―― それは 考えた結果の判断内容じたいを表わしている。そうでなくその多神教をなお信仰であると言い張るときには その多神は 擬似的な真理(X´ あるいは pseudoX)のことである。その原理は 擬制的な信仰(pseudoX−Z)である。真理 Xの《一(いち)》としての有か無かは 経験思考を交えてはいるが まだ非思考の条件も非対象をも侵さない。その数としての一は 全体という意味合いでもある。多神 multiXは その取捨選択が明らかに思想の領域にある。もし――けっきょく 汎神論の場合も同じことだが―― 多神としている事物・現象は あくまで 唯一の真理 Xの代理表現であり それが 多くのものに別れてさらに代理表現されているに過ぎないというのであれば 結局のところ 有神論か無神論かいづれかの立ち場に立てばよいだけである。
(21) 千歩ゆづって いま多神論も 定義に則ったしかるべき信仰の一形態であると仮定してみよう。
- なぜなら この多神教という擬制的な信仰こそが 好悪自然の無原理無原則主義の原因だと考えられる。同じ人間であるのだから いかなるかたちにせよ 信仰原理にはかかわっていて たとえば信頼の自然成長理論は とうぜん そこから現われうる。
けれども その時には 多神を唱える一種の有神論なのである。タシンという言葉で代理表現したいと言い張りつづける唯一神信仰なのである。
とはいっても 多神教というときには 一般には それを宗教として捉えていると言わなければならない。社会に広く心理共同のようにして はたらいている文明のごとき宗教のことであるらしい。これについても 問題はまったくはっきりしている。その対象が 非経験=非対象 Xという条件を満たす信仰 X−Zにもとづくなら その社会共同は 教義・組織をともなって宗教となっていても それは世界宗教である。タシンという真理 Xの信仰であることにもとづき宗教でもあるならば 世界宗教である。コミュニケーションが取れる。
互いに 信仰対象の違いを自由に認め合うことこそが このタシン教の長所だと言うなら それに対しては いまの信仰 X−Zの想定においても 有神論と無神論とのいづれも 互いに互いを認め合っている(また 認めあわなければならない)と答えれば済む。
- 有神論の内でその唯一神が さらに具体的にたとえばキリストの神以外は認めることが出来ないということによって 生命原理をも侵すということであれば その信仰は 自滅していることになる。信仰の意味がなくなる。信仰が わたしたちは相対的な経験世界からさらに開かれているという現実をおしえていることを 自ら否定している。
普遍的原理をめぐる問題は 以上のような内容で捉えることが出来ると思う。
けれども――減らず口を叩くならば―― 多神教は 明らかに好悪原則の別名である。擬制としての信仰(pseudoX−Z)であり 信仰でない。好悪自然の正直にのっとったその多神の取捨選択をしているに過ぎない。原理をどうでもよいとする原理無関心のもとに――つまり 信仰無関心のもとに―― 無原則である。もしそこに色をつければ 本音と建て前との二重構造のもとに 多神教=好悪原則のほかに建て前としての人間的な偽善原則を身につけているものと思われる。
(22) ついでながら さらに通俗的なことがらを交えて議論するならば 多神教の人は 有神論ないし無神論いづれかの《原理》に立って・なおかつ思想として一定の《原則》を生きようとする人びとに対して まさに自らの《原理無関心かつ好悪自然の原則という無原則》によって その人びとを偽善者呼ばわりしたり 《変わっている》と言ったりして 拒否にまで・さらには排除にまで及びがちである。これは 信仰のことが分からず理解しようともせず ただ《経験=事実》なる人間自然としての主観真実のみによって しかもこの単なる閉ざされた思想をあたかも真理と見なしてのように 思い込む信じ込むその好悪優先原則に立っているというものである。
それは 原理無関心によって 非経験 Xは《空》だとかとも言っているから 一見すると無神論の信仰形態に似ているが 実際には世界に対してその非経験の領域ないしその問題では 自己を全く閉ざしているということである。相対性なる経験領域をみづから閉ざしてしまい その閉鎖した自己ないし鎖国状態が もはやそれとして絶対的であると思い込むまでに到る。相対の世界を絶対であるとするのは 自己ないしその宗教または社会を絶対視することであるから 人間の死である。つまり人間以前の状態にある人間となる。原理無関心が 真理 Xに対する自己の死である。
ただし 付け加えておかねばならないことは ――上にもすでに関連したことで触れているように―― 頭あるいは心や身体のどこかでは 非経験 Xのことを・またはそれ Xと自己 Zとの関係という信仰 X−Zのことを すでに知っている。思い込みとしてでも《絶対視》があるということは 原理無関心でありつつその原理に自らが一人ひとりかかわっていることを知っているのであり 信仰としての主観真実のあり方・その表現形態に 知らず知らずのうちにでも 近づいていっている。
(23) さらにいまの議論をつづけるなら それにもかかわらず 意識した状態で口をついて出てくるのは 原理無関心および無原則(具体的には 《無宗教 / 無信仰》と言っている)のことである場合が多い。これは面倒くさいと思ってなのか あるいはすでに長い歴史じょうの経験的な習慣に浸って生存していけばよいと思ってのことなのか 経験上の事実ないし真実を超えて 真理 Xにかかわる表現に及ぶことは少ない。勿論 真理だとか神なり仏なりだとかの言葉を用いてもいる。擬制的な信仰は極論すれば 経験領域の中の人間が 神であるというところまで進む。
これは 別様に言い表わすなら あたかも経験存在が絶対的であるという意味で その無原則は〔あたかも〕《真理 X=事実 Y=真実 Z》といった内容を持つかの如くである。わづかにこれでは不合理だと思ってか 人は死ねば――つまり その意味で非経験 Xの領域に入れば―― 神 Xなのだと言い直しているかもしれない。その信仰――すなわち 自己の主観真実 Z=経験事実 Y=非経験真理 Xというような有り得ない信仰形態――に立てば 現世では 自らの好悪に正直な表現が許されるし その原則こそ正しいと言って たとえばイジメ関係の社会全体における循環に甘んじる・またはそれを享受するということになる。その意味で《神国日本》というわけである。
《これからの現代は 〈世界の日本人化〉つまり〈世界の・日本人主導による世界じたいとしての鎖国原則でいこう》ということでは ないだろうとは思う。じじつ 《国際的な関係において 悪戦苦闘している》のだから。
(24) 生命尊重の平和原則は それがなければ 信仰原理と思想原則を持って生きる人間の存在じたいが危うくなるのであるから 人間の論法では 信仰原理と同じものであり そうとすれば普遍的原理であるだろう。これにもとづき 核廃絶の決議案を国連総会ですすんで提出したということである。これは 世界の日本化のためではない。その無原則宗教の世界化のためではない。普遍原理の世界的な共有のためであるはずだ。この一点を補って この章での議論を閉じよう。
(つづく→2005-04-19 - caguirofie050419)