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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-05-05 - caguirofie050505よりのつづきです。)

付録・その一 あらためて《風》の理論について

(90) 題名《風と象と羊とねじまき鳥と》の中の各項目について かんたんに理論的な整理をおこなっておこうと思う。
(91) 《風》が 想定上・話の都合上 中心となっている。ほかの《象 / 羊 / ねじまき鳥》は それぞれ《風》の(あるいは《風の歌》の)具体的な説明表現を構成している。
(92) 風は 経験存在であるわれわれ人間( Z )にとって 《非経験・非思考・非対象》( X )の領域を想定した上で それ(X)を表わす。想定であるから むろん決して実体ではなく ひとつの代理表現である。X とか非経験とかも 実際には 代理表現である。つまり X が実体であるかどうか(絶対として存在するかどうか) 考えても分からない。わかるか・わからないかが わからない。われわれ〔の理性と思考〕によっては 決めることができない。そしてここには 表現の上で 虚構を要請する所以がある。初めの想定を認めるにしても 虚構表現をとおしてしか 伝達されえない。
ということは 経験事実( Y )の領域で われわれが考えてわかることは 決して最終的に確かなものでないと言うのと同じである。逆に言えば そのようにこの経験世界( Y )は 当然の如く 有限・相対的であると言えば済むことであるが わざわざこれを言いかえて 風( X )を想定上立てる。その意味は たとえば具体的に人間(1〜n)の真実( Zi )が 主観的にして相対的であることを示すために わざわざ想定上の絶対的な真理( X )を立てるということである。あるいは 信頼関係なり愛なり志なりが おのおのの主観真実( Zi )であって 空しくなりうるということ しかももし真実であるとか信頼とかの言葉を用いる限りでは そこに希望がある。そしてこの希望は 幻想であるかも知れないから 想定しておいた真理ないし風( X )とのかかわりにおいてのみ 成り立つ。従って 逆にもはや愛も幻想であり 信頼も空であると言う人は 風( X )の想定の上で そう宣言していることである。
(93) 風( X )の想定の上で人( Z )が経験事実( Y )をめぐって認識し表現するその主観真実( X−Y−Zi )は 《虚構 / 物語 / または経験現実》である。ここには相対的な希望もあれば 相対的な絶望もある。そしてそうとすれば 風( X )の歌を聞いたかに思われるシンライ関係もある ことになる。あるいはしかも 風=非経験( X )の歌を聞いたからこそ 無信・無風(《神は死んだ》)と表現する立ち場も現われうる。
シンライ説も 無信説も 実際には 人間の希望と絶望とがいづれも相対的であることを――その主観真実の限りで――再確認するためのものである。ここに 全編を通じての《風の歌を聴け》の物語が成り立っている。ちなみに 経験的な認識と思考とにあって合理的な説明をなす経験科学は 狭義の主観真実( Y−Z )とその社会的な共同( ??Y−Z )の範囲を出ないよう 禁欲している。この意味で 人間の経験事実( ??Y−Z )と人間の経験現実(個人ごとの X−Y−Zi )とを区別した。
(94) ちなみに ある人にとってその主観真実( X−Y−Zi )の物語が 一定の内容をもって説明表現され これが〔試行錯誤の発展をも伴ないつつ〕持続されるなら 《信仰》と呼ばれる。
この信仰も可変的であるはずだが 一たん何らかの確信をもってこの信仰が生きられたというときには その限りでの動態の基本内容を 《出発点》という。
信仰という主観真実も 人間とその社会や歴史にとって普遍的な真実を問い求めているのだから この出発点は 存在論なりシンライカンケイ論なりと表現されていく。つまりは 同じことが 風( X )との関係で 有風論ないし無風論いづれかの立ち場に立つことでもある。このように整理した《風の物語》(それは メタ物語?)のもとに 一般の虚構表現としての物語を――それは 野暮な話だが――分析してとらえることも ひとつの交通整理に寄与しうるものと考えた。
(95) たとえば 

  1. 風の物語という大前提をめぐって 具体的に(つまり具体的な自らの出発点ないし信仰形態として) 有風論か無風論かのあいだで揺れつつ 自らの問い求めをつづけるのは 発展途上である。言い方は悪いが それにかんする頑固は 正当にも許される。その頑固の範囲内で不信があってよい。
  2. ただし おそらくその不信ないし頑固じたいを 自らの出発点とすることは 風( X )を想定しないだけでなく〔または 明らかにそれは 無風論( nonX−Y−Zi )という大きくひとつの主観真実( X−Y−Zi )に立つことでもないのだから〕 自ら( Z )を経験事実( Y )の内に閉じ込めることになる。閉じ込めてよいと考えた結果の一思想であるにすぎず それは――信教・良心・表現の自由に立って―― 自由であろうが もはや風の歌( X−Y−Zi )には達しない。言うとすれば 経験科学の一部であるが 実際には経験科学とて 自らの領域と知識とが 世界のすべてだとは思っていない。精神分析は おおむねこの経験科学の一環である。
  3. また単純に言って 死は 経験事実のやはり一環であるか・またはその延長上にあると思われる。シンライ関係をめぐって 有風論に立つにせよ無風論に立つにせよ または模索の途上にあるにせよ 動態である出発点がすでに生きたものでなくなっている死または死者は こちら側に生きている人の風の物語の中に入って来うるとはしても 風( X )じたいと見なしてならないであろう。死者に《蛍》の心像をあてがうことは とむらいとしての経験思考や感情の一環である。言うとすれば それに過ぎない。つまり もし仮に死者との関係で(もしくは過去の出来事の吟味・再形成において) 自らの出発点が形成されるというのは 生きている側の人にとっての経験現実においてである。その物語の中で《蛍》と見立てるのならよいではないか。よくない。それは 哀しいと言っていることであり 言うとすれば それに過ぎないから。つまり 哀しさは 経験的な思考や感情であるから 風の出発点をそのままでは形成しない。経験事実( ??Y−Z )が経験現実( X−Y−Zi )へと開かれる必要がある。
    • たとえとしてなら 蛍も 風や象などと同じく 一般的に自由に用いていいわけだが 死ないし死者に 特定して関係づけられる場合には よほど但し書きをしっかりしておかないと 誤解が生じる。

このような交通整理ができる。
(96) 《象》は それ自身をめぐって 経験事実上 檻の中に入れられることとか それが消滅することとか あるいは平原に還るなどなどのことが それらを《たとえ》と見立て想像することを通して あたかも非現実の領域へ開かれていくかたちを持ちえて 風の歌にかんする物語を代理表現することができる。すなわちその人の経験現実をめぐる説明表現のために用いえて 全体として物語もしくは主観真実のあり方に対応させうる。《平原に還る日》は 一たんとしてでも その出発点が確立されることを意味させうる。
(97) 《羊》はここで 《背に星印をつけた特定の羊》ではなく 羊一般のことである。あるいはむしろ 《羊男》のことである。それとして 風の代理表現もしくは説明表現となる。信仰や広義の主観真実( X−Y−Zi )にもとづき その経験現実として編む物語の中に 位置しうる。虚構であるから もちろんそれとしては空想・架空の部分である。言いかえると むしろ 経験事実に逆らっている。ということは それを 個別的な存在または事象として わざわざ異常なり超常現象なりと見なしたまま 扱いつづけたり排除したりする必要はない。全体として合理的に納得しうるひとつの主観真実が語られたなら それは風の物語として〔なお相対的ながら〕成功である。
(98) 《ねじまき鳥》は 一方でその存在が 鳴き声のほかは 経験事実を超えているから やはり風( X )の一つの説明表現だと考えられる。鳴き声じたいも 風の歌の代理だと解するなら すべては架空の部分を占める。

  • ちなみに 風( X )は 非対象であるから 対象化して認識できないのだけれど 想定した上では 人間の言葉でその代理表現をさまざまにつくり用いまた具体的な説明表現をも考え出し補っていくことができる。つまり 非思考と想定した上では この非思考の領域( X )を仮りに対象化して その言葉を用いつつ 経験思考をも及ぼすことができる。できると想定される。それが 虚構であるから。

他方で 主人公があたかも自らの意志として《ねじを巻く》というときには これは 風や羊男とちがって 経験現実の領域にも 入り込んでいる。思考と行動 要するに経験的な表現一般にもかかわって このねじまき鳥のことが 現われている。これは 主観真実の限りで 経験現実(つまり物語)の上でのシンライカンケイの成立を見越したところで 個人的なシンライ原則にかかわっていることになる。出発点が その人自身にとって 形成された〔と確信される〕といった情況である。これによって 開かれた経験事実が 肯定的に・積極的に・しかもあくまで時間過程的に 物語られていくはずである。
(99) このシンライ原則を言うときには より一層特殊に個人的な主観にかかわるので たとえば一般的に言って 信仰告白にまで傾きうる。信仰として定義したことが妥当であるならば もちろん自らの信仰内容にまで触れることも 自由なはずである。この事情にかんして主人公の物語る表現の手法は シンライ原則を――または シンライ原則などとさえ言わずに舞台を―― 日常性の中に置くということだと思われる。風の物語として 象や羊男からさらに進んで このねじまき鳥に説明表現を見出したことは いま・ここなる主人公が より一層日常生活の中にその基礎を置いたということであるだろう。日常性としてのかれの主観真実 これが シンライ原則を携えているということを 示すものと思われる。
それはまた ねじまき鳥の指し示す日常性が  《蛍》の心像を消したということであろう。またそういう形で 直子問題に対決しているということである。つまり経験現実の再形成であるが 社会関係を離れず人の役に立とうとする加納マルタや あらためて空虚から出発する加納クレタや 何か人に知られてはいけない秘密を持ちながら ともかく偽善原則によってでも社会性の中に生きる綿谷ノボルや これらの人物は いづれも広くはすでに日常性にもとづいている人たちである。これは 主人公にとっては それらの人物に取り巻かれているという情況を示して 自らの日常性にかんする間接的な証言のようなものにすぎないが。また クレタは辛うじてそうだと そしてノボルはむしろ放っておいてもそうだと それぞれ見立てなければならないかもしれないとしても である。笠原メイは ちょっとよく分からないが 友を事故で亡くしたにしても それをやはり蛍の想像であるとかその美化へ運んでいくことなく その心像に自己を閉じ込めることなく やはり日常生活の上にある。
いづれにしても 欠落感が人生において無くならないことと 出発点に立ったということと(わざと言えば 信仰を持続させていること。つまりは シンライ原則)とは 互いに両立する。ここに《ねじまき鳥》という新しい説明表現が登場した意味があるように思われる。あらためて野暮にいえば シンライ原則である。

  • 日常性に立ったから そのシンライ原則がそのまま成立するという意味ではない。

(100) 以上のような変革を経てきた新しい舞台の上で ハルキ・ワールドはさらに展開していくものと思われる。勝手で勇み足のような一つの展望としてながら。

付録・その二 風を誰が見たでしょう・・・。

??a 〈動物園襲撃(あるいは要領の悪い虐殺)〉

(新潮 1994・12=《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》の第十章をなす部分)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)

(101) あらかじめ このように第三部の一部分が発表されているので つづけて議論しておこうと思う。いくらか筋の展開に沿って これまでの議論を再確認しておくことが 目的である。
(102) 赤坂ナツメグという名の女性が ここに全く新たに登場する。先の戦争の終結する頃 《満州国》新京の動物園などに起きた出来事が かのじょによって回想され 主人公に伝えられていく。このおそらく一章ぶんをなす物語の中に われわれがすでに捉えてきた主題や論点が 煮詰まったかたちでほとんど全部 触れられているようである。ここで取り上げる論点は 次のいくつかである。
?? 基本主題としては 《ねじまき鳥》がどう扱われていくか。
?? 動物園の動物が抹殺された後の世界で ナツメグの父である獣医にとって そこに想像され考えめぐらされる生と死との問題 これは どうか。
?? 《井戸》が引きつづき現われる。主人公が妻クミコを救い出すために きっかけとして求められるべきものとして語られているが これはどうか。
?? 動物園の獣医をつとめるナツメグの父が 主人公と同じく顔にあざをつけて登場する。このあざは 何のことか。
(103)??のあざは わからない。
ナツメグの父のあざは 《たぶん生まれつきのものなのだろう》という。主人公のそれは 壁抜けの時に ついた。ねじまき鳥の鳴き声に関係するのだろうか。しないのだろうか。
ナツメグは自分の回想の中で主人公に《ねじまき鳥》の話をしていたのに そのことを――あとで訊いたら――よく覚えていないと言う。主人公はそこで かのじょに説明を迫ることを《あきらめることにした》し 《またあざについても質問しなかった》(p.14)。そして《かのじょがそれについて語らないのは たぶん語りたくないからだろう》(同)とも説明される。このあざに しかるべき意義づけがあるのかないのか 風の歌にどのようにかかわるものなのか よくわからない。
(104) ??の《ねじまき鳥》は 二十歳の若い兵士が その鳴き声を聞いたと承けつがれている。物語をつらぬく基本的な事情は 変わらないと言ってよいように思えるのだが これは動物園の動物を抹殺する兵隊の中の一人で 戦後イルクーツクに連れて行かれソヴィエト兵に殴り殺されることになる一人の若い兵士が 虎の銃殺の場面で その死を確認するため檻の中に入って調べていた時 その鳴き声が聞こえたという。かれには知らない鳥だった。

〔・・・〕彼は振り向いて目を細め その声のするほうを見上げた。でも何も見えなかった。葉を蜜に茂らせた大きな楡の木が 涼しげなくっきりとした影を地面に落としているだけだった。
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉―鳥刺し男編 p.116。《新潮》1994・12―p.13)

そのあと この兵士たちが次に豹の抹殺に向かう途中でも 《名前のわからない鳥はまだどこかの樹上から 決然とした声でねじを巻き続けていた》とする。この《どこかの樹上》には その姿が見えたのかどうか これも読み取れないのだが 基本主題をめぐる事情は変わらない。と言ってよいのだと思う。ただし 直接ねじまき鳥にかかわる事態が 一九八四年当時の主人公に 広がったとは考えられる。そのほかのことは まだ 確かなことが分からない。事態に変化が現われつつ 基本事情は変わらないと思われる。
(105) ??の死の主題ないし《向こう側》問題の扱い方について。これにはなおいくらかわれわれの疑念がつづく。
命題のかたちで表現したわれわれの考えは あらためてこうである。

生は風の一部である。

  • つまりまずは 風が非経験・非対象ゆえ 風と生とはむしろ断絶している。と同時に 風( X )の想定上 生( Z または Y−Z )が それ( X )へと開かれている。

そして 死も――死は死で――やはり 風の一部であろう。そうとらえるわれわれの存在過程がある。

この命題と 部分的に矛盾すると思われる文章(文体)がある。二箇所ある。
ナツメグの父で動物園の主任獣医を勤める人物が 動物たちの抹殺されたあと その出来事を受けて いまの主題にかかわっていく場面 ここで 二箇所ともいくぶん疑義が生じる。生じ方を問題にしよう。

・・・結局のところ自分は今 熊と虎と豹と狼が《抹殺されて》しまった世界に含まれているのだ。〔・・・〕これらの動物たちがはっきりと《存在している》か あるいははっきりと《存在していない》かのどちらか〔・・・〕 /  そのふたつの異なった世界のあいだに何か大きな決定的なずれのようなものがあるはずなのだ。〔・・・〕そのずれは彼の存在を大きくぐらぐらとゆり動かすくらい大きなものであるはずなのだ。でも彼にはどうしてもその違いをみつけることができなかった。彼の目には世界はいつもと同じ世界に見えた。獣医を戸惑わせていたのは 自分のなかにあるそのような見覚えのない無感覚さだった。
(《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉―鳥刺し男編》 pp.126−127。《新潮》1994・12―p.20)

最後の一文の中の《そのような》の内容が いま一つつかめない。 《ふたつの異なった世界のあいだに〔・・・〕その違いをみつけることができなかった》という《見覚えのない無感覚さ》 これがかれを《戸惑わせていた》というとき それについて戸惑うべきというのか それとも戸惑うのはおかしいというのか これが分からない。われわれとしては その無感覚さが 生と死とのあいだの違いを見せないという意味であるのならば そしてそれが生と死の互いに入り組んだかたちでの一つの感覚状態であるのならば これに異を唱える。そうではなく むしろここではやはり 動物たちが抹殺される以前と以後とにかんする獣医にとっての二つの精神状態が 互いに違いもなく 《世界はいつもと同じ世界に見えた》ということであるならば それは そこで戸惑いを伴なうことが全く普通のことであるとしつつも 風の歌なる主題にかかわっていくものと考える。
すなわち 生は風のもとにあり 死は死であるしかなく もし死も別様にだが同じく風のもとにあるというとすれば  《生が生として生であるときにこそ 死もそこにあたかも復活してきている》と表現してみることになる。わざと《復活》という言葉を用いたが それを言わなくとも 事態は ほとんど同じことであるだろう。
(106) ??のつづきとして もう一箇所。上の箇所は 動物たちの死をめぐる問題であった。今度は 《その頬にあざのある獣医〔自身にかかわって かれ〕は回転扉の間違った仕切りに入ったまま心ならずも満州国と運命を〔つまり 生死を〕ともにすることになった》(最終の部分 p.24)というとき どう捉えられるか。同じく文章を直接引用しておきたい。同じ場面のつづきにおいて――。

あるいは世界というのは 回転扉みたいにただそこをくるくるとまわるだけのものではないのだろうか。と薄れかける意識のなかで彼はふと思った。その仕切りのどこに入るかというのは ただ単に足の踏み出し方の問題に過ぎないのではないだろうか。ある仕切りの中には虎が存在しているし ある仕切りの中には虎は存在していない――要するにそれだけのことではあるまいか。そしてそこには論理的な連続性がないからこそ 選択肢などといったものも実際にはあまり意味をなさないのだ。自分が今こうして世界と世界とのずれをうまく感じることができないのは そのためではあるまいか――。
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉―鳥刺し男編 p.128。《新潮》p.21)

このあと 《でも彼の思考は結局そこまでしか進まなかった》と続く。一応 上の引用文は ひとまとめの内容をなす。虎ないし動物たちの死じたいの問題については すでに触れた。もっともここでも そのような問題として 獣医は考えているふしもある。ただし 《論理的な連続性》のことや かれ自身が満州国と生死をともにすることになったこととも かかわっているから 人間存在の問題であると言える。
(107) すなわち どういうことになるか。《論理的な連続性のようなものはほとんどない》の一文をめぐって 考えることができる。もちろんこれが 作者自身の思想だというのではないと断わった上で これの解釈もじつは二つに分かれると見られる。そしてその議論としては 上の第一点の場合とほとんど同じことになるはずではある。
動物たちの死に立ち会って その以前と以後とのあいだに ずれがなく それは見覚えのない無感覚さであった。また かれはここで 心ならずも訪れるであろう自らの死を前にしているのでもあるが こんどは 《虎が存在している回転扉の仕切り》と《存在していない仕切り》とのあいだの差異はどうであるかというように考えめぐらしつつ 同じくその無感覚さ(差異や ずれの無さ)を説明しようとしている。これは 明らかに問題が部分的・局所的だと考えられる。兵隊による動物たちの抹殺に立ち会った直後の状態にのみ 焦点があてられているに過ぎない。言いかえると 上に触れた《やがて来る自らの死を前にしていること》を 実際にはここで切り離して 考え廻らしているその結果であるにすぎないのではないか。
どういうことかと言えば この獣医は すでに戦況を勘案しつつ 妻と娘ナツメグとを先に日本へ帰らせており 自らは満州国のこの動物園にとどまるという一つの選択をはっきりおこなっているからである。そのあとで体験した動物たちの虐殺つまりその死の問題は それとしての一断面でのみ捉えるべきではなく 明らかに 上の選択からもたらされる論理的な連続性の中にあると言わなければならない。その一連の情況と経過との中で いまの《見覚えのない無感覚さ》は起こっているはずだ。もし仮に 獣医の側に自分ひとりはこの地にとどまるというほとんど死の道以外に選択肢がなかったとしても だからといって《選択が意味をなさない》ということには ならない。仮にその職務上また戦時のもとにある情況からして そのような一つの選択肢しかほとんど残されていなかったとしても それは 時代と社会との条件がそうさせているというに過ぎず 自らの選択は選択として起こっているし これの確認や追認があらためての選択として――心ならずもだが―― 伴なわれている。空虚や不条理をとらえていたとしても もしそうであるなら そこからが 風の出発点の問題である。自らの経験事実を開く物語の世界となる。もはやその結果として たとえば単なる誇りにかかわるような問題にしかならなかったとしても である。
もちろんそこにこそ――つまりその物語としての自己再形成の過程にこそ―― いまここでのような生死観が得られてきていると見ることはできる。その生死観じたいとしては 《ただ単に足の踏み出し方の問題に過ぎない》という捉え方も あるのかもしれない。けれども その一断面における感覚においてのみ 選択と論理の問題が超えられてしまったというのであって(――つまり 誇りなどというものは何の役にも立たない というのであって――) しかもそれは 心ならずもながら満州国と運命をともにするという選択と引き受けとが 自己の出発点においてなされた結果なのである。もし仮に その結果においてこそ いま動物たちの死を前にして  《生が風の一部であり 死もそうとすれば風の一部である》と いまだ無自覚のままにでも 捉えるような地点に立って 《今こうして〔生の〕世界と〔死の〕世界とのずれをうまく感じることができない》のだとすれば これは 表現として かなり神秘主義に傾いた風の出発点であると考えられる。この神秘主義の表現(その感覚)は必ずしも出発点の無力ではなく発展途上での弱気であり 誇りを俗に言う悟りに変えてしまおうとしている。つまり 投げやりとしての諦観に傾く。
(108) これらの点 少なくとも文章(文体)はあいまいである。あいまいでなく ノルウェイの森からの死の主題をそのまま引きずっているのであれば 異議を表明したいと考える。小説の中の一部分にこだわった上で かつ字面の上では そういうことになろう。
(109) 物言いがつづくけれども ??の井戸の問題をあらためて。つまり ??の生死観の場合と一体であり ほとんど同じ内容(結論)となるが 実際の文章に即して。
つまりそこでは かなり論点が煮詰まっていく。たとえばこの井戸は 経験事実の中で 回転扉の仕切りへの足の踏み出しにかかわる。その一つのきっかけになるはずだし また今度は逆に それにすぎないという議論である。
井戸の底にとどまって自らのイドのちからが動き始めるのを待つというのは その場所では論理的な連続性がいっさい 意識から消えると思われる。しかも その井戸に入るというのは 一つの仕切りを選択することである。別の仕切りもあるはずだから。どの仕切りに足を踏み入れても その人の人生全体にとって結局は基本として同じだという見方は それはそれで 風の出発点におもむこうとしているかも知れないが これも 先に言った神秘思想であるだろう。つまりそれは 独り言のようなもので 物語の表現には まだ達しないのではあるまいか。自らがすでに風の歌のもとにあるゆえ見覚えのない無感覚さを持ったということは いづれかの一瞬のこととしてなら 確かに あるかもしれない。
(110) 主人公はナツメグと今の話をしている時  《なんとか〔家出した妻の〕クミコを救い出して ここに連れ戻さなくてはならないのだということを 説明した》。かのじょは それに応えて そのためにはちょうどモーツァルトの《魔笛》でのように 《魔法の笛と魔法の鐘 そして鳥刺し男パパゲーノ》とが必要だと言う。クミコが《遠くのお城に囚われたお姫さま》で トオル(主人公)がかのじょを救い出しに行く《王子さま》だというようにだと言う。その必要なもの三つとも 主人公にはないわけで しかも

《僕には井戸がある》と僕は言った。
《それをあなたが手にいれることができればね》とナツメグは静かな声で言った。そして上等で清潔なハンカチをそっと広げるみたいに微笑んだ。 《そのあなたの井戸をね。でもね ものにはすべて値段というものがあるのよ。》
ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉―鳥刺し男編 p.122。《新潮》p.17)

ここで主人公が支払うべき代償のことを別としてよければ そしてこの《井戸》があくまで人間の意志によって何とか選択しうる経験上のことがらであるのならば その井戸は 風の物語が進み行くきっかけになりうると思われると同時に 必ずしも人が自らのねじを巻くこと自体ではなく まして風( X )のこと自体ではありえないということ 再度これを確認しておきたい。
(111) このとき《微笑んだ》ナツメグは もっぱら井戸のことや そのために支払う値段のことを問題として 〔むろん言うまでもなく 道徳的にではなく 人間の能力にとって〕その難しさを指摘するのみであるならば 経験事実の内の人にとどまる。その応対が嘲笑に近いと見られるからではなく また値段を問題とするから卑しいなどというのではなく イドの論理に 自らの主観真実のありかを委ねることができると考えているふしがあるからである。
《イドの無意識ないし非論理に》ではなく 《イドを人間存在の中に理論的に捉えたというその論理に》委ねてもよいと考えているならばである。とどのつまり きっかけがすべてだと言い切るかに見える。井戸ないし精神分析をめぐる冒険は 人間にとって正解であると もっぱらこれのみを捉えているとすれば たとえ快楽原則や現実原則にのみ支配されているのではないとしても 大きくは閉じられた世間の人である。その日常性も確かに舞台(社会関係)としては 同じくきっかけになるはずであるが それにしても 無意識は 事ほど左様に それがたとえ意識しえない領域を問題にしていても 非現実ないし風の領域とは別であって あくまで経験事実の領域を出ない。
壁抜けといった非現実のことを表象させるよう もし はたらいたとしても 表象は意識経験であり その場合の非現実は このような突飛な内容の意識経験の歴史的かつ人間関係的な蓄積と伝統におさまる。世代を超えてそのような表象(この場合は《元型》からの?)が 隠れたかたちで伝えられてきているという経験事実である。物語はこの イドの作用を超えつつ 風の歌に到る・もしくは風( X )の領域に開かれていくことだと考える。
イド史観は それとしての一定の物語を持つであろうが これは 確かに 辛うじてのようにしてでも 人間の意志と努力とそれに支払う代償の問題におさまると思われる。風の物語は それとの対比でなら 無償ということであり それゆえ いっさい無力の問題であって 人間の言葉で無風というのと同じ内容だとすら考えられるような世界についての物語 ではないだろうか。
この出発点の無力を大前提にしてこそ 経験上の人間のあらゆる努力が 自由におこなわれ シンライ原則としても 成り立つととらえうる希望がある。またそれゆえ 同じく逆に言って しかるべき言葉であるならその言葉を 真理・絶対・欠如・自由・愛 等々としての如く 風と同じように 代理表現にあてうることになる。無力・無償ゆえにである。さらにそれらにかんする具体的な説明表現も しかるべくさまざまに考え出され与えられるというものである。その一つに 井戸をめぐる冒険が 位置すると思われるのである。《僕には井戸がある》は そのような全体としての物語の中に捉えられると思う。あるいは あざの話もかかわってくるかもしれない。
なお《魔法の笛・鐘》あるいは 第三部の題名になっている《鳥刺し男》 これらについては まだよくわからない。
(112) ここまでとすべきであろう。尻切れトンボのまま この補論を終えよう。