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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-04-29 - caguirofie050429よりのつづきです。)

第五十七章 思想原則が表現の仕方に呼応する場合・・・。

(1995・2・27)

風の歌を聞いた(=表現の問題である)と受け取りつつ・・・。

よんだ よんだ よんだと言うほど 村上春樹をほぼ全部読んだ。
一月下旬から今日まで イラスト入りの随筆から旅行記そして短編長編の小説まで単行本を全部読んだ。

まだ謎が残っている。
謎ゆえに読み継いだという一面もある。面白くもあり(最初は《ダンス・ダンス・ダンス(上)》から入った) 中だるみを覚えたところもあり(第一作の《風の歌を聴け (講談社文庫)》は 一連の読書の途中の段階で読んだのだが よくわからなかった) 一たん ああこういう内容なんだなと捉えたと思ったら また いや待てよ いま一つよく分からないといった反応を繰り返しつつ 読んできた。この謎をつかもうとしてきたとも言える。
よしもとばななの小説(とくには《TUGUMI(つぐみ)》)で見られた《向こう側》問題も 一つの主題である。身近な者の死を体験すること そしてこれは死の問題として実際には生の問題*1であるものであった。また 身の周りに死者を出すことの有る無しにかかわらず 孤独の問題であるとか 愛の不毛なり信頼関係の成立困難なりの問題であるとか 現代人にとっての存在と時間とをめぐる生の問題が扱われ 描かれている。この点 題材としては よしもとばなな氏が 共通の主題を扱おうとしているということであった。趣は明らかに異なっている。
幻想がすべて排斥されている。超常現象や一般に非日常の世界が描かれているが 日常経験の領域を開いて 自己(主人公)の主観真実を 人間と社会(つまり《出発点》)の世界全域の中に追求しようとしたものであろう。ここに 演技原則はない。ありえない。好悪原則は その感情にまつわる心理現象を むしろ幻想ととらえ これを棄てていくからには 原則として機能するのではない。好悪自然の感情の起こることと これを一つの思想原則とすることとは 明らかに区別されている。しかるべきことだ。
その上で 謎が残る。一筋縄ではいかないと言ったのでは あまりにも安易である。春樹作品は何を目指していることになるか。
春樹論としての評論も 十冊余り読んだ。
それぞれに問題点をとらえ論じており 教わりもしたが それにしてもなお だからハルキ・ワールドが明らかになったかと言えば まだまだ丸っきり謎であると言わねばならない。結論はこの評者の議論内容に落ち着くことになるだろうと思えるものがなかった。たとえば現代人にとっての存在と生活の問題が 全共闘世代にとって扱われているという見方も あまり面白くなかった。(わたし自身はその世代なのだが。)その見方におさまるものとは思えない。精神分析の問題なのだという見方は 広い意味でその主題としても追究されているのであろう。そして だからどうなのだと問うとき――わたしは問いたいわけで―― もはやその先へは進んでいないように思われた。
文学としての趣向や仕掛け そして文体などの問題が かなり細かく分析された評論にも出会ったが 文体にまでなれば思想の問題なのだから それとしてさらに推し進めて欲しいという思いが強い。創作上の《種明かし》を扱かったものまですでに出ているが これも同じく思想の問題へとつなげて欲しいと思われる。
わたしの関心はここで思想にあるから 少なくともその視点では なお春樹作品は きわめて謎を持った文章であると考える*2。評者によっても むしろこの謎を指摘するという批評が多い。
実際たしかに春樹氏は 結論を 作品ごとにそのつど 正当にも先送りしているように思われる。物語を紡ぐ人であって 思想を展開しようとするのではないとすれば 正当にもであるし また逆に かれ自身の考え方にかかわって その思想が間接的に表現されているとしても 確かに思想は時間過程に従うという一つの原則的な側面から見ても 正当にもである。春樹氏が故意に自らの主張を隠すという韜晦をおこなっているとは思えない。そのつど 生の問題という主題について考えを深めつつ 一つひとつの副主題や論点を固めてきているし それとしての結論内容をもって各作品を締めくくってきているはずだ。それぞれの事件は 物語として 収束を迎えている。
そしてそれらの出来事は なおその後も歴史を編み続け 一つひとつの作品ごとに 新たな課題を見出しつつ 展開していくというべきなのだろうか。それが 人間の生というものでさえあり とくに文学はそのような課題を持ちつづけ取り組みつづけるという姿勢に基礎を見出し そこに根を張ってもいると言うべきなのだろうか。
その視点から言えば 思想などというものは――思想として原則がどうだああだと整理しつつ議論することは―― 単なる上っ面をなででいるということであるだろうか。
文学も作品ごとにひとまず自らの考えを――そして虚構の上では 自らの生をも――締めくくるというからには そこに思想のかかわる余地は じゅうぶんにある。それを取り出せるものなら取り出し 論じてみたい。この立ち場に ここでも 変わりはない。文学作品をめぐっては 一方に本人と作者とが控えており 他方に思想が位置している。本人と思想とは 出発点の《わたし》とその主観真実とで およそ一体である。これらと 作品もしくはむしろ作者とをつなぐものは 表現である*3。あらためて 表現の問題ということにもなる。

  • このあと この日(1995.2.27)に 一まとめの村上春樹論を書き始めた。次の章から掲げる。
  • 表現の問題ということで 次の節の如く 回り道をした。表現の奥行きというようなことを 確認しておきたかった。

わたしが見ようとしている表現の問題とは 次に述べるごとくである。

思想原則は 表現の仕方で・またその受け取り方で ちがってくるようだ。

(1995・3・3)
(1)

モーセシナイ山を下ったとき その手には二枚の掟の板があった。モーセは 山から下ったとき 自分が神と語っている間に 自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人びとがすべてモーセを見ると なんと 彼の顔の肌は光を放っていた。
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 34:29−30)

エジプトを脱出し砂漠をさまよいながら シナイ山の麓に留まっていた時のことである。モーセは角が生えていたわけではなく 《顔の肌が光を放っていた》ので 人びとは かれが呼びかけるまで《恐れて近づけなかった》という。この顔の輝きが一体どういうことかも けっこう謎であるが もっと謎であるのは 《モーセが神と語った》という部分である。これは 一体どういうことか。
たとえばその以前に次のようなくだりがある。シナイ山中ではなく その麓の宿営の外に置くことになった《臨在の幕屋》での出来事である。

モーセが幕屋に入ると 雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち 主はモーセと語られた。雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると 民は全員起立し おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。主は人がその友と語るように 顔と顔を合わせてモーセに語られた。
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 33:9−11)

ここでは 《雲の柱が降りて来て立つ》ことは 目に見えるはずであるが 《人がその友(Z)と語るように 顔と顔を合わせて》主である神ヤハウェ( X )と人間( Z )モーセとが語ったというのは 一体どういうことか。
肉眼に見えたとは考えられない。おそらく心の眼に見えたと言い張るのも 話をなさない(話し合いを進めない)。
(2)わたしの結論は これは表現の問題であるという理解に立っている。人と人とが語り合うようには 顔と顔とを合わせてモーセは 神(非対象 X)と語ることはなかったであろうと考える。*4
(3)たとえば 神の知恵(やはり非対象 X)そのものは――非経験・非思考でもあるのだから――経験存在である人が見ることもできないし 悟ることも不可能である。悟った内容は 精神上のことであるなら それも 非経験ではなくなる。
たとえば単純にモーセから千余年ののち イエスの出現のあと こう表現された。

私たちは 今は 鏡(人間・社会・歴史?)におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには(《完全な者(X)が来た時には》) 顔と顔とを合わせて見ることになる。私は 今は 一部しか知らなくとも そのときには はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 13:12)

これが一つの参考となる。《顔と顔とを合わせて見ることになる》時のことを述べたのは それによって余計に 人間の知性真実(X−Y−Z)の相対性を今強調したことになる。これを参考にするならば また一般にこのパウロの文章ないし神学にしても 人間の論法からいって基本的に 表現の問題であると思われるからには それと同じように モーセのくだりも 表現の問題であると考える。

  • ちなみに 《完全な者が来たとき》というのは 基本的にいって 《向こう側》問題とは別である。生から死への移行の問題とは別である。非経験・非思考ゆえ 経験的な時間の流れ〔なる生死〕とは 見方としても存在のあり方としても 別である。

(4)あるいはさらにたとえば 次の文章が参照できる。

ところで石に刻まれた文字(モーセの携えていた《二枚の掟の板》とその文字)に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために イスラエルの子らが彼の顔を見つめ得ないほどであったとすれば 雲( X )に仕える務めは なおさら 栄光を帯びているはずではありませんか。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:7−8)

このパウロの文章も 同じくやはり表現の問題であると思われる。たとえば《栄光》と表現されていることは 非経験( X )のことにかんする人間の生の現実性を言うためのものであると考えられる。出発点の信頼関係が 経験現実じょう 無力であるが 信仰原理の上で 有効だと主張しようとしている。かの時・つまりシナイ山のふもとでモーセが臨在の幕屋に入ったとき 目に見える雲の柱が降りて来て立ったと表現しなければならなかったとすれば それは 死ぬべき存在である人間の《栄光》は――または 広く思想・文化は―― その段階ではいまだ《死に仕える務め》であることを免れなかった。だから新たに たとえばパウロと同じ時代のヨハネに 次のような表現を得さしめた。

律法(《掟》)はモーセを通して与えられたが 恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:17)

これも同じく すべて表現の問題であるが ここには少なくとも 非経験=X なる《真理と恵み》が 《律法》と異なるという一つの思想内容については 新たに明らかにされていると言えるはずだからである。律法は たとえば《殺すなかれ》とすれば 普遍的な生命原理のことを言っているわけだが それは非経験の真理(X)があたかも人間の言葉で捉えられる(つまり 代理表現)かに受け取られてもおり 人間の経験行為にほとんど直接かかわるようにも受け取られた。死に仕える務めとも表現すべき生の問題・生の主題であった。
そうすると 真理とともに現われたと表現された《恵み》は 《霊に仕える務め》にかかわるものと思われるが――《恩恵》とは 《只・無償》のことであるから そのことを何とか表わそうとすると 正体のわからない《霊》という言葉がふさわしい―― 人間の経験的な知性現実の相対的であることが さらに徹底されたことと解される。そういう表現の問題でもある。

  • 一貫して その内容を 代理表現(X−Z)と説明表現(〈X−Z〉−Z)とでしか表現しえない信仰現実については このように 表現の問題が つきまとっていることを今 確認しようとしている。まして 経験合理性という基準で判断しあっていく科学・思想については その経験領域の中では その基準に照らして 理解しやすいとしても 非経験の領域へと開けた全体の主観真実のことについては やはり 互いに判断しがたく 理解も容易ではない部分がある。

あくまでも どこまでも 真理や霊も 非対象である。それでも《恵み》と表現されるのは 出発点の《わたし》が その相対性の徹底化のもとに 動態としてながら主観真実において確信されるということだけではなく 思想原則としても 一つの経験現実として何らかの余韻のちからを持つことがあるかもしれない。その希望として恵みとも表現された。無力の有効であるならば 恵みも希望も かたちはないとはっきりさせなければならない。
けれども すべては 表現の問題である。
(5)もう一例を参照しておこう。

モーセが神の家(経験現実としての《イスラエル》)全体の中で忠実であったように イエスは ご自身を立てた方( X )に忠実であった。〔・・・〕
さて モーセは将来語られるはずのことを証しするために 仕える者として神の家全体の中で忠実でしたが キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば 私たちこそ神の家なのです。
(《ヘブル書》3:2−6.ヘブル書・ヤコブ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教)

この一つの神学に抵抗がある人も ここでモーセと神との関係が 表現じょう新たに転換されていることには 異論がないと思われる。御子キリストというのも表現の問題であるから――つまり 非経験 Xのことを わざわざ人間の言葉で代理表現したその全体としての一つの文章にすぎないわけであるから―― そこにはその限りで いわゆる実体を見ることもないであろうし 実際 経験じょうの確固とした内容も とらえがたいと言うべきである。《神の家》というのも 《栄光》の場合と同じように 《律法》に代わる《真理と恵み》のことが現実性を持ちうるはずだと主張する方向を指し示すためのものである。
言いかえれば 《経験じょうの確固とした内容》は この文章表現にあるのではなく そういうよりも 《私たち》にある つまり 各個人の《わたし》にあると主張する方向に見出される。それは せいぜいが 《確信と希望に満ちた誇りとを持ち続ける》という内容である。
それにもかかわらず 思想原則として捉えるぶんには わたしたちが 神の家の中で忠実なモーセに従うというのでもなく その律法に仕えるというのでもないことが 明らかにされたと考えられるし そのことだけは 経験思考においても 確認しておくべきであろう。
(6)ところが――ところがである―― すでにモーセの時のこととして 《人は神(X)を顔と顔とを合わせて見ることはない》ということが 実際には書かれている。わざと隠していたみたいだが その書かれていることをめぐって 議論することができる。モーセが臨在の幕屋で神ヤハウェと語ったと表現されたところで まず一つには

モーセが 《どうか あなたの栄光をお示しください》と言うと 主は言われた。《私はあなたの前にすべての私の善い贈り物を通らせ あなたの前に主(ヤハウェ)という名を宣言する。私は恵もうとする者を恵み 憐れもうとする者を憐れむ》。
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 33:18−19)

すなわち まずここで 非経験(X)が 人間の言葉で《存在せしめる者(ヤハウェ)》として代理表現されたということ これのみが 人間にとって明らかにされたわけである。《すべての私の善い贈り物を通らせ》ることは それを経験の中でとらえた人の主観真実と確信のみの問題である。すなわちすべては 《ヤハウェの恵もうとする者が恵まれ ヤハウェの憐れもうとする者が憐れまれる》にすぎない。
時間的な経験存在である人間が 非経験(X)との関係の中にあり それは かれが Xを《存在せしめる者》という言葉でとらえるというのみである。人間は人間である / 経験存在は経験存在であるという自同律を 確認するのみである。
その上に付け加えられるべきとしては 《栄光 / 善い贈り物 / 恵み / 憐れみ》などの表現が 現実性に立つと主張しようとしているそのことである。
(7) 第二点として 実際 こんどははっきりと

また〔ヤハウェは〕言われた。《あなたは 私の顔を見ることはできない。人は私を見て なお生きていることはできないからである。》
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 承前)

という。もしここでさらに論理を優先させてよいとすれば 非対象(X)の顔を見ることが出来るかどうかは 生きていても死んでいても わからない。という意味であろう。それを知ることができるかどうかを 知りえない。(つまり 死ねば わたしの顔を見ることができるであろうという意味ではないであろう。)冒頭に引用した《モーセが 直接 神( X )と語った》というのは 比喩だと考えられる。そして表現の問題としてなら 主観真実における確信と希望とは 経験現実にかかわると主張する思想じょうの立ち場もありうる。
(8)最後に――同じ場面で――謎のことばが出て来る。

更に 主は言われた。《見よ 一つの場所が私の傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき 私はあなたをその岩の裂け目に入れ 私が私の手を離すとき あなたは私の背面を見るが 私の顔を見ることはない。》
旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 承前)

従ってここで新たな課題は この文章をめぐって進めるべきであろう。
これまでに進めてきた内容とかけ離れるものではないであろうが 《〔ヤハウェの顔を見ることはないが〕 ヤハウェ=存在せしめる者の 背面を 人は 見ることになる。》という一命題 これをめぐってである。
ただし それは 《第二部》*5で考えた議論となる。とくに《出発点の〈わたし〉》をめぐっての議論*6 シンライカンケイの理論である。もちろん《ヤハウェ=存在せしめる者》も《ヤハウェの顔を見る》も《ヤハウェの背面を見よ》*7も すべて同じく 表現の問題である。人間が人間であるという自同律(アイデンティティ)のそれである。人間の片や存在と片や表現行為という二つの側面に分けて見ようと――だから それらを統一した視点を持とうとも――いうだけであるから。

次の章から 風と象と羊とねじまき鳥と

(1995・3・16)
春樹氏の小説のほかに 対談・インタヴューそして他の人の評論で 単行本になっていないものを 雑誌の内に求めて読んだ*8。古いものや 雑誌によっては 目にすることが出来なかったものがある。
読んで感じ考えたことを ようやくまとめることが出来 これを 《風の歌を聴け (講談社文庫)》から《ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編》に到るまでの八篇の長編小説を中心として つづってみた。その謎をめぐってわたしなりの見方を持つに到った。たとえばこの今の《表現の問題》の視点でとらえるというものである。
そしてその内容にもかかわって 春樹作品の主題は 《ヤハウェ(X)の背面を見よ》という仮想かつ現実なのだと考えた。もちろん むしろ 謎のままでの議論なのである。すなわち 信仰原理の上で同じであって 具体的な信仰形態(有神論か無神論か)では異なっているかも知れないと見たうえで 《風( X )の歌を聴け》と言っているのかもしれないと捉えてみた。
もちろんそのように勝手に読んだ結果である。その故意によってか あるいは偶然によってか 春樹氏の長編小説群の一連となった大きな物語は シンライカンケイ論であると捉えた。この議論は 日にちをかけて書いたものだが もはや一まとめになっている。(いちいち日付けをつけていない。)名づけて 《風と象と羊とねじまき鳥と》である。このあと最後までつづく。

(つづく→2005-05-01 - caguirofie050501)

*1:《向こう側》問題・死の問題・生の問題:第三部で扱った。→2005-04-26 - caguirofie050426

*2:春樹作品は謎を持ち続けている:その後 《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》を読み終わったところで――その第一部二部まで謎が続いたそのあと この第三部に到って―― 謎ははじけた。失望であった。《出発点》の《わたし》は もはや 置いて行かれてしまった。《わたし》なる村上春樹本人は 物語の人物の中に移入していく作者に従属してしまった。自らの思想原則の追究が途絶えた。こう結論づけた。次の註をも参照。

*3:《わたし》と作品もしくはむしろ作者とをつなぐ:創作中の作者という状態にある本人は 主人公その他の登場人物とは 別個の存在であるが むしろ作者として その人物の中へ入っていくゆえ。

*4:モーセは 神と 友に対するように 顔と顔とを合わせて 語った:⇒2009-05-06 - caguirofie《神を見ること》

*5:第二部:第三十三章から始まる。→2005-04-08 - caguirofie050408

*6:出発点の理論:とくに第四十三章=2005-04-20 - caguirofie050420

*7:神の背面:これにかんしては 終末という主題に絡むかたちで 小さな議論をしたものがある。→[愛]終末は分からなくて構わない。 - caguirofie040923

*8:村上春樹作品全部というのは《ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編 (新潮文庫)》が出るまでのもののことです。