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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-21 - caguirofie050421よりのつづきです。)

第四十五章 本覚思想という好悪原則を批判する《批判仏教》・その出発点

関連した議論として 袴谷憲昭氏の《批判仏教》の思想を取り上げたい。

それは すでに触れていたように 出発点における《わたし》は わたしであって わたしではない――あくまで 一個人として意思表示するわたしであって なおかつ ただひとりわたしだけのことだというのではない―― その点にかかわってのものである。仏教では これを 《無我 an-atman》と言っていて その議論に絡むのがよいと思われた。
袴谷氏の新しい議論から引用しよう。

(T)・・・仏教は インド精神ともいうべきアートマン(霊魂 我)があるという精神主義に対しては それを否定し(無我説の主張) インドの宗教家が通念に染まって認めていたような霊魂とは 実はたんなる五蘊(肉体と感受と概念と意志と認識)であると判断し主張した思想だったのである。
(袴谷憲昭:〈批判仏教と本覚思想〉――日本仏教研究会編 誌《日本の仏教》第一号 p.99。)

これは 出発点として 《わたし Zi》すら むしろ想定せず 一般に《わたし》という人間の存在は その五蘊としての要素の集まりにすぎないと見る思想である。ただし のちに見るように この経験存在とは隔絶した《非経験=非対象 X》が 明らかに想定されている。
《我・霊魂・あるいは仏性》としてのアートマンが 非経験(X)のことか それとも信仰説明(〈X−Z〉−Zi)としての単なる理念・信念のことかで 話がちがってくるはずである。だが シャカムニ・ブッダの出現の以前からあった《インド精神》においては・または一般にそれが《精神主義》になるという場合においては そのアートマンブッダは明らかなかたちで批判し棄てた。単なる理念・信念として抱かれているのなら そのアートマンとは 身体(肉体と感受)と変わるものではなく また経験的な精神(概念と意志と認識)=つまり経験的な知性真実(X−Y−Zi)に属するものであるにすぎないであろうと。
アートマン(我)は たいそうなものではないと。だから《自己・わたし》をも想定しないのだという。
ブッダないし仏教を受け継いだ場合にも このブッダを 非経験(X)の一代理表現とは見ず そうではなく 悟りや慈悲など概念であるかたちにおいて・つまりは そういった内容の仏性というものとして 信仰を持ったと説明(〈X−Z)−Zi)をすることが見られる。この内容を 自らの精神(知性真実)に抱く。もしこのようなアートマンの説を唱えるのならば それは 仏教ではない。仏教とは このアートマン説を否定したのだ。それに代えて 無‐我(アン‐アートマン)を主張したのだと言う。
ひいては 非経験(X)と経験(Y)〔および人間(Z)〕とを区別した。つまり詳しくは 自らの信仰(X−Zi)とそしてその信仰説明(〈Y−Z〉−Zi)以下の知性真実(X−Y−Zi)とを 区別したものとここで思われる。五蘊という感性および知性 まとめて知性真実 これを 《わたし Zi》の存在過程ないし表現動態のもとにとらえた。(その場合 表現をおこなうにあたって 自らを称するとき 《わたし》という言葉は 想定され用いられるのだから その限りで 《わたしの存在過程ないし表現動態》と表わした。)つまり人間存在は存在として捉えられ 信仰は信仰として捉えられ さらに超知性真実は超知性真実として捉えられたし  それぞれは 互いに区別された。予めながら こう考えられる。
それでは仏教では・つまりこの批判仏教では 《非経験=真理 X》に対する《わたし Zi》の関係 つまり信仰(X−Zi)は 実際どうなっているか。出発点のあり方についても さらに具体的にどう想定されているのか。
(1994・11・29)
その前に もし《批判仏教》という言葉が耳慣れないとすれば 次のように説明される。

(U) 《批判(critique)だけが仏教である》との意味での《批判仏教(critical buddhism)》を提起したのは私であるが それは私の勝手な捏造なのではない。《批判》の根拠は仏教そのもののうちにあったと考えられるからである。もっとも 《批判》という語は西欧のクリチークの翻訳用語そのものが仏教に由来するとは言えるはずもないが クリチークとは ギリシャ語の動詞《クリノー(分ける 選ぶ 判断する)》より派生した《クリチコス(分けることのできる 判断できる)》に因む意味あいのものであるから 漢字の《批判(比べて半分に切って分ける)》は 明治以降の翻訳用語としてはむしろ出色のものといえる上に 仏教とは このように《分けて選んで判断を下すこと》をその本質的性格としているのだということを正確に認識してもらいさえすれば《批判仏教》とはそれほど奇を衒った命名でないことは容易にわかってもらえるはずのものであろう。

批判仏教

批判仏教

(p.98)

さて この批判仏教の《信仰原理》はどのように説明されているか。きわめて煮詰めた議論として 次のようにとらえられよう。

(V)・・・・凡夫(――社会的存在たる愛・・・引用者・以下同じ――)の背後や内在になにものをも前提にしないゆえに 凡夫とは絶対的に不完全で無知な存在である(――つまり非経験(X)の領域に開かれていざるをえない――)と認めるほかはないから その凡夫観は絶対的凡夫論と呼ぶことができる。

  • 出発点の人格の時間的存在たることが つまりその相対性じたいが 表現として 絶対的だと言っている。
  • なおここでは〔端折るかたちになるが〕 出発点の捉え方にかんして 二通りが考えられている。一つには 《背後や内在に〔仏性なら仏性を 自らが自らの力で〕前提する》というあり方。いま一つに 《非経験(X)が想定されえて これと人との関係が 非思考において持たれる・つまりはそれゆえ 信じる(または信じない)の問題として持たれるに到る》という見方。これら両者は 互いにきちんと区別されている。
  • 〔このあと 善導の著わした《観経疏》の《二種の深心》*1が引かれたあと 次のように述べられる。〕

・・・かかる凡夫だからこそ絶対他者( X )たる弥陀の願力に乗じて往生することを信ずるほかはないのである。

  • つまり 出発点における信仰原理(X−Zi)のことである。その発進と持続過程とが見通されており このことは あくまで《考える》を超えているということである。また 阿弥陀仏を具体的に代理表現として用いる上では 形態として有神論である。

これが世に他力行と呼ばれるものであるが 他力行こそもっとも仏教的である〔にもかかわらず 《本覚思想》の根強い我が国では 自力行と他力行との評価が逆転している。・・・〕
批判仏教 pp.107−108)

わたしたちはここに同じ《出発点》の想定を見る。引用や紹介の仕方が要領を得ないかも知れないが まず初めに無我説・五蘊説で知性真実を 〔超知性真実と区別して〕とらえたことは ここに《絶対的凡夫論》として示される。人間の知性真実の相対性のことである。相対的であることが 極まりないという意味で 絶対的と言っているようである。
人間ないしその知性真実の《背後や内在になにものをも前提》しえない。その相対性の有限性は 絶対的である。この人間存在の相対性が絶対的だというため 《非経験=真理 X》を想定しこれをも用いて現わしていくのが わたしたちの出発点であった。
ここではこの《非経験=絶対他者 X》に《阿弥陀仏》という代理表現が示されている。そして《他力行》とは そのブッダ(X)との関係・つまり《わたし》の信仰(X−Zi)が 経験領域ないし知性真実に先行すると見ていることをいう。逆にいえば 人間の知性真実は 非経験(X)の領域に対しては 無力である。つまり それの経験領域における有力は 相対的で有限である ということになるだろう。
《本覚思想》とは 好悪原則の無関心信仰(信仰無関心)・つまりその意味でむしろ経験領域に拠り所を持とうとする《自力行》・つまりまたは取りも直さず多神教のことである。
その多神は 経験思考の産物であって ここでは 理念・信念としての《仏性》が遍在するかの如き内容を言い いくつもの神を合わせて いわゆる混淆の状態になっている。またこれらいわゆる神仏が 精神〔主義〕の問題であって どこまでも経験的な知性真実の中におさめられるとすれば そこからは 《自力行》が出て来る。そしてそれは 好悪自然の感情にもとづき(もしくは 仏の慈悲・慈愛・思いやり等々といった信念・理念を立てることにもとづき 本音・建て前の二本立て思想のもとに) 自由自在に 繰り広げられる。
これらは すでにもともと――この主義として想定されたところの《出発点》に――仏性(アートマン)が存在しこれの悟りが存在しているという見方によっている。つまりはすべてその意味での《本覚》にもとづいて 世界は成り立っているというもののようである。この基本的な・根本的な覚りがあれば 好悪正直の原則は社会の中で 自力行としてそのまま有力となってよいと主張することになると見られる。
人間に内在するか背後に存在するとされる《アートマン》とその《本覚》 これが 非経験(X)とその信仰(X−Zi)の如くに見えるらしい。まやかし――偽りの真理( pseudoX)と擬制的な信仰( pseudoX−Zi)――である。さもなければ もっぱら《自力行》に訴えるという思想は 出て来ない。好悪自然の原則 もしくはその好き嫌いの内容を実現させようとする精神主義(自力修行を伴なった精神主義) そしてそれをよしとする知性 これらの内容は 《正しい》信仰からは出て来ない。
信仰に立った人は 絶対的凡夫(ないし 愛)であることから出発するはずである。そうでない場合 この本覚思想は すべてにわたる自然的感情の放任自由において 事実経験(つまり 《あるがまま》)を肯定するにいたる思想であって 記号づけとしては 真理(X)=事実(Y)=真実(Z)であると考えられる。
《わたし Zi》の個人差(i=1〜nの差)もないと見ていることになる。ということは 逆に経験事実じょうの社会的な位置関係の差がそのまま 正直自然として《正しい》と 肯定されていく。階級階層の社会関係が――流動的な中にも―― よしとされる。
言いかえるなら むしろここでは 事実(Y)が先に来て 人間にとっては好悪事実としての自然真実( Y−Z)が――そこにアートマン=仏性が内在するというからには―― そのまま真理( X)であると言うと同時に これは 人間( Z)でもありその知性真実( X−Y−Z)でもあることになる。
これらの思想(思念)の全体もそしてその場合の真理も みな明らかに経験的な思考ないし想像の産物である。つまり 偽りの真理( pseudoX−Z)を根拠としつつ 全体が 《あるがまま思想 Y=pseudoX=Z》となる。擬似真理( pseudoX)が 我=仏性=菩薩=聖などのことであるから 《即身成仏→即身(Y=Z)成仏(=pseudoX)》《煩悩即菩提→煩悩(Y=Z)即菩提(=pseudoX)》《凡聖一如→凡(Z)聖(pseudoX)一如(つまり Z=pseudoX)》と表わしそう捉えるにいたり この擬似的な信仰に立つことを 《本覚》と言うもののようである。この意味でも 多神教である。
あるいはまた 即身成仏と言っても なおこの世に生きている限り 煩悩ないし苦はなくならないのであるから その時には 《自力行》が――あるがままの中にも――必要となるとされる。これを実際じょう 精神主義・修行苦行主義のもとに《実践》するということであるらしい。しかしながら ひるがえって――やはり即身成仏( Y=Z=pseudoX)なのであるから―― 知性真実( X−Y−Zi)としての思考・判断・批判は どうでもよいと考えられている。意思表示など これも どうでもよいのである。草木国土悉皆成仏なる《和》を以って貴しと為す ならば以心伝心である この枠組みの中でなら 人は 考えるということをおこなうし その結果の意思であるなら 表示もしよう ということになるらしい。この不文律に沿ってなら 互いに意見を表わすことも自由であり 一般に学問も翻訳文化も 盛んなのである。《〈本覚思想〉の根強い我が国では 自力行と他力行との評価が逆転している。》

(W)・・・《梵聖一如》(Y=Z=pseudoX)などという安易な非仏教的考え方は避け 絶対他者(X)のもとで凡聖の隔絶性(Y≠Z≠X)に耐えていた善導こそむしろ仏教の正統説を主張した人だと考えてよいのである。
批判仏教(p.109)

これが 出発点の 無力の内に有効のことだと考えられる。
そしてこのような善導のあり方・行き方は 出発点の持続過程として 譲歩のことを意味する。知性真実( X−Y−Zi)〔どうしの関係〕なる愛を――むろんその相対性のもとに――愛し そこに信頼関係をきづこうと つねに表現・話し合い過程を歩み またその時 非仏教ないし好悪原則に対して 譲歩している。

  • 自らの努力をともないつつ 原理としては 他力行なのである。その意味で 他力本願といってもいい。

あらためて 無力の有効という。善導の述べた《二種の深心》のうち 第一種が 出発点たる《わたし》の無力を 第二種が その原理的な有効を それぞれ表現していると思われる。古めかしい表現であるが これも引用しておこう。

(x)深心と言うは即ち是れ深信の心なり。
亦た二種有り。一には 決定して深く 自身(Z)は是れ 罪悪生死の凡夫 曠劫より已来 常に没して流転(X≠Z)し 出離〔Xないし 信仰(X−Zi)の確立〕の縁有ること無し と信ず。
二には 決定して深く 彼の阿弥陀仏(X)の四十八願をもって 衆生(Z)を摂受したまうこと疑い無く 慮り無く〔図り事による・その意味での偽りの真理( pseudoX)を抱くこと の非をいう〕 かの願力に乗じて定んで往生〔信仰(X−Zi)の確立〕を得 と信ず。
(善導:《観経疏》。袴谷憲昭:批判仏教pp.107−108)

すなわち 《出離〔信仰( X−Zi)の確立・実現〕の縁有ること無し》という《無力》にして 《かの阿弥陀仏の願力(X)に乗じて定んで往生〔信仰( X−Zi)の確立・実現〕を得》という《有効》であることが 《わたし Zi》の出発点の有り方として とらえられた。そのような時間的存在たる人格の動態のことだと考えられる。《絶対他者( X)のもとで凡聖の隔絶性(Y≠Z≠X)に耐えていた善導》(引用文W)の姿は そこに捉えられると思う。
ということは具体的に批判仏教としては 知性真実の領域で 妥当性と答責性を内容とする思想原則をとおして話し合いを進めつつ 実際じょう 譲歩している。この時ただし そこには《批判》をふくむ。互いに答責性を回避せず 表現内容の妥当性を追及しあうという意味では もしその批判を《自力行》というなら これをも含む。つまり ふつうの人間の努力のことである。この努力を抑える理由はない。
信仰原理として〔もしその表現を使うとすれば〕《他力本願》 そして思想原則としては 知性真実における基本的な意味での批判を通しての自己表現 これら両者を合わせて出発点は――無力の有効のもとに―― わたしでありつつ わたしを超える存在過程が提示されていると考えられる。
出発点において 批判仏教は 《無我》を立て すべてここから出発する。わたしたちは 《わたし Zi / X−Y−Zi》を想定し これをむしろ交通整理の手段として活用してゆく。
かんたんであるだけではなく 要領のわるい議論となったけれども ひとつの補論としたい。出発点のあり方を仏教の例に捉え確認するかたちを通して 出発点が経験現実であることを主張しようと試みた。

第四十六章 出発点にあって 信仰動態としては ドグマもありうる。

(1994.12.9)
前章から十日ほど経った。この間にわたしは 次の書物に取り組んでいた。

親鸞とパウロ―異質の信

親鸞とパウロ―異質の信

この著者は かなり信仰(X−Zi)の究極の部分・つまりは信仰説明(〈X−Z)−Zi)を超えたところに分け入ろうとしていて どう考えるか・どう賛同および疑問をわたしの側から説明したものか 悩んでいた。
また社会的には 西尾市の一中学生がイジメを苦にして自らの手でこの世を去るという事件が起きた。この事件では しばらく経ってから学校側は この彼が問題生徒たちと行動を共にしていると捉えてきたので イジメがあったとは知らなかったと表明する新たな事情が明らかにされてもいる。問題の調査および重要な対策がいまも おこなわれている。広く反響を呼んでいる。好悪原則があたかも社会関係に中に動脈をなしてのようにきづく一定の情況 これにのみ基づくならば 対症療法しか出て来ないと思うが 対症療法とて重要だから 広く知恵を寄せあって 対策を講じて欲しいとは思う。いまはこれだけに とどめよう。
親鸞とパウロ―異質の信》という本は その両人にかんする広範囲で緻密な研究と それにも増して 信仰出発点のことを 自らのこととしても(そこでは 《実存》と言われている) 徹底的に探求したその成果を披露している。それゆえかんたんに片付けることなど出来ないのだが もはやここでは かいつまんで述べるにとどめさせていただきたい。
実践を伴なった手堅い研究にもとづき 考えられる限りの論点をとらえつつ これらに持論を展開しているというもので その結論はほとんど乱暴に言ってしまうことになるのだが それは 親鸞が 晩年に到って《如来等同》の境位に達したということにあるように思われる。
絶対他力〔すなわち 真理X(先行)≠知性真実Zi(後行)〕ゆえ 本覚思想とはちがう。日本仏教は 一般に 本覚思想であるが 親鸞のばあい ちがう。その上で 結論は 如来等同すなわち 親鸞(Z)即如来(X)という信仰の境位が実現したと――表現じょう――説くものである。

  • かえって 親鸞のばあいも おなじく本覚思想ではないかとただちに思われたかもしれないが これが ちがう。ちなみに 親鸞は むろん 前章で触れた善導の系譜である。

そしてそれは むしろ《仏(X)の側からすれば》という一条件が やはり表現じょう 前提とされている。――わたしの考えでは 《仏の側からする》としても この如来等同の説も あくまで信仰(X−Zi)の説明(〈X−Z〉−Zi)としての代理表現にとどまると見るところにある。その説じたいの当否を むしろうんぬんする前にである。そのひとつの大前提をもって この著書にあたれば 人間の出発点が とくに信仰のあり方として 動態としてもどのようであるのか これがよく明らかにされていると考えられた。
著者に質問の手紙を書いて送ったので いまはこれにとどめることとする。

  • ここで 《仏(X)の側からすれば》という条件とその条件でさえ人間の経験思考としての信仰説明であるにすぎないという前提 これらを但し書きしたとしても 親鸞如来つまり Z(経験)=X(非経験)であるというのなら 本覚思想となんら変わりないではないか。(この点については 章の末尾の補論をも参照のこと)。
  • これについては 二点 補いたい-このばあいの等号は 部分的なものであることが ひとつ。つまり 経験存在である親鸞(Z)が 非経験の真理(X)を部分的に所有するということ。正確には 逆の方向で 神(X)が 人(Z)を 部分的に所有するというふうに人間の言葉で説明表現すること。
  • もうひとつは ここまで言うばあいには いくら代理表現であり説明表現であるといっても それは 真理(X)≠経験存在(Z)という初めの想定を侵しているので まったくのドグマである。このような信仰の非合理的なことがらについて語ることまでは 自由としてゆるされていると考える。その当否も 人間の理性では 判断がつかない。
  • 著者からの回答は来ていないので これ以上 非合理的な部分についての議論は おこなえないという状態にある。

そのほかには 先に触れていた善導 そしてパウロに 批評が与えられている。
両者とも 出発点の動態として・特にその信仰実践の上で それぞれが 親鸞に比べると 潔癖主義であるとか 神学優先主義であるとかの傾向が 見られ 孤高のかたちになってしまったなどなどの批判が 提出されている。これに対しては それぞれ信仰原理が 同じ出発点に立つと見るということなので いま深入りしない。必要ないであろう。もしそうであるとしたなら(そのような批判が 重大なものであるとしたなら) 改めていけばよいという考え方である。

補論:親鸞絶対他力について

この他力本願については 出発点の人間のあり方として わたしたちは 非経験(X)≠人間(Z)という基本を満たしていると考えるが そうではないと 司馬遼太郎および山折哲雄の両氏が 語っている。

司馬:・・・《これしかない》と言う意味として 親鸞は・・・《絶対》という言葉を十三世紀に使っています。
阿弥陀仏にすべてを任せ 念仏によって 是非善悪を超えた絶対の真理に到達するという 自然法爾(じねんほうに)を説く教えを《絶対不二の道》と言っているのですけれど これは浄土信仰を強調した教義の意味であって 西洋人の言う《絶対》ではないのですね。
・・・
山折:そうではありませんね。・・・たとえば浄土ということについて インド人はその浄土というのを西方十万億土の彼方にあると考えました。
ところが その西方十万億土の浄土観というのものが日本に入ってまいりますと 日本人は簡単に読み変えてしまいまして 浄土は山の中にあるよという 《山中浄土観》という考え方をつくってしまいます。山は 古くからわれわれにとっては宇宙の中心であったし 自分たちの先祖が宿っているところでもありました。
万葉集》などを見ますと 死んだ人の霊魂は山に登るということがうたわれておりますし・・・
ですから 親鸞の場合のような 多少超越的な 一神論的な傾向を示す思想が出てきても それはかならずしも長続きしなかったと思いますね。

(p.18−22)

非経験(X)に対する信仰というのではなく 想像物(Y−Zi)についての経験思想として・また《宗教》として 捉える姿勢が ここでは印象的である。
だから 親鸞絶対他力(X)にしても 《多少超越的 一神論的》(山折)という表現で捉えられている。経験領域(Y)にある《山》も 非経験の《浄土(X)》の代理表現であるのではなく 文字通りに浄土そのものだと見るという。山折氏自身がそうであるかどうか わからないが そのような浄土観(つまり Y=X=Z)は たしかに 本覚思想であり 多神教であり 好悪原則の拠り所なのだと思われる。

メモ:昔の日本人(!!)

司馬遼太郎は 日露戦争までの日本人は立派だったと言っている。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であるという脈絡で言うのだと思うが その立派さについて山折氏が紹介している。その中での長谷川伸の《日本捕虜志 上 (中公文庫 A 27-3)》からの引用を掲載させていただくこととする。《日露戦争における上村彦之丞とリューリック乗組員救助》の中の話である。

出雲に収容されたリューリック乗組員の一ロシヤ将校が 艦内に飼われている小鳥は前々からここにありしかと問うた 日本人通訳が いやいやあれはリューリックの溺者を救助にいったものが 救い漏れは最早ないかと 救助艇をあっちこっち漕ぎ廻していると 浮いていた板にあの小鳥がとまっていた 大海の中だし放って置いては 小さい翼では飛べまい 可哀そうだと捕えてきて ああして飼っているのだと答えると ロシヤ将校は涙をうかべ あれは私の飼っていた小鳥でした われわれは北海で奈古浦丸を撃沈して以来 金州丸・常陸丸・和泉丸と撃沈し 佐渡丸も破壊したのだから その報復を今こそ受けると思いの外かくも優遇をうけつつある 日本人はどうしてかくまで義侠なのかといい 神に黙祷を捧げた。
日本捕虜志 上 (中公文庫 A 27-3)。昭和37年版 p.169――山折哲雄日本とは何かということ―宗教・歴史・文明p.217)

(つづく→2005-04-23 - caguirofie050423)

*1:善導の二種の深心:このあとの引用文(x)を見よ。