――シンライカンケイ論――
もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407
第二部 シンライカンケイについて――風の理論――
(2005-04-19 - caguirofie050419よりのつづきです。)
第四十三章 《出発点》における諸原則の有効・無効
ここであらためて 信仰と思想とを伴なった主観真実 X−Y−Zを表現して生きる人間のことを 既述の図式〔(N)→2005-04-18 - caguirofie050418 )について さらにもう少し詳しく捉えておこう。
まず この人間存在 X−Y−Zのことを 《出発点》とよぶことにしよう。そして表現の問題である限り この出発点は時間的な過程にある。それじたいが 動態である。たとえば表現というからには 言葉としてヒョ・ウ・ゲ・ンと発音するとき すでにそこに四拍の時間が経過する。人間は 時間的な存在である。――しかももう一つに まだ必ずしも触れていなかったことは この出発点としての人間が あくまでそれぞれ個人であるということである。
主体関係としての個人であると――つまり 関係存在であると――言わなければならないかもしれないが そして 自らの表現を相対的な主観真実としてしかなしえないのだが 他の誰でもなく自らの意思表示として表現をおこなう個人ではある。その意思表示ないし自由意志が 社会関係の全体という観点に立った見方へとすべて還元されるとは思わない。またはたとえ還元されるにしても 個人としてそれぞれの《わたし》が表現する以外にないのだから この《〈わたし〉なる出発点》について考えておかねばならない。
そこで 《出発点》の図解は こうなる。
(Q) 出発点としての人間(=主観真実) cf.(N)=第四十章2005-04-18 - caguirofie
世界とその主体〔関係〕 その表現〔過程〕
非経験=真理 X
↑・・・・・・・・・・・・・・・* 信仰じたい=超知性真実 X−Zi
《信じる》
↓・・・・・・・・・・・・・・・* 信仰の説明〔=信仰知性 〈X−Z〉−Zi〕
人間=《わたし》 Zi
↑・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・***知性真実 X−Y−Zi
《考える》
↓・・・・・・・・・・・・・・・* 思想・科学〔=思想真実 Y−Zi / 〈Y−Z〉−Zi〕
経験=事実 Y
註および関連する議論として 次のように考える。
① 図式(N)《人間とその表現》からは その《主観真実 X−Y−Z》を やや細かく分類したのみである。
② 《信仰じたい / 信仰そのこと X−Zi》は非経験 Xが人間の考えを超えているゆえ それぞれの個人 Ziにまったく自由であるとなる。《〈わたし〉の信仰現実 X−Zi》とも言おうと思う。《超知性真実》でありながら 経験的な信仰現実でありうる。その人間=《わたし Zi》が 時間的な存在で この世の経験現実である限り。
③ 超知性現実ないし信仰原理が わたしの信仰現実として経験的であるなら これを経験思考によって人間の言葉をとおして 説明し表現することが起こる。超知性真実を認識しようとする経験知性がある。図解(N)にかんしておこなったように これを人間一般についてもおこなえるが 実際に この信仰説明が持たれるのは 個々の《わたし》以外にはない。つまりもともと主観真実である。
この《〈わたし〉の信仰説明=信仰知性 〈X−Z〉−Zi》は 経験合理性にもとづき説明するのであるから 互いに理解が可能であり すでに批判の対象にもなる。また 信仰じたい X−Zi が自由であるゆえに この信仰説明 〈X−Z〉−Ziにかんする表現も批判も まったく自由である。つまりここで 一般的にも主観真実・知性真実 X−Y−Ziにかんする表現・思想の自由が 導かれている。すでにこれに先行して 信教・良心の自由が立てられている。
④ ちなみに 真理 Xとしての神や仏の言葉が 直接 人間に啓示されるという立ち場がある。啓示も 人間のことばで〔も〕 表現され 人間の知性によって〔も〕理解されることになるかも知れない。ただ そのときには結局 信仰説明 〈X−Z〉−Ziの問題にもなっているのだと思われる。つまり そうなれば《啓示》であるかどうかは むしろ必ずしも問われない。
あらためて説き起こすなら 人間の言葉で表現されることがあっても 人間の知性による理解が難しいような《啓示》がある。これは 《異言》とも呼ばれる。これは 信仰説明にまだなっていないのだから その人の信仰現実 X−Ziの内にとどまる。それ以上のことは 知性で理解しうる説明を俟って 議論が始まる。
⑤ あらためて言って 人が《信仰説明》のことば自体――《贖い主 / 義 / 愛などなど》――を信じているとするなら それは まちがいである。つまり用語を取り違えている。信仰説明ないし教義内容 〈X−Z〉−Ziじたいは 考えるの対象であって 信じるの対象ではありえない。しかも信仰の対象は 非対象である。
⑥ 科学認識は もちろんここでの《思想真実 Y−Zi / 〈Y−Z〉−Zi》である。この経験的な思想真実が 閉じられておらず開かれているとするなら 科学認識も 広く知性真実 X−Y−Ziに属すると考えられる。つまり 非経験 Xの領域へ開かれている。しかし それじたいが 信仰となることはない。信仰説明が信じるの対象にならないのと同じように 科学認識もその経験法則も 信じるの対象ではありえない。
⑦ 繰り返すならば たとえばいまのイザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))の文章もしくは 文字ないしそこから想像し思考して得た概念内容 これらは 思想真実もしくは信仰説明であるしかなく それじたいを信仰とすることはできない。その意味で 《文字は殺し 霊は生かす》(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)3:6)。つまりこの《霊》は 非経験 Xのことである。またはそれと《わたし Zi》との関係 X−Ziのことである。《生かす》あり方は 信仰原理にかかわって 無力の有効である。
⑧ ということは――表現の問題としては―― 《非経験=真理 X》にかんしては その言葉ないし文字が 真理 Xじたいではなく すべてそれ Xの代理として表現されたものである。ヤハウェ・主・神・霊あるいはアッラーないしブッダまたは無神などなどすべて 代理表現である。もちろん 非経験とか真理とか あるいは記号 Xも 同じくである。
⑨ 従って――表現の問題としては―― たとえば《正しさ・正義》などの言葉は 実際には 主観真実としての妥当性のことを言う。おのおの《わたし》の知性真実 X−Y−Ziにかんして 経験思考によって判断するその内容の妥当性・合理性のことである。
⑩ わたしたちは一般に 表現にあたって 知性真実の妥当性を求め 時にそれを主張として競う。妥当であると一般に判断されたばあい 共同の主観真実となる。誰が主張したかには関係ない。これも――時間過程に従うゆえ―― 時代や社会によって 変化する部分さえあると考えられる。これはまた 経験的な知性真実が 非経験 Xの領域に対して つねに開かれていることを言うのと同じだと思われる。
⑪ 知性真実の妥当性を競いあうとき 同時に人は 答責性を負うと考えられる。おのおの主観真実としての表現内容に 責任を負う。表現の自由ゆえ その自由(自由原理)を守るためには これら妥当性と答責性とが 必要となるものと思われる。両者で 妥当でないことがらについて そのことを知ったなら 改めるという内容である。妥当性を問われたなら あくまでさらに妥当性を求めあって どこまでもそれに答える責めを負う。ここに話し合いが過程となって 成立する。
⑫ 信仰じたい X−Ziにかんしては 非経験 Xにかかわると想定する以上 いまの妥当性そして答責性を超えているかに思われるが それが同時に具体的な個人=《わたし》のおこなうことであるなら その限り 信仰説明 〈X−Z〉−Ziの部分で やはり妥当性と答責性をほとんど無条件に負っている。《ほとんど》というのは 自らの信仰の話をすることができる自由(布教の自由)と見合っているからだと思われる。
⑬ 人間にとって それ自体が動態である出発点は 表現の問題として 知性真実 X−Y−Ziから成る。これの自殺・他殺が許されるかどうかは 知性真実じたいにもとづいてしか判断できないのだから・知性真実じたいが存在してこそ判断できるのだから 許されない。これは 出発点にとって 生命原理としての普遍的な前提であると思う。この上に立って《自由》が来る。出発点が誰にとっても普遍的にあてはまるからには この自由は 相互の自由であり 平等である。自由の相互性たる平等は 知性真実にかんして その表現内容の妥当性および答責性を欠かすことができないということと 同じだと思われる。ここからも《話し合い》が 導かれる。しかも出発点が 《わたし》であるからには 《わたし》の意思表示なしには 話し合いは始まらない。
⑭ この出発点としての人間が 社会的な関係(それは自由かつ平等)として存在するとき そのこと自体をもって 《愛》と言おうと思う。生命原理に立つ存在関係のことである。出発点が出発点であることは 生命原理であるが 《関係》の視点も入れれば 《愛》である。この愛の確認と確信・なおかつまたその表現行為一般が 《信頼》に導く。愛の愛(または 愛の自乗)が 信頼の中味である。そして特に《わたし》の意思表示の 妥当性および答責性によって 判断される。これが 社会における民主的な話し合いの過程となる。
⑮ 出発点も愛も信頼も 時間的な動態である。ゆえに過程としての話し合いなのであるが ここで 意思表示を避ける表現は のちのちの答責性を避けるという意味で 従ってその時点でも妥当性に欠けるという理由から 信頼関係を避けこれを拒否することに通じる。わからないと言うか つまり待ってくれと言うか 棄権するか以外は 反信頼関係の状態となる。すなわち 人間以前の状態にある人間となる。出発点に停止した状態である。出発点が自由原理に立つからと言って その自由という概念ないし文字を盾にして 自らの動態を棄てることはできない。おれは愛も信頼も要らない とは言えない。
⑯ だが 生命の愛・存在の自由たる普遍原理は侵しえない。信頼関係に反する意思表示の回避・自己表現の拒否に出会うとき それでもその人の存在を 自分と同じように 愛さなければならない。実際上 無回答や筋違いの表現は いわゆる悪い意味で政治的な表現形式であると捉らえられていく。一般的には 信頼関係をどうでもよいと考えていると受け取られつつも 人間であること自体は放棄せず・その意味で裸の・自然の愛にのみは もとづこうとしていると捉えられてゆく。無回答が しばらく時間を与えよという意味でないなら そうなる。その自然正直そのままの愛は よく言えば信頼関係をその自然成長性に期待し 実際には まったくの放任自由ということである。その姿のみとなる。このすがたでの愛が 好悪原則という無原則のことである。
しかもそれが まだ人間関係だけは保ち 人間じたいの無視ということでないなら その以前と以後とにおいて 妥当性を持ち発言内容に答責性を負う姿勢が残る限り わたしたちはこの好悪原則を排除することができない。また その姿勢すら消えた場合には もはや排除する・しないとは 別の次元に移行する。その人は 人格(出発点)を放棄したと受け止めなければならない。そしてそれでも 出発点に立ち それがおのおの社会関係的な存在であるという愛を愛し 信頼関係のきづかれることを俟ちつつ あらためて話し合いをつづけていかなければならない。
ただし もし愛の放任自由なる悪貨が良貨を駆逐するのならば この愛の愛としての信頼関係の確認にとって この世の人間は 無力であるかもしれない。けれども ただの愛 つまりただ人間として生まれてきただけの存在としての出発点のあり方は その表現にかんしてわたしたちがその妥当性を求め答責性を問う時 もしもはや答えないとすれば 無原則でありただの自然存在でしかなく 社会関係としてさえ生きていないことになる。
またその《わたし》など どこにもいないことになる。その基礎たる愛さえ もはや実際には棄てていることになる。好悪なる自然感情としての愛は ただそこに愛や信頼関係が潜在するというのみとなる。いまは この状態に居直った時のことを 《悪貨》とよんでいる。
⑰ このように 信頼関係の確立にかんして 人間は無力を知ることになると同時に いまの出発点の想定に従う限りでは 信頼の自由放任またはその努力の放棄について これを人間の社会的・存在的な自殺であるという議論をすることができるのならば 出発点なる人間は 無力であると同時に 有効である。その自由ないし愛が有効であり ある意味で 時間を超えて生きる。《人格》は ここにあると考える。
愛 もしくは愛の愛=つまり信頼 そしてそれの無力の有効性 これの動態が 人格である。端的には 話し合いにおける意思表示に現われ その限りで 自由意志(その選択・判断)が 人格の基礎である。この人格として生きる人は この世で―― 一例としては――ヤハウェ(非経験 X)の腕となると表現される。《砂漠に根を張る》=つまり 無力の有効なる出発点を生きる。《彼》ののちは もはやヤハウェはそのような人びとを《打ち 砕く》ことはないと思われる。《我々の聞いたことを 誰が信じたか》。――しかもこれは わたし自身の主観真実の一表現であるにすぎない。
(1994・11・27)
⑱ もし《善》という言葉を使うのなら いまのこの人格の存在過程 それとしての生きること・生かすこと これを善という。《わたし》が《わたしの出発点》に ある日ある時立ったこと またこれを――試行錯誤を通じて――持続させること これが善である。表現行為として見れば 《わたし》の主観真実 X−Y−Ziの問題である限り それは人びと互いの《独善》関係である。しかもそれの自己閉鎖化は そもそも出発点じたいの内容に反する。信仰原理ないし思想原則の わたしどうしの自由つまり平等が 受けつけない。善という言葉を用いて《わたし》相互の出発点を 独善関係と言うといっても そもそもの基本が 愛 愛の愛 そのまた愛といった関係過程に発しており それは 信頼関係をめぐって 自己の表現の妥当性および答責性を さらに具体的な原則としていく。これは 信頼原則という思想である。
⑲ この人格の《独善関係》が 偽善ではないというのは その出発点のあり方の中に 好悪原則の無原則を 二重人格としてのように 裏でかこっていることがありえず その悪貨に対してなら――妥協も取引きもせず――つねに譲歩していることにある。《悪》とは 出発点の開始(出発点への誕生)とその持続過程・つまり人格・つまりそれとしての善の 破壊・欠如のことを言う。この限りで そもそも《悪》とは存在しないということである。人格なる善の欠陥・欠如として捉えられるのみとなる。
この出発点の《わたし》が 《〈好悪としての本音〉−〈建て前としての信頼〉》から成る二重構造となったり つまりは偽善原則を含んだ二重人格となったりするのは そのように善が曲げられ横に伸び 善から離れ 善がもはや欠如した状態であり 定義上 悪である。愛があらぬ方向へゆがめられつつ分散している。なぜ人は 善が欠如していき 悪となるか。時間的・相対的な存在だからである。原理としての生命と自由 この独善が大前提にあるゆえ その善は欠けていく つまりその信仰原理じたい 人間の経験的・相対的なものにとどまる。つまり無力である。わづかに想定じょう・表現じょう・それにもとづき主観真実の信仰じょう そこに善という言葉を用いうるほどに その同じ信仰原理が 有効である。
⑳ つまり この悪貨の状態に 人間は 自らなったのである。くりかえすならば 出発点にかんする大前提としての《自由》ゆえに。つまりその限りで 自らの自由意志で 善を歪め 減少させ 悪の状態に陥った。自由原理を自らの自由意志で歪める自由を持ち その自由意志をも――自由意志じたいによって――歪めることができた。しかも その自由意志ないし自由原理のかかわる《わたし》の出発点じたいは 損なわれていない。善ゆえに悪でありえている 自由原理ゆえにこれを歪めえていると思われるから。
(21) もし《存在》するのは良貨たる出発点の《わたし》のみだとすれば 悪貨は存在していない。存在しようとしていない。存在であろうとしていない。それが どうしようもなく好きだからか。嫌いでも どうしようもないと思ってか。もし好悪原則が多神教であって 多神教の思想内容は 出発点の人格を〔むしろ内面でではなく外に出て 社会的な心理関係を内容に持つ自らの表面において〕多重構造とすることだとすれば この多重人格としてのあり方にも 楽しみがあると思ってのゆえにか。人格の――悪貨としての――多面性こそが 人間の洗練された姿だと考えてのことか。けれども 悪貨が良貨を駆逐するのなら この多重人格こそが 社会的に実際じょう 有力な《存在》と見なされていく。善の欠如たる悪の姿が みづからを――出発点から離れて――無原則というほど自由に多様な側面のもとに持つにいたっているところには さまざまな慰めがあるのかもしれない。次々に目先が変えられていく。
この多神教としての好悪原則は 実際問題として 一筋縄ではいかないほど 有力である。差異の自由・対立の均衡そして自由な話し合いさえ 自由におこなわれ自由に実現しているかに見える。わづかに良貨・第三項・ヤハウェの腕のみは 自由でないように思われる。こちらのほうは 社会全体の秩序と繁栄のため 止むを得ず・涙を飲んで 犠牲になっていただくよりない と言っているのか・言っていないのか。
悪貨は それが悪貨である限り 出発点として無効である。誰もが出発点の人格でありうることにもとづき その愛のもとに社会的に この無効が実効性をもって 有力となったものである。良貨は 出発点において 無力だが 有効である。
(つづく→2005-04-21 - caguirofie050421)
補論 山折宗教学への批判
信仰と思想そして宗教 これらの間の区別を次の文章について応用してみよう。
(山折哲雄氏の発言)
ところが 明治以降はどうも 西欧の眼差しで日本の伝統宗教のやってきたことを見るようになりました。そういう認識の転換のようなものが とくに明治以降の知識人 指導者のあいだにおこったように思います。
そもそも宗教というのは あれかこれか という基準によって選択するものだという考えが主流をなすようになります。いずれかの宗教体系を 主体的に選ぶものなのだという ――そういうキリスト教的な考え方ですね。そういう態度を無批判に受け入れたわけです。
ところがそれに反して わが国の伝統的な信心の世界 つまり神も仏も信ずる生き方を あれもこれも という無原則的な信仰であるときめつけてしまったのではないでしょうか。西欧の宗教にたいして日本の伝統宗教をマイナスに評価してしまうことに それがつながったというわけです。
(日本とは何かということ―宗教・歴史・文明 p.34)
- 《宗教体系》について いづれか一つを選ぶにせよ あれもこれも採り入れるにせよ それは ただの経験思想の問題であるにすぎない。文明としての宗教ではあるかもしれないが 信仰ではなくなっている。体系のほうは もともと信仰の説明表現から出たものだったろうが。
- 《信仰》の次元では 確かに あれかこれかと 一つ正しいものを選ぶというわけにはいかない。互いにとって それぞれが 信仰の説明において そうとすれば誰も分からぬ正しい唯一のものの いくつかのちがった代理表現例を得ているにすぎないから。
- だからといって 宗教体系を あたかも信仰そのものとして こちらからも あちらからも 摂り容れることは 《無原則》であると言わざるを得ない。信仰そのものとしては いただけない。
- 思想哲学として受け容れているだけだというのなら まだしもである。だが そうだとすれば 《信心 つまり 神も仏も信ずる》というその行為は ただの信念であり 早く言えば 思い込みのことである。多神教という信仰はありえない。
- 第四十六章の補論:親鸞の絶対他力についても参照されたい。→2005-04-22 - caguirofie050422
補論の補論 日本人のあいだの《べたっとした同質感覚は 伝統的なものですらない》(橋爪大三郎)
橋爪大三郎氏が コミュニケーション以前の状態にある日本人のことについて 次のように述べている。必要最小限の部分を引用するかたちになるが。
島田裕巳(=対談者):・・・〔アメリカ人ならアメリカ人の原理原則を理解するまでつきあいなさいという〕橋爪さんの議論からすれば 宗教をもたなければいけない 信仰をもたなければいけないという話になるのですか。
橋爪:そんなことありませんよ。
〔信仰を〕もたないというのは もたないと覚悟するからもたなくていいんであって その場合でも 信仰をもっている人に対するリスペクトと 信仰をもつとはどういうことかについての理解がないとどうしようもない。
日米関係に話を戻せば 日本からみると アメリカは観音様みたいなもので よく理由はわからないが 自分たちのほうを向いていつも親切にしてくれている。こういう感じですね。それ以上の理由の分析をしないわけ。
・・・・・・・・・・・・
ナイーブなローカル・カルチャー(正直自然の感情・人情にもとづく共同体の共同観念など)は 一朝一夕に棄てられないんだから それは当面そのまま保存してやっていくしかないんですけれど それに対するメタレベル――これでいいのかという視点――をもつべきだと思う。それを記述する言語をもつ それに距離をおいて見る個人の視点をもつ。
それからこの べたっとした同質感覚は 日本に伝統的なものですらなくて 一九六〇年から七〇年以降にひどくなった わずかここ数十年の歴史ではないかという気がする。明治時代には 人びとのあいだに差異があるというのは きわめて当たり前だったし 大正頃でも 昭和初年もそうだったろうと思う。(pp.269−273)
- 作者: 橋爪大三郎,島田裕巳
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2002/09/13
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (6件) を見る
なお 日本人にとって《人びとのあいだに差異があるというのは 当たり前だった》こと・すなわちその意味で《差異を認め合うゆえにこそ 互いにコミュニケーションができる》こと これについては §45の補論としての〈メモ:昔の日本人(!!)〉=2005-04-22 - caguirofie050422を参照。