caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2006-11-18 - caguirofie061118

《信じる》と《考える》との関係

わたしたちは 《あの人・この人を 信じる》と表現することがある。これは おそらく 《信頼している》《信頼するに足る人物だと考える》の意で用いているものと思われる。なぜなら 《信じていた》その人が 欺き欺かれることはありうるからであり それは 思い込みでなければ すべて《考える》の経験的な過程に属している。
《政府を信じる / 国家を信じる / 会社を信じる》等々というときも 同様である。したがって固有には 《考える経験上のことがら》を超えたところのものを《信じる》であったのに 《人》とか《国家》とかを信じると言ったなら もしそれらに欺かれたとき その表現の――表現だけとしても その――強さから来る落差が大きくて もはや一時的には 考えることも何も出来ず 落胆し失望するという経験も 起こるわけである。
しかも 失望の底から わたしたちが起ち上がるのは そこに じっさい 考える余地がのこされていたからである。
このとき 《信じる》領域とは関係なくそうであると同時に あたかもこの《信じる》領域が存在していたと わたしたちは 見ることができる。《信じる》ことがらには まったく触れないで 議論することができると同時に ことばとしては《信じる》を出して使って議論することもできる。後者の行き方をいま採用しているのは テーマの性質によると同時に そうしたほうが わかりやすりと思うからである。つまり 説明としてわかりやすいと思われることには もはや《考える》以上のこと・すなわち《信じる》領域が あたかも あって これに照らしてのように まだ考える余地が残されていたと気づくと見るからだ。前者の行き方すなわち この信じる領域を信じない(考えても分からない)立ち場にあっても 説明のための表現こそ違え おなじである。
つまり 考えられなかったこと・考えてもわからなかったことが 考えてわかるようになった またあるいは そういうことが将来おこるであろうとまでは今 考えている といったように表現するのである。
これが 科学の大前提である。すなわち 《考える》ことの発端である。人間にこのことが共通であるなら 日常生活のあらゆる領域で 起こっている。科学は ただ 現代のわたしたちにとって 《信じる》領域を ことさら 言わなくなっただけであって これを 排除してしまったのではない。無視し排除してしまったなら 大前提を取り払ったことになり それは 非科学的な考えとなる。信じる領域は普遍的であるからと言って その立ち場の一辺倒であったり まして他人にもこの立ち場を採りなさい・つまり信じよと言うのであったりすれば これは 科学ないし近代市民が その非を指摘してきたことであり あるのだが 逆に同じくまた上の大前提を無視するなら この非科学的な信じる立ち場と 同じような欠陥を持つ。
ところが 大前提に立ったとするなら その上では 衣食住の生活が――これらを考えて生きることが―― 生活の基本的な内容であり 科学のほぼ全体である。衣食住というモノがではなく それらを考えて生きるコトが ほぼ生活の全体であり これらと別様の世界が 科学的に あるわけのものではない。経験的に あるわけのものではない。いわゆる精神の領域は――それが 考える能力と行為の領域であるから―― 衣食住のコトと切り離されているのではない。説明原理に 《信じる》領域を立てる大前提の上では そうである。
逆に 大前提じたいに注目して言いかえると これら衣食住のコトにかんする経験的な《考える》領域のほかに 《信じる》領域があって しかも この後者は 考えられない(考えても分からないと考えられる)領域なのであるから わづかに 前者の《考える》領域の全体としてのわれわれの精神をとおして もし触れるとするなら 考えつつ言い及ぶべきである。《考える》領域における理論(テオリ)に先行して 直観・観想(テオーリア)が《信じる》領域のものとして ないわけではなく 表現されてこなかったわけではない。
ここで《精神》ということが 言われうる。経験的な衣食住のコト・それらを考えることと そして 考えるを超えた領域との 橋渡しとしてである。橋渡しというのは 考える以上の領域がまったく存在しないとわかれば 必要なくなる。またその領域が存在していて そこに すっぽり包まれたとわかれば 同じくである。わかるまでは 想定・大前提として 必要である。

この無限なる空間の永遠の沈黙が 私を怖れしめる。
パスカルパンセ (中公文庫) 第三篇・206)

パスカルが語るとき 《空間 / 沈黙 / 私 / 怖れる》というのは 経験的なモノゴトであり 《無限 / 永遠》とは――それが 文字とか音声とかといった経験でないなら―― 《考えられない領域》に属す。また《考える領域》に影を落としていて 落としているから《無限》とか《永遠》とかの言葉をもって 《考える》場合がありうる。つまりしかも この文章を語ることは 経験的な出来事である。精神は 固有の意味の《信じる》領域ではないが だから この精神をとおしてわたしたちは 《考えられない領域》を考える(おもう)ことも あるわけである。

  • 精神をとおしてということも 大事であろう。精神においてではないのだ。閉じられたせ解ではないということ。

あらゆる《思い込み》が欺かれて 言うならばあらゆる偶像崇拝をしりぞけて そのあとにも 《考え得ない領域》が控えていて その存在を おもうことは ありうると思われる。
《無限》とか《永遠》とかという言葉に わたしたちは 欺かれることがある。《神の国》とか《神国》とかという言葉(経験じょうの表現)に 欺かれることがある。ただし 無限とか神とかの語は なおこの欺きを超えた一領域のことを 指し示そうとしたのであったろうから ともあれ 《信じる》領域のことである。

  • だから 神を 精神において捉えるのではない。精神をとおして受け容れるといったことが 信じるという経験行為だと考えられる。

この領域を《信じない(考えない)》立ち場の人は この文章を 《わたしたち人間に考えられない果てを持った空間の 限りなくつづく時間における沈黙が・・・》と言いかえることができる。精神が 《無限の空間 / 永遠》そのものなのではない。
したがって ここまでの結論の第一は 一方で 《信じる領域》の無限とか永遠とかを 思い込むとことの信から自由であることでなければならない。他方で 《考える領域》のみを思い込んで――精神主義をもって と言いかえることができる―― 信じるを排除してしまうことからも 自由であらねばならない これらである。後者を言いかえると 《考える》領域は それを超えた領域へ進みはしないが しかし 閉じられているのではなく まさに自由に開いているということだ。
信じる領域への思い込みは 欺かれることがあるし 考える領域にさえあれば 新しい真実の考えが発見されたときにも それは 欺かれたのではなく ただ 試行錯誤にしかすぎない その過程が科学だと言えるしするからといって これらの考える経験的な過程が――または 精神が―― すべてだと言い放ってしまうことは 非科学的だ。思い込みは 欺かれうる思い込みに過ぎなかったと考え また 新しい真実の発見は 科学的な試行錯誤の過程だと考えるのは 言ってみれば 限りのない時間領域の つまり信じる領域の むしろ関数なのであると考えられるのである。信じるが むしろ考えるに先行していると考えられる。
おそらく精神が 橋渡しの場である。この意味の精神なら 科学的に顕揚することができる。
考えるが信じるの関数であるというこの構造的な過程の全体は したがって 精神および質料(モノ)の世界として 経験的でもあれば 経験を超えた世界に――少なくとも精神をとおして経験的にも触れているから――属してもいるということだ。考えても分からないところで信じるが発生するのだから その逆(つまり 信じるが考えるの関数)だとは 言いがたい。言ったとしても その意味内容は それほど ちがわない。


そこで問題は 《考えられない領域》だのそれを《信じる》だのと言っても これは いま 人間のことばをもってする・つまり経験的な考える領域における 一つの発言だということにある。そのような 《信じる》と《考える》とのつながりに ある。それは 場・能力・行為としては 経験的であるところの精神である。この抽象的な一点が テーマであった。
おそらくこの問題は すなわち《考える》が《信じる》の関数であることから来る広く人間の問題は 信じる領域の探求にではなく ふたたび経験的に考える領域の把握に――または 総体的に捉えるなら 把握の仕方に―― その回答を見出していかなければならないであろう。信じる領域は われわれに 考えられないのだから。詮索しても始まらない領域なのだから。
言いかえると 《考える》領域の捉え方として 信じる領域をふくめた大前提を 議論していかなければならない。そういった精神の過程的なあり方である。これは 信じるが考えるの関数だという立ち場でも 同じように成り立つ。
もっとかんたんに言えば 思い込みに陥って 欺かれるということがないようにするためには どのように 考えていけば よいのか。同じことで言いかえて 何を信じるべきか。何を信じるべきでないか。または そのものを超えてもはや何も信じないと信じるそのことというときのことは 何なのか。それは 何でないか。そのものへ到達する考えとは――この構造過程の全体を自己のものとする精神の作業とは―― どういう過程か。これである。
だから このことは やはり大前提をそのまま言いかえたものであって ただちに結論を出すとか 出して論証するとかのために言うのではなく 人間が考えるときには 大前提をもっており もったなら 持ち続けることでなければならない。そういったことを 内容としていることに ほかならない。もっと身近な例で言いかえると 思い込みに陥らない考えであるためには 一般に これこれだと仮定するなら あれそれだと結論づけられるといった議論をもって しばしば 大前提を――わざと無視するのでなくとも 障壁(仮定のもつ障壁)をはさんで――離れること これを警戒すべきである。(→この一文は 次の段落に関連する議論がある。)
たとえば 価格は需要と供給との関数であると考えられている。これは いわゆる市場価格であって 経験的な行為の集積・それに対する考えの領域のものである。考えるが信じる(もしくは その逆でも)の関数であるところの構造過程的な全体つまり人間ないし自己 といった大前提に立つならば 一つに 社会的に需要と供給とがほどよく釣り合っていくかたちでの(そういうふうに解釈しなおしての)自然価格ということが 言われうる。
わたしの考えでは 大前提に立つならば そうではなく つまり経験領域そのものの市場価格に対して精神による合理的な自然価格を持ち出すよりも 価格を(だから 市場価格を) 《需要と供給との関数である》ことから脱け出させて 政治的・共同自治的に 意志的・意図的に 決定することがありうるという例を持ち出したほうがよいと思われる。計画経済では これによっているのであり むろん市場経済でも 経験されることである。どちらの場合でも 《価格が供給と需要との関数であるという仮定から みちびき出された結論としての経済学理論》に先行して 《そのような考える経験領域は信じるの関数であるという構造過程的な全体のすがたとしての人間》が存在するということを 証明しているものと思われる。
大前提には 信じるが含まれるが われわれは大前提を信じるのではないから 大前提の一色の社会主義計画経済が正解だという意味ではないけれど いわゆる経験法則というような考える領域そのものに立脚しきったいくつかの仮定・それにもとづく理論は しばしば 大前提を離れ去る(または逆に 部分的・一時的に それを離れずにそのまま発動させる)ということが生じる。
市場経済は 計画経済の関数だと言おうとするのではなく まず人間において 考えるは 信じるの関数であるから この大前提は 《考える / 経験行為の領域 / 経済法則》に 先行するか それの上位概念であるかである。そのあり方が 市場経済であったり計画経済であったりする。《見えない手に導かれて》というのは 信じる領域のことを――だから 経験的に言いかえれば 人間の精神(知解=考える と意志》による事後認識のことを――言っており ただしまた だからと言って そのまま 人間の精神といった見える手にすべて取って代わられるのではないことをも 同じく言っており 全体として言おうとするところは 《見える手》が《見えない手》の関数だということである。逆でもよいと思われる。大前提に立つなら 経験領域では・ないし経験的な表現としては 逆でもよいと思われる。
市場経済の あるいは計画経済の 要するに経験行為の領域における 必然的な力としての法則(法則としての力)は まったく強固で有力であるけれども 人間がこの必然の力にまったく服従することを余儀なくさているときにも 大前提は 有効である。だから考えるのであって さもなければ 考えることは そもそも ありえない。つまり ありうるのだが あっても 考えても それは ばかげている。飲めや歌えやと言っていたほうが 利口であり または 経験法則の間隙を縫い 自己の利益を追い求めて およぎまわるかである。《大前提》は まだ 有効であるけれども 必然的な経験法則の有力の前に ほとんど無力にされている。
(つづく→2006-11-22 - caguirofie061122)