caguirofie

哲学いろいろ

#3

もくじ→2006-11-18 - caguirofie061118

人間が《信じる》とは どういうことか(つづき)

けれども もし《信じる》ということばで じつは人間の経験的なおこないを表現するとき そのような経験も起こっているというのも さることながら ただし いや それは 単なる表現上の問題だと 反論することは可能なのであるから ――けれども――ここで 表現の問題で争わないとすれば やはりわたしたちは 《信じる》と確かに自分が語ったとき その《信》そのものは 心の眼で 見ているのである。この《信》の思念を見ることはできる。《信じないと信じる》ばあいも 同様であるはずだ。このことは 経験のうえで 起こっている。
《考える》と《考え》とは どちらも 固有の意味で 経験の世界に属している。《信じる》は――表現の問題で争わないなら また《思い込み》を別にするなら―― 経験外の世界に対してであって かつ その動作・過程じたいは 経験上の行為である。つまりわれわれは 考えても分からないというとき 信じるかどうかを別として 何らかの――《考える》を超えた――《信》 この《信》自体は 経験しているのである。いや 事は微妙であって われわれが経験科学に依拠して議論するときは この《信》自体も 大きくは 経験を超えているといわなければならないかも知れない。《信じるからこう主張する わたしはこう信じるからこれこれの理論を考える》というのは 自由であり ありうることだが その行き方は あまり力を持たない。いま言えることは――はじめの主題に沿って―― 《信じる信 あるいは 信じない信》が 経験的に 《おもい》として内に起こっているのを わたしたちは 見るということ ここまでである。
ここまでは 《考える》対象の範囲内である。そのあと このもし言ってみれば《信》が影を落としたとも言うような《おもい》は そこで――今度はそこで初めて―― 《思い込み》であるかも知れないし そうでないかも知れないというコトが 始まる。
だから 《信じる》とは 《思い込み》が欺かれたとき――すべての思い込みが もしなんなら 欺かれたとき―― なお内に残っている《おもい》をもって つまりその限りでの経験をもって 起こるコトガラであろう。起こっているはずのコトガラであろう。これを論理的によりいっそう正確に言うと すべての考えるの方途が断たれ すすまなくなったとき われわれは そこで 《考えない》とは 少なくとも積極的に言うべきではなく それは 《信じる》か《信じない》かのいづれかの言葉をもって とらえるべきである。
時を俟って 考え続けるばあいも 《信じた》ゆえであるかも知れないし 《信じない》ゆえであったかも知れない。(このどちらであるかも 経験的な《考える》行為では 決めかねることであって 《信じるか 信じないと信じるか》の領域にある。このゆえにも 信教・思想の自由は 公理なのであろう)。もはや考えるを止めるばあいも 二つの立ち場の理由が 論理的に ありうる。《分からない》という表現で対応する立ち場もあって このほうが 論理を超えて 一般的であるが それは――同じく論理を超えて―― 《わかったような考えを信じない》ということでもある。それは 二つの立ち場を 許容している。
つまり ここまで議論が来たなら 総括して積極的に こう言うことができる。われわれは 《経験上のことがらを考える》と同時に 《経験外のことがらを信じる》のだと。そのうえで――そのうえで―― 先の二つの立ち場が 従属する議論として 成り立ちうるのだと。
そして これは 《信じる》結果の――もしくは 従属的な議論においては 一つに 《信じないと信じる》やはりその結果の―― 考えなのである。(つまり どういうわけか 従属的な議論のほうの《二種の信つまり 信および不信というまとめて広い意味での信》の結果として 《考える》という問題が捉えられていることを表わしている)。
《人間は考える葦である》という一つの回答にかんして さらに問いかけた一つの回答として その内容は 以上のようだと思われる。そして これは 科学のはじめだと思われる。つまり要するに 日常生活のコミュニケーションの大前提だと言ってよい。再度いうが これは 考えである。つまり 経験的なできごとである。(近代市民ないし現代市民の科学が 《信じる(もしくは 信じないと信じる)》この領域について 一般に 触れないのは 触れないでおくという暗黙の前提に立っているからにすぎないと言うべきであろう)。
(つづく→2006-11-21 - caguirofie061121)