caguirofie

哲学いろいろ

#4

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅱ 《信仰》を導入するとき 必然的に 《主体》とその《自由意志》が 想定される

§7

いましばらくは 前提にかんする議論がつづきます。初めの想定内容を 表題のごとく あらかじめ展開しておきたいと思うのです。

それにしても このような信仰を導入して一体なんの得があるのか。――ひとことで答えるなら わたしたちのコミュニケーションにおいて 交通整理がより一層 容易に可能になり また実現すると思われます。
話し合いにおいて 不必要な無駄がなくなるでしょう。議論において――政治・経済的な活動を含めた広く社会関係の過程のなかで―― 無理な主張がそれとして 明らかになります。少なくとも無理な議論は無理なのだと すなわちたとえば 考えてもわからず 議論しても結着のつかない事柄をきみは持ち出して われわれに不自由を強いようとしているのではないかという指摘をすることができ そこまでは自由に可能となるでしょう。そのために《信じる》と《考える》とを区別するのです。
このような事柄をひととおり最後まで考察して 全体の議論を終えたいと思っています。

§8

ここでは 《信仰》の想定には必然的に その信仰の《主体》が存在し その《意志》は いっさいのものごとに関して 自由な選択をおこなうのだということが含まれる この点を考えておきたいと思います。
先行する信仰領域でこのことが想定され 一般に認められるなら(共同主観されるなら) とうぜん 《考える》という経験領域でも それが有効であり通用すると考えられます。また 経験合理性の領域の問題として 一般に表現の自由がかかげられ かつ 内面にもかかわって 信教・良心の自由がうたわれるということは ここでは 順序を逆にして またそのように順序を逆にしうる根拠として 先行領域の信仰とその基本内容を さらに想定してみるということになります。
すなわち 先行する信仰領域に《自由意志》の《主体》が存在すると 必然的に導かれるなら その内容は――それを経験思考でとらえるとすれば―― 信教・良心の自由そして表現の自由といった原則として みちびかれているのだと 考えることになります。
けれども この証明は かんたんだと思われます。信仰は 先行する非経験のはたらき(表現として 純粋欲望とかその掟とか)を受け容れるというからには その受け容れる主体が存在するのは 当然ですから。《内なる外》といった関係構造(かつ動態)は あくまで人間内面のことであり かつその内面は 一人ひとりの個人を その意味で独立の単位体としてこそ 存在するのですから この信仰の主体は とうぜん 人間個体でしかありえない。
また この信仰領域はあくまで想定であって それを認めないという一種の信仰形態も含まれるからには 主体が純粋欲望を受け容れる・受け容れないは これまた まったく自由である。あるいは 内面信仰のことがらは 経験思考によって 定め得ないということ これを 自由という表現で言いかえるに過ぎないとも言えます。
そうして それだけではなく 信じる・信じないといういづれかの或る種の内面行為もあるわけですから この純粋欲望の純粋受容は その非受容をも含めて その主体の意志の自由な選択のもとにある こう捉えておくことができる。いいかえると 大きく信仰という内面行為そのものが 主体において――別の捉え方では―― 自由意志として成り立っていると言えると思います。
あるいはかんたんには そもそも初めの想定と定義において 純粋欲望という第一段階およびその受容という第ニ段階といったふうに 二段構制にしたのは その信仰領域に 主体とその自由意志が存在すると そのまま想定していることでもあります。また このゆえに今村理論に 信仰を導入したのであります。
あるはさらに あらかじめ別のねらいとしては いま 《第三項排除》という視座が 一方で いまの・純粋欠如にかかわる信仰領域にあてはめられるとともに 他方では 具体的に供犠であるとかフェティシズム・また貨幣論といった経験領域の問題にも 適用されていることに かかわってのことです。そのときには 信じると考えるとの区分 また ここでの課題としての主体とその自由意志といった前提事項を介して 理解すべきだと あらかじめ 考えられるからです。
あらためて言えば 純粋欲望だけで議論をすすめていくと 《純粋欠如から到来する掟に従う》というように 限りなく純粋・非経験そのものの領域に近づけて説明し そのままのかたちになってしまいます。そこから 無意識のうちに・または無意志の形で 具体的な供犠なら供犠という社会経験へ つなげられていくかに思われます。
逆にそうではなく 信仰を 説明として介在させるならば この享受の掟に従うかどうか それについての主体の意志による自由な選択があると 想定することになります。従って かんたんにいえば 一方で 非経験の純粋欠如たる《排除された第三項》は そのまま人間にとって無条件にその存在の条件となっていると捉えることができるとともに それだけではなく 他方で 経験領域での たとえば供犠の儀礼における犠牲身体は なるほど犠牲となるべく《第三項として排除される》というにしても それはあくまで《考える》の問題であるとして・すなわちまったく人間の経験欲望の所産であるとして 両者を区別することができるようになるはずです。

  • 区別とは たとえば犠牲身体すなわち いけにえだとか あるいは身近な いじめだとか これらは 信仰そのものではないと言えます。つまり いじめが 無条件の行為・現象なのではないと 言っていけます。人間が 考えるを介して 行なっているというものです。

《第三項排除》は 信じると考えるとの両領域で捉えられているけれど たとえば前者における《隠れたる神》とそして後者における《犠牲身体》とは 明らかに互いに別の問題であると言えるはずです。経験を超えて想定される第三項と 経験領域のなかで たとえば社会関係から排除され それとして立てられる第三項(犠牲身体やフェティッシュや近代貨幣など)とは 互いの区別が 容易になると思われるのです。
仮りに 逆に言って 社会経験としての第三項(あらためてたとえば 犠牲身体が 供犠の儀礼を経るときに やがて ある種の聖なるものとして あたかも 非経験の隠れたる神としての第三項と同じだと見なされてしまうというようなそれ)と 非経験の信仰の第三項とが――それらは もはや当然の如く 互いに別であるのに―― あたかも互いに同一のものであり 少なくとも互いに同一の構制を持っているのだと 〔仮りに〕捉えられているとするなら それは いまここでの課題である《自由意志の主体》という一前提にかかわっているはずです。

  • わかりにくい言い方をしましたが たとえばイエス・キリストは 穢れた者としていけにえにされた そのあと 聖なる者として あがめられるようになった このような歴史経験は 《考える》の問題です。そういう宗教です。そういう第三項排除の問題です。
  • 非経験とのかかわりとしての信仰は まったく別の問題です。イエスにまつわる歴史事実じたいは 考えると信じるとのいづれの場合にとっても 共通のことでしょうけれど。

先行領域としての主体の自由意志によって 内外の(または先行・後行の)両領域の混同ということが ありうる。そのように錯綜したかたちで 捉えられることがありうるからこそ その限りで 第三項排除といった構制としての互いの類似性が あたかも 人間の経験思考にとっては 妥当であり合理的であり また社会一般にあたかも通用するようになるのだと言えるからです。

  • たとえば《第三項》 要するに これが排除されるのであるからには よそ者といった意味あいをも持ったこの項目は 考えると信じるの両方のばあいに あたかも共通のようです。

もしそう言えないとすれば――すなわち 逆に 人間主体の自由意志はまったく無であると言えるとすれば―― もはや先行条件たる純粋欲望は 人間を含めたこの世界のあらゆる領域にわたって 無条件に君臨していると言わなければならない。つまり 人間にとってこの世界では 非経験も経験も何もなく まったくなすがまま・なされるがままだと宣言して 出発することになる。つまり こんな宣言など 何の意味もないと さらに宣言することになるでしょう。
そこにおいて 排除された第三項としての犠牲身体にかんする《信仰=じつは思考》が 人間社会にはつきものであるということになっているでしょう。つまり信じると考えるとの区別は なんら無いということになっているはずです。
のちに 信じると考えるとの混同は わたしたちはそれを 無効と見ることになります。考えるの領域で――あくまで 考えることによってであるのに そこに―― 非経験の信仰対象として 観念の神や犠牲身体(その聖性という観念)を立てるなら これは 信仰と思考との混同であり その混同あるいは取り違えからして 無効であると主張することになります。
しかもこのような信じると考えるとの区別の違反たる無効が 上に見たように あたかも その構制にかんして 経験合理性にかなった共通性を持っており 従って 社会的に通用するというふうになるのは その無効が 実効性をもって有力になったのだと捉えます。既成事実の或る種の重みから 実効性を持つことがあります。そのことじたい じつは たとえ間違ってでも 主体の・特に信仰にかかわる自由意志にもとづくという限りにおいて その間違いである無効も 社会経験の上で 実行性を持ちうるのだと見ることになります。実効性を持った無効は 社会的に有力な現象とさえなりうるのだと。
このようなことも 社会一般の交通過程のなかで具体的に わたしたちの経験思考の内容を 個々に吟味し それぞれ整理するという一例だと考えます。
つづく→2006-02-04 - caguirofie060204