caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2006-11-18 - caguirofie061118

人間が《考える》とは どういうことか(つづき)

成果(考え)と過程(考える)との関係について 考える。
ややこしいことを言うと 言うなかれ。
たとえば このパスカルが述べるには

人間は一本の葦にすぎない。自然のうちでもっともか弱い存在である。だが それは 考える葦である。
かれを圧しつぶすには 全宇宙が武装する必要はない。一吹きの蒸気 一滴の水でも かれを殺すに十分である。しかし 宇宙がかれを圧し潰しても 人間はかれを殺すものよりなお高貴であるだろう。なぜかといえば かれは自分の死ぬことと 宇宙がかれを超えていることとを知っているが 宇宙はそれについて何も知らないからである。
(B.パスカルパンセ (中公文庫) 第六編・347)

これは ひとつの回答である。そしてなお このような回答と われわれが《考える》ということとの関係を ここでは 扱っていこうと思うのである。
これは 可能であり また 必要であり しかも かんたんなことである。《考え》と《考える》との関係 あるいは 問いと答えとさらにその答えと新しい問いとの関係 ということにもなるはずだ。
なぜならば わたしたちが息をするとき それは 地球上の空気の中においてということで ほぼ変わりはないのであるが 食べるというときには 何を・どのようにという点で いくらかは歴史の流れの中で大きな変化がもたらされたであろうといったように 《考える》ことも そうであって ある一定の提出された《考え》が 変化しないわけではない。
旧い考えがほろびて 新しい考えに移行するといったことを ここでは そのものとして言うのではなく 《考えたことの一定の成果》と《人間が考えること自体》との関係 これには つねに変化があると言わないまでも その関係じたいが じつは――人間が ひとつところに もしくは 一定の年齢で とどまってはいないゆえのように―― 動いているからである。
どういうことになるか
一滴の毒で人間は死ぬ。そのように宇宙とか自然とかのほうが 強い。人間がもっとも弱い存在であることに まだ 変わりはない。したがって 《人間は考える葦である》。依然として そうである。ところが この一つの《考え》と われわれがなお考える・生きるということとは 二つの別のことであって そこには 人間が時間的な存在であるゆえ とうぜん 関係の過程が 過程的な関係が 見出される。
この一つの具体的なテーマを ここで 取り扱おうと思う。

人間が《信じる》とは どういうことか

じつは パスカルが《人間は考える葦である》と言ったとき この《人間》は時間的な存在であるし その《考える》は――あたかも それが動詞であるからのように――やはり 過程的な行為であるのだから この一つの文章で 上に提出したテーマである《考えと考えるとの過程的な関係》ということは すでに言い得ている。
ということは この一つの内容が そもそも《人間が〈考える〉ということ》それ自体である。
ところが このテーマは じっさい わたしたちの生きるとき 肉の眼で もしくは 心の眼で それぞれ見たものにかんして 言われている。経験的なものごとについて わたしたちは《考える》わけである。
《人間》とか《葦》とかは 経験的に 肉の眼でわれわれが見たものである。《考える》ということばを聞くとき そこには 肉眼で見えるモノはないが 心の眼で 自己の行為をおもうとき そのように人間の内面的なおこないではあれ やはり同じく経験じょう見られることがらを 言っている。すなわち 水辺に生えている《葦》は 視覚の対象であり これは われわれの外にある。そしてじつは この一本の葦が 肉眼の視野から見えたときにも わたしたちは その記憶によって 記憶の倉庫にしまっておいたというようにして 心の眼は そのように内面的に この葦の視像を 捉えることができる。その意味で 外なる《葦》も また だれそれという《人間》も そうなると 内的に考えるときの視像(概念)としてのモノゴトになっている。
ところが 人間が か弱い存在で 一滴の水で 死ぬとも語られうる。そしてまだ 《死ぬ》とか《生まれる》とかは 自分自身にかんしては わからないとしても 他人のそのコトを われわれは見ており(見た人から聞いており) まだ 経験的なコトガラである。しかし 生前がどうであったか 死後の世界とは何かなどと 人は しばしば 考える。これは 今度は 経験的なできごとと 或る一点(時点)で つながっているとは言え 経験を超えたコトガラであると言わなければなるまい。
わたしたちは だから 死後の世界を信じるというのではない。そうでもない。ただし 信じるということばは 経験上のコトガラ以外のことにかんして 用いられるのである。
わたしの言いたいのは こうである。
《考える》のは およそ 経験的なモノゴトにかんしてであって おそらくさらに はじめは 肉眼で見た(耳で聞いた・身体で触れた・舌で味わった・鼻で嗅いだ)モノゴトをであるだろう。だから 前世とか来世とかを もし考えるとすれば それは 経験的に 生まれるとか死ぬとかそのコトを――外で――見た(聞いた)ことに発するのであろう。
したがって まず われわれは 死後の世界を《信じる》のではなく それがあるとか それはこうこうこうだとか人が語って聞かせるとき これも 信じるのではなく ああだこうだと その人が 《考える》のである。この考えた結果の《考え》と そしてなおわれわれが《考える》こととが 過程関係をむすんでいるのであることは すでに 了解済みとなるはずである。
ところが――上の《ところが》は ここからである―― 《生まれる・死ぬ》だの《モノがある・コトが起きる・そのモノゴトを考える》だのというとき われわれは この経験的なおこないを どこから・何によって 理解し判断しているのであろうか。われわれに 考える能力があることは わかっているが これは どこから来たのか。つまり われわれが考えることは 経験上のコトガラであるが 考える能力が なぜあるのかは そうではない。なぜなら 考える経験がおこなわれるから われわれは考えるのであり そのような能力が具わっているから これをわれわれは持っていると言うのは 自同律である。人間は人間であるから人間であると言うようなものであり じつは あのパスカルの《人間は考える葦である》という回答も 《考える存在》ということの自同律ではある。
したがって ここからは 二種の考えが 生じる。人間は考える存在であるのみであって そのほかに 経験できないことがらは もはやすべて考えないし 議論もしないという立ち場が ひとつ。ところが 第二の立ち場は ちょうど人間が 《信じる》ということばを持ったというように わたしたちは 《経験上のコトガラを考える》だけではなく 《経験しない世界を信じる》ことも あるというものである。
そして いまもし 第二の立ち場を 捨てないのだとすれば それは こういうことになる。《人間が考える葦である》とき 《目に見えない・肉の耳で聞かないうんぬんといったところの経験外の世界を信じる》ことにかんして それが 経験内の世界のできごとに 間接的に あらわれているのかどうか これを さらに考えていくという行き方である。なになにを――たとえば だから 神を――信じるというとき その信じるという行為じたいは 考えることの範囲に属さないのであるから かんたんに言うと 《信じる》おこないが 《考える》おこないの中に なんらかの仕方で現われていて 《考える葦である人間》に やはり 固有の経験――経験――であるのかどうか これである。
わたしは ここでは 結論を出さないのであるが これら二つの立ち場を取り上げてみることは 可能だと思うのである。パスカルも はじめに《信じる》おこないをもって そのあと《考える》ことをおこなったかとも 考えられるからである。《考える》という経験行為の範囲内でしかありえなかったとは 言い切れない。しかも この《考え》は――パスカルの考えも わたしたちの今おこなっている考えも―― 経験行為の範囲を 無理やりに出てしまったものではない。つまり 人間のことばは 経験的なことがらに属す。しかも 信じる行為が パスカルの考える行為の中に 影を落としているはずである。だから 言い切れるという第一の立ち場をとる人は 《人間が信じる》とは 《ただ思い込む》ことだ――《考えることを 或る時点で 打っちゃって 一つの成果としての考えを思い込む》ことだ――と規定しなければならない。
じっさい ところが われわれが《信じる》ということばを用いるとき はじめの定義から言って 《経験上のモノゴトにかんする一つの成果としての考えを》ではなかった。それは 《信じる》対象ではなかった。《信じる》を《思い込み》と規定した人は じつは《思い込み》を――つまり 経験的な一つの考えで 一般に柔軟性がないかまたは確証がないと思われるその考えを――《思い込み》と規定して明らかにしただけである。だから これに対して第二の立ち場の人は 思い込みから免れていれば 第一の立ち場の・《信じる》ことなどありえないというその人が じつは 《考えることを 経験的な世界の範囲の内に閉じ込めて それ以外のことは 考えない いや 信じない》と思い込んだのだと 反論しうる。
だから《信じない》というのは 《信じないと 信じる》ことである。《信じないと 考える》ことではなく 《信じないということを信じている》立ち場なのである。思い込みを免れて 考えるの領域を超えたコトガラに対しては 信じるか または 信じないと信じるか いづれか一つである。
だからと言って 《信じる》を主張する第二の立ち場が 一義的に 正解だということにはならない。それが 論証できたわけではない。二つの立ち場をまず みとめることが人間の考えるという行為の基本的な内容であるはずである。いわば一つの大前提である。
(つづく→2006-11-20 - caguirofie061120)