caguirofie

哲学いろいろ

#13

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第八章 むすび

前章の最後では 交換差額の獲得にうつつを抜かす人びと これを元手に もっぱらの借り手を従え 偉大なもっぱらの貸し手として君臨しようと その支配欲の熱心さに支配されて萌える人たち この重商主義の精神は もはやわたしたちにとって 対岸の火事となっていると言ったのである。
もっとも 空は対岸ともつながっているから 風にあおられその大気の影響を受けないではない。また 対岸の人であろうと どこの人であろうと 人間の誕生において 歴史の原点は 同一である。つまり かかわり(関係)はある。もちろん 橋もかけられているのであり 自由な隣人関係であり わたしたちは かれらの交通理論をならおうとは思わないけれど まじわり(交通)も開かれている。
よって すでに骨格制度として残った国家にもとづき それに憑依してのように 生き返った重商主義は だから 骸骨の亡霊となって 外に向かう。そのために 内に君臨しようとする。そのために やはり外に向かう。植民地主義帝国主義 軍国主義福祉国家主義 経済援助主義。かつ その少なくとも骨組みとして 自由と民主主義をかかげるようになっている。
超大国主義は どうか。もしアメリカ合衆国がそうであるなら しかも かのじょは 北アメリカ大陸の地で 国家を 枠組としても 持たないところから出発して そうなりえたことになる。もし かつてのソヴィエト社会主義共和国連邦がそうであったとしたなら かれは まったく 重商主義の産物としての国家制度を 殊に頭の中においても 否定しきったところから出発して そうなりえたことになる。
超大国主義も 重商主義の一種だとかんがえるとしたなら 重商主義一般(もしくは そのパン種)に 人びとは 左右されないとしても 影響されることがある。重商主義の伝染は きわめて強いちからのもとにあると言うことができる。もし 超大国主義は 重商主義の特異な一変種(あるいは 継子)だと考えるとしたなら アメリカやかつてのソ連の人びとは 昔からの重商主義一般の伝染にむしろ抵抗して――社会主義という一つの新しい交通理論を持った・持たないにかかわらず―― 超大国主義という国家の一変種形態を採ることができたということになる。
アメリカとソ連とは おそらく ともに 重商主義一般がみづからを現わしたところの現代国家とは どこか ちがうのであろう。 
アメリカは 少なくとも地理的に言って 国家から自由であったのであって むしろ 原点市民としての近代市民たちが およそその原点社会を自由にいとなんでいこうと考えるところから 出ている。その独立の年は アダム・スミス国富論が出版された年であった。(これは 単なる表現のあやである。)旧い重商主義に対抗するために 変則的な重商主義をも採ったということなのだろうか。(核をなくすための核? という防衛的な交通理論?)
このアメリカ方式の新しい交通社会が 社会主義というやはり新しい交通理論を 持たないだけではなく それに反対すると見るならば それはむしろ 世界史の新しい段階で 新しい交通理論として互いに兄弟であるその一方に対して しかも よそには旧い重商主義から続いている国家の存在するゆえに これらにも反抗するために 競いあっていたのであろうか。弟は もちろん ソ連方式の交通社会である。こちらは 自己の奉じる交通理論を 《社会》――原点市民社会?――主義と名づけただけではなく およそ旧い重商主義の交通理論を 排撃するまでのことを その精神としている。かのようだった。
現代の超大国は どちらも その精神は 交換の精神ではなく交通の精神であり 基本線としての自然価格=生活価値を 経験現実としても=つまり市場価格においても 実現させようとして 出発したのである。
こんなふうに見るなら 現代は あの近代市民の再出発の以降 相当の段階にまで至っていると考えなければならない。カサアゲ価格が ためにする上げ底価格であることに甘んじることができないようになっているし 少なくとも その方向へ歩み出したところの一時点・一精神の存在したことを 見てみなければならない。
けれども J.M.ケインズは 骨格として残った国家の枠組を――おおはばに――用いてだが 一つに 非機能的な資本家市民を――つまり 重商主義を社会制度としてのかたちにおいて相続する人びとを――攻撃した。世代を超えて・あるいは自己の 一世代において もっぱらの債権者である社会的な位置を相続して生きようとというあの上げ底人生を 攻撃した。骸骨の精神として生き延びる重商主義の亡霊に あらためて 死の宣告がくだされるかっこうとなった。
社会主義が 精神そのものにおいて 交通理論として・あたかも道徳的に やるところを 経済活動の分野でおこなおうとしたことになる。社会主義は アダム・スミスを飛び越えたわけである。道徳感情論を 国家として・社会の枠組として・その意味で外からやろうとしたことになる。むろん道徳感情論も 生活価値をあつかい 同感の原理という交通理論であった。そして ケインズがもし 労働者の賃金を減らさない・増やす方向を指し示したことになり やがて 社会福祉の政策もとられるようになったのだとしたなら そのように大筋で 資本主義としても 道徳感情論を 国家の骨格に埋め込んだわけである。こうして 非重商主義から出発したアメリカ 反重商主義から出発したソ連と 世界のいくつかの国家は 肩をならべることになっていった。
ミルは ある時 自分の精神史の一危機に見舞われて つぎのように考えたという。

こういう状態のときに私は 次のような問いをみずからに発して見ることに思いいたった。いわく 《かりにおまえの生涯の目的が全部実現されたと考えて見よ。おまえの待望する制度や思想の変革が全部 今この瞬間に完全に成就できたと考えて見よ。これはおまえにとって果たして大きな喜びであり幸福であろうか?》 その時 抵抗しがたい自意識がはっきりと答えた。《否!》と。
ミル自伝 (岩波文庫 白 116-8) 5.1873)

このミルの生活価値じょうの動揺は かれが 自分は《世界の改革者になろう》という《生涯の目的》の 心に生じることを或るとき捉え かれの考えでは かれ自身の幸福は 完全にこの目的と一致させねばならぬという交通理論にたどりついた。その結果の上のような反転である。

私はしばしばわれとわが胸に問うた。このような〔煩悶する〕状態で生きねばならぬものなら 果たして私は生きつづけ得ようか また私は生きつづけるべき義務があるだろうかと。そして私は 一年以上はとうていこの状態にはたえられないと答えるのが常であった。
(同上)

ここからのかれの《一段階前進》については――うつくしいことばで描かれていると思われ―― その《ミル自伝 (岩波文庫 白 116-8)》じたいにゆづりたい。交通理論一般の問題としては 《世界の改革者になる》のは 生活価値のふつうのいとなみに先行しない 先行しないで 結果として後に来るものだということ。もしくは別の言い方をすれば 改革の遂行は 自己の利益追求の形式にのっとりその範囲に限られると思われること これらを言い足すことができるかと考えられる。この点については しかし すでに触れた。
新しい つまり旧い原市民社会の 交通形式(形式は イデア つまり精神)をもって 《世界を改革しようとする》のが 重商主義の亡霊から自由な・少なくともそこから出発しこの亡霊に抗していく超大国という交通社会なのであろうか。
かく言うわたしたちの かたわらに もはやしかし対岸の火事のようにして ガリ勉の熱心さに燃える重商主義の原子炉が 棲息している。
こういう時代にさしかかったというのが わたしたちのこれまでの空想であった。
(おわり)