caguirofie

哲学いろいろ

#10

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第六章b まぼろしのゆうべ

ミルにも 政治経済学はあるが この交通理論の経済的な側面にかんしては かれから むしろ時代をさかのぼって アダム・スミスの所説を参照することができる。
必ずしも《干渉・暴虐からの保護》という観点からではなくて――なぜなら 重商主義精神の 交通一般に対する圧倒的な優勢という暴虐も 重商主義を保護しようとしてではなく 精神によるそれ自らの交通理論をさし示し じっさいの経済活動として これを行なっていったことの結果であったのだから そして 時に この社会的にカサアゲされて(そこでは 価値に 交換価値が生じる) のびて行ったその優勢な交通形式の保守は たしかに すでに普通の市民の交通関係に 干渉しだすとは言え―― 原点社会の基本線にもとづいて その自由ゆえに むしろ自己の利益を追求していく形 これによって自己の交通形式を さらに理論し実践していくという観点から スミスはこの時代の近代市民の考え方を代弁していった。よく引かれるように

われわれが自分たちの食事をとるのは 肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく

  • 自己の同一性保持の観念そのものによる道徳心=交通規則的な倫理によるのではなく 

かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。

  • ただし そのような倫理をとおしてである。

われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情にたいしてではなく かれらの自愛心 self-love にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要についてではなく かれらの利益についてである。

  • と言っても 自愛心も 自己の愛つまり自己の同一性保持のおもいであるゆえ 民主的で自由な交通関係は すでに大前提として 言われ終わっている。とすると 《交換の相手にかれらの利益について》ことさら語る必要もないようになるが すでに ふつうの使用(消費)価値=《必要》のほかに それがカサアゲされた形の交換価値も 交通しあう精神のあいだに 流通しているのであるから その限りで 語ってもよい。語ることを含んでもよい。

同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは 乞食をおいてほかにはいない。乞食ですら それにすっかりたよることはしない。・・・かれがそのつど必要とするものの大部分は 他の人たちの場合と同じく 合意により

  • 民主自由主体である同じ市民どうしとしての同意により

交易により

  • だから 交換により

購買により 充足されるのである。かれは ある人がくれる貨幣で食物を買う。かれは 別の人が恵んでくれる古着を もっとよく自分にあう古着と交換したり または必要におうじて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。
国富論 (1) (中公文庫) 1・2)

言いかえると やはり民主自由社会が その原点市民の交通および交換を――基本線の形式として――約束していたのであり 福祉というのは その最小限度の必要量の問題として 貸し借り関係のなかで もっぱらの借り手にならざるを得なかった市民たちとともに わたしたちは この社会を生きるということにほかならない。すでに 表現としてはスミスも言うように《乞食ですら》 そのように生きている。これが まず 第一点である。この大前提は もちろん ミルの自由論にも 敷かれている。
ただ 分業社会で 商業主義のガリ勉が起こり これを容れて これが流通したかたちとなると 生産物の価値は 交換価値をもその中に生じさせる。交換の差額(価値)は 以前にも 人びとの人間的な(人間存在の全体的な)交通関係の中で そのような貸し借り関係(モノの価値の利益とか損失とかにまつわる信用なり恩義なりといった関係)であったものが ちょうどこの精神的な貸し(つまり借り)の価額部分が モノの価値じたいに 入り込む。もしくは 付着するようになる。その部分が 狭義の交換価値であり 全体は 広義の交換価値である。
恩義関係が モノとして測られ 数量化し また貨幣的な評価の対象となる。あるいは 貨幣じたいとなる。精神の交通を モノの交換と倒錯させて捉え やがて制度として この倒錯した交通理論が 圧倒的なかたちで流通したから。しかし 倒錯は 基本的に 精神によっている。人びとは 不承不承にでも これに同意している。不本意だと言わなければならないだろう。《悪貨が良貨を駆逐したところの 多数者の暴虐》?
その前にすでに 原市民社会の生活・交通の関係があったのだから 福祉は 交換価値(その流通)に譲歩しつつも 互いに対等な市民どうしのあいだにおいて 貸し借り関係として おこなうよりほかない。交換価値の余剰を もっぱらの借り手となった市民に 博愛心から まわすのではない。自己の利益を追求するなかで 互いの自由な同意によって おこなうのである。
たしかに 《われわれは かれらの・あるいはわれわれの 博愛的な感情に対してではなく その自愛心に対して 呼びかけあう》のである。くどく言えば この自愛心は 対等・民主・自由の等位交通を 原点において 大前提としている。
交換価値(またその貨幣的な価額)の圧倒的に優勢となった交通形式をもつ商業社会でも おなじことなのであり しかも 交換主義・商業主義の交通理論は じつに《精神の交換》――つまり じっさいにはそうではないのに もっぱらの借り手は 自分たちつまり交換主義者たちの博愛心にたよっているであろうと わざわざ思いやって その仮想した精神を 自らの精神としてのように まぼろしの《交換》をしようとしていること――によって 福祉を 自分たちの交換価値の蓄積の中から 余剰をいさぎよく出すこととして おこなう。
国家を介した国家の手による福祉が これであり わたしたちも 国家という制度(骨格)の中にいる限り これに加担している。つまり 影響をまぬがれていない。
さらにくどいように言うと 歴史の原点を大前提として 問題は おのおのその民主自由主体である市民の 主観にある。生活・交通・交換にかんする主観が すべてに 先行している。交換価値の圧倒的に優勢な商業主義社会では 主観は ほとんど何のちからも持っていないと見られるのだが このばあいも こう見るところの主観が――原点・基本線として――先行している。
もしも 重商主義の精神が わたしたちの敵であるとするなら この主観ということを言わないでは 何も始まらないと思われた。重商主義精神は 主観に発するのであるから。そして もし この同じ主観の問題としてでありつつ 特定の具体的な交換行為における主観を超えて 歴史とか社会とかを問題にしうるとするならば それは 国家という社会形態にかんしてであって 倫理とか法律とかといった交通規則の領域を措くとすれば この国家という交通体系の問題のみだというふうに考えられるのである。これが 一方で ミルの 自由についての自己防衛の問題である。他方では スミスの 自由な経済活動としての自己の利益の追求の問題だと考えられる。
重商主義精神は 外形的のみにしろ このような大枠の交通理論とその普及のなかに 棲息していると思われる。
前章の結論をうけて この章では わたしたちは 何も述べなかったことに等しいが だまっていたわけではない。
(つづく→2006-11-13 - caguirofie061113)