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もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103
第六章a まぼろしのゆうべ
《多数者の暴虐は》と切り出して J.S.ミルが いわゆる近代市民のひとりとして 論じるところを聴くことにしよう。括弧内は 引用者の注釈である。
多数者の暴虐は 他のもろもろの暴虐と同様に 最初は 主として官憲(アマアガリ市民 つまり 公民 もしくは もっぱらの公民)を通じて行なわれるものとして恐れられたし 今でも通俗にはそうである。
しかしながら 考えの深い人々は 社会みずからが暴虐であるときには ――社会を構成している個々人の上に 集団としての社会(アマガケル公民の世界)が君臨しているときには ――暴虐遂行の手段は 社会がその政治上の公務員の手によって行ないうる行為のみには限られていない ということを覚知した。
社会は自己の命令をみずから執行することができ また実際に執行しているのである。そして もしも社会が 正しい命令を発せずに 誤った命令を発し またいやしくも社会の干渉してはならない事項について命令を発するならば 社会は さまざまな政治的圧制よりもさらに恐るべき社会的暴虐を遂行することになる。
(自由論 (岩波文庫)・1。1859)
- 作者: J.S.ミル,John Stuart Mill,塩尻公明,木村健康
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971/10/16
- メディア: 文庫
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これの言うところは――わたしたちの言葉で行くならば―― もしも重商主義が悪であるとしたならこの重商主義 あるいはもしも 重商主義は自由市民の一つの交通理論であるにすぎず もう一段階 先の《重商主義のむさぼり》 これが悪だとしたならこれ といった一般に 《多数者の暴虐》として現われる悪は かんたんに言って 《権力》から来るものではない そうとは限らない と言ったのである。
すなわち 暴虐は 精神の所産だと言ったのである。前章に取り上げた 国家の再編成ということが もし一つの問題であるとするなら それは こういった点に かかわっている。つづけてミルが述べるには
なぜならば 社会的暴虐は 必ずしも政治的圧制のような極端な刑罰によって支持されてはいないけれど
- つまり いま 超重商主義的な交換利益主義という社会的暴虐は それへと わたしたちが やむなく入り込ませられるとしても 政治的権力によって それを強制されてではない のではある だけれども
はるかに深く生活の細部にまで浸透し 霊魂(精神)そのものを奴隷化するものであって
- なぜなら 重商主義なる亡霊の精神が わたしたちに精神の交換を もうし出る いな 裏口のすき間から かんたんに にじり寄り入って来るゆえ どれいの自由を味わわせる恰好となるのであって
これを逃がれる方法はむしろ より少なくなるからである。
(自由論 (岩波文庫)・1)
最後の《精神の奴隷化(もっぱらの債務者となること)を逃れる方法はむしろ より少なくなる》というのは 一つにやはり あの原点社会の基本線を 底流としてでも 保ちながら しかももう一つに 《精神の交換》が人間の精神によっておこなわれるのである限り わたしたちは 自由な生活関係の中で これとやはり自由に接することまでは おこなう。だから 両者を合わせて 第一点において わたしたちは 《交換主義の精神》によって左右されはしないけれど 第二点において その影響を 十分もしくは九分九厘 うけざるを得ない。
言いかえると 《精神の交換》――《いいじゃないか おれとおまえの仲じゃないか。まあままあまあ・・・》――をまったく遠ざけることはできないが これを回避することができる。回避してゆくことができる。と言ったのである。
もす少し ミルの所説を聞いてみよう。
それ故に 官憲の圧制に対する保護だけでは充分ではない。優勢な意見と感情との暴虐
- 重商主義という意見と感情が 世の中に 流通したところの そのむしろ 精神的な 世論や慣習としての圧制〔の部分〕
に対してもまた 同様に保護を必要とするのである。・・・個人の独立
- すなわち 原点社会における自己の同一性の 独立的かつ相互依存的な保守
に対立する集団的な意見の合法的干渉には 一つの限界がある。・・・
しかしながら・・・その限界をどこに置くべきであるか――個人の独立と社会による統制との間の適切な調整をどのように行なうべきであるか――という実際問題は ほとんど何もかもこれからやらなければならない未解決の問題のままになっている。
- 長い引用で恐縮であるが つづけて――
この論文の目的は 用いられる手段が法律上の刑罰というかたち
- 《むさぼるなかれ》という一交通規則への違反に対する処罰
の物理的な力であるか あるいは世論の精神的強制であるかいなかにかかわらず
- すなわち 後者の精神的強制とは ムラハチブといった共同体からの追放をさえ伴なうかも知れないもので そうであるか否かにかかわらず
およそ社会が強制や統制のかたちで個人と関係するしかたを絶対的に支配する資格のあるものとして一つの極めて単純な原理を主張することにある。その原理
- わたしたちの歴史の原点の内容としての原理
とは 人類がその成員のいずれか一人の行動の自由に 個人的にせよ集団的にせよ 干渉することが むしろ正当な根拠をもつとされる唯一の目的は 自己防衛( self-protection )であるというにある。
(自由論 (岩波文庫)・1)
《自己防衛 self-protection 》とは 自己の保護のことであり それは ほかならぬ自己の同一性の保持 の共同体の場における擁護でもあるから ふたたび 議論は循環したもののようであるが このミルの所説は じっさいもんだいとして 《自由について ON LIBERTY 》のべるときは いかなる固定的な《自由論――つまり 交通理論としてである――》からも わたしたちが自由でなければならないことを おしえている。
その必要最低限のこととしては おそらく緊急避難・正当防衛の問題として言っているであろうし 抽象的に一般化すれば 人間の誕生原点である自己の同一性の保持は きわめて・そしてあくまで 主観的な生活行為にかかわっているということ すなわち――次のように言っても どうしようもないと見られるほどでありつつも―― たとえば 交換における利潤の問題も その当事者の主観の相互関係が 基本なのだということにあると思われる。
それは わたしたちの言葉で 《精神の交換》という 相互主観的・その具体的な場としての 交通行為が問題なのだという線につながり この同じ線は おそらく重商主義者が持つにいたったその権力に対して 法律的に・また倫理的に――その意味で 客観的・集団的に―― 批判したりして実践したりするというよりも(それは むろん 必要だが) 具体的な交換当事者の自己原点への復帰という主観的な問題が 先行するはずなのであり これには ただし いまの社会形態としての国家の制度 これをいじることが出来るし また いじることによって対処することが出来るという議論につながっているのだと思う。国家の成立は 人間の問題 その交通理論・それによる債権債務の関係の問題 つまり一人ひとり市民の主観的な生活過程にかかわっていたから。
ミルにも 政治経済学はあるが この交通理論の経済的な側面にかんしては かれから むしろ時代をさかのぼって アダム・スミスの所説を参照することができる。
(つづく→2006-11-12 - caguirofie061112)