caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第三章b しののめの雲

重商主義というのは 交換の差額を 自己に有利なものにしようとして動くのが 基本的な考え方であり したがってそれは 交換すべきモノの生産(ないし生産者)を第一に重視するのであり――このこと自体は 経済力ということと かさなるわけなのだが しかも―― 市長への適格者の評価基準を 経済力に求めるということだけではなく 人びとの一般的な交通形式じたいを すべからく 商業力(そのゆえに経済生産力への支配力)に従属させよという考え方である。商業社会を 商業主義社会へ変革せよというのが その人の精神なのである。
《精神》という点で 民主自由社会の住人たる市民の原点を 逸脱するものではない。少なくとも それを踏みにじるものなのではない。だから たといその後 ひとりの重商主義論者が 市長になったとしても それは ともかく 《商業主義社会》の世論にのっとり 自由に民主的にえらばれた結果だということに なんのくるいもない。
人びとの交通(まじわり・つきあいの生活一般)の知恵を モノの交換を自己に有利にはこぶその知恵(とうぜんそれは 精神のちからである)に従わせるという考え方。交換の知恵ゆえに 生産のちからを高めよ そしてさらに これが高められず 生産物の品質がたといまずくとも 交換を有利にみちびけ この知恵が 人びとの交通関係の王者なのだという思想。
単純だが これは 精神の産物なのであり 《わたし》の精神が 本来 自己として自由で 関係として民主的でえあるとするなら――あるのだから―― この交通形式の思想を語ることは また その人じしんそう実行することは そこまでは 自由である。この自由は 人びとの分業形態への同意の内容にふくまれていた。
これに 経済力が――単純には 生産への勤勉が――からまる。つまりこれは 精神のあとに来る。そして 交換にあたっての商業力が 類型的に(つまり モノの交換の形式が 人格の交通の形式へと類型的に ひろげられて把捉され) 政治力となるのは そう遠いことではない。それは 原点からの第二次の発進であり また 明らかに 原点の中の内容が倒錯されていると考えられるが 推理として そのような政治力が発生すると見るのは そう遠いことではない。時に 詐欺力が そこに あずかったかも知れない。しかもこの場合は――さらに 武力がついたとしても この武力も――みな 付随的な要因なのである。
単純だが(われわれのこのような捉え方は 単純だが) 重商主義の考え方は 起こりうる。自由とか知恵とか民主社会とかいう基本線は それが商業社会であるからには 重商主義への《跳躍》は むしろほんの一歩であり それまでの交通ルール(たとえば 《盗むなかれ》)も そのことを規定していなかったか あるいは規定していたと(つまりたとえば 《むさぼるなかれ》)すれば そうだとしても 民主自由社会は ルールが 人びとの交通を整理するときの決まりではあっても・だから その違反に対して処罰がたしかに課されたとしても 交通を制約する(絶対的に統制する)ためのものではなく ことに精神(つまり交通形式の考え方)の問題としては すべて 自由な討議と合意に ゆだねられている。
どこまでから 《むさぼり》であるか・つまり規定の違反であるかは 自由な議論に求められる。あるいはまた 一般に《わたし》の利益を追求することは 少なくとも交通規則にのっとるなら 自由であり 規則違反すなわち 自己の利益追求のむさぼりだという訴えが出されたとしても その重商主義というむさぼり行為ですら 交換および交通の相手の自由な同意を得ているという限りでは それほど容易に批難もしがたく どこまでも処罰にあたいすると見るかも きめがたい。
しかも おそらく この重商主義思想家は わかりやすくいうと まず既定事実をつくってしまえ――そうすれば 世論がついてくる――と考え 実行このかた むさぼったかも知れない。


じつは 重商主義の精神は モノの交換における有利さの獲得だけにとどまらず 人との交通関係つまり精神的なまじわりの面でも おおいにその力を発揮する。ふつうの人は モノの生産・交換・消費つまりまとめて交通には その第一次的な基盤が自己意識の関係であったからには とうぜん 精神的なこのつきあいの面を 持っているし 言うとすれば 重んじる用意がいつでもある。つきあいが大事だという。重商主義者も もちろん そうなのである。
そうでないところの 交通と交換とのただの倒錯 つまり経済力などの唯だの一辺倒 これは 容易にほろびさる。また ほろびさらない時でも 話し合いをとおして 容易に ゆるしあえるし 話し合いが時に決裂しても ゆるすことは 比較的たやすい相談である。ところが 重商主義者は 精神の人である。この精神のなかで――どんな想像行為によってか それをわれわれが推理し想像するのに それほど困難はない その想像力によって―― 交通を制し そこに 交換を 自分のために おおいに打ち出す。精神的な交通を制し モノの交換をすすめる。そしてそのためには じつは おどろくなかれ――そして われわれが おどろかないとしても 容易にゆるしがたい恰好で―― かれは 精神の交換を申し出るのである。精神の交換 と言ったのだ。
はじめに 精神的な交通を制するといったその内容は 精神がまず一歩ゆづる もしくは その人にとっては同じことなのだが 自分自身 身体(または実際のモノ)を離れて――あたかも 潔白だと言わんばかりに―― 空気のような身体となる すなわち 精神の亡霊 亡霊の精神となる ことだ。つまり この亡霊の精神力となることによって はじめに 精神的な交通を制するということが 起こるのだ。これは 重商主義の交通理論 いな 《実践》の基本的な手口である。
それは 《精神の交換》なのだ。それは 亡霊となってその精神を 相手の精神と交換しているから ただしこの交換をおこなう自己は すなわち精神の殻は 自己のもとに残っているから あとは 実際のモノの交換として 相手が自分の申し出に うんと言うまで ねばることができるのである。かれらは 《勤勉》である。つまり むさぼりとしては ガリ勉である。
かれの精神は いな かれの人格が 容易に――あたかも容易に―― われわれの精神のなかに入って来る。もしくは かれのまぼろしの精神で われわれの精神や自由意志を覆う。われわれは 《いや》とは言えないとしても 《出て行け》と言わなければならない。目潰し 催眠術 子守り歌 おどしと同時に こびへつらい という重商主義精神の手口に対して。
この手口は 亡霊の 電波・磁力・放射線である。われわれは この手口を われわれの内なる眼すなわち心の眼で見なければならない。と言っても 電磁力・放射線というからには 物理学的な現象である。
国家の出現のなぞとして まず 重商主義的な市民の出現――かれも自由な人間である――そしてその重商主義という思想の《発達》とやり口とを取り上げた。
(つづく→2006-11-07 - caguirofie061107)