caguirofie

哲学いろいろ

#6

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第四章b 真昼のまぼろし

重商主義的な市民が かれの属する一共同体を制覇し これを従えて 他の共同体をおそい やがて 国家の大市長として君臨するまでに 《利潤》の問題を考察しておきたい。
市民社会に 利潤は あった。分業形態の商業社会である以上 交換行為において 一方の有利・したがって他方の不利は 発生しえた。一方の利潤の獲得は 他方の同じだけの損失である。
これらはまず のちに貨幣が用いられるようになり したがってその貨幣的な評価によって 明確に数値で 交換差額が割り出されるようになったばあいでも じつは この利潤は 主観的なものである。基本的に利潤は 互いに自由な同意の成立を前提する民主的な(つまり相互の人格の交通する)交換行為の結果としてある。この主観的なかたちの利潤つまり損失は だから明確な貨幣数値によって評価されたばあいにも ふつうに言うつきあいでの貸しと借りの関係 つまり 人間的な交通関係の過程のことにほかならない。借りが出来たとか 恩義を感じるとか あるいは 信用とか言う場合のそれである。
主観的な・つまりとうぜん 互いに自由な市民主体であるその人間的な 借りを 相手である人間的な貸し手に まったくふつうに 返すことになる。貨幣価額は もちろん無視できないと同時に 問題の中心ではない。人間関係における貸し借り そのモノの側面から言って 貨幣評価的な利潤と損失 これらは ごく自然に 自由な市民たちの民主的な交通過程の中で おこなわれ とどこおりなく すすめられてゆく。
こう考えるならば ここに 《利潤の獲得と蓄積こそが わが人生だ》という人間が あらわれるというにすぎない。しかも この重商主義者があらわれたなら かれは 勤勉であり 人一倍そうであるかも知れず かれには 貸し・貸し・貸し・またまた貸しという人生があらわれ 他方の人たちとのそういう関係過程があらわれ これらは 自由な民主社会のルールにのっとって出現したものだということになる。
こうなれば やがて重商主義思想家は もっぱらの貸し手となってあらわれ その他方で もっぱらの借り手たる市民も出て来るだろう。これらの交通関係が 分業社会の全体に 交換過程の制度的にも《普及》していくなら そこで 重商主義者たちは いわゆる原始的蓄積を完了したわけである。大筋ではやはり 精神の 人間的な貸し借り関係のそれとして。
人びとが一人ひとり自由な主体である民主社会において――市長職の簒奪者による一時的な例のばあいを除いて―― もっぱらの貸し手なる主人とそれに仕えなければならないもっぱらの借り手となった従属人との主従関係があらわれる。民主社会において 民主社会ゆえに これが起こったのであり 借り手である従者も 自由で民主的な市民であるがゆえに 借りを何の言われもなく帳消しにされようとは願わないし 誰かのほどこしによって借りを返そうとも 基本的には 思わない。
しかも この主従関係は ますます定着し――そういう趨勢をたどり―― 一般の自由な交通関係の中に ひとつの・あるいはすでに支配的な 位置を占めた。
ここで なお依然として 原市民社会は 有効である。歴史の原点は おのおの市民主体に まったく 生きているゆえに 主人となった重商主義者に対して 人びとは ゆづらなければならない。主人に仕えるようになった従者たちといえども 自由市民であり 主人たる重商主義者が かれら従者たちを従えて 数はちからなりと言って来たなら――田中角栄重商主義者であるかどうかまだ 分析していない 一般にそのうたがいが持たれている けれども そう言ってきたなら―― 一般に人びとは まったく正当にも 譲歩する。ここに 一点の曇りもない。
つまり ちなみに 直接的な事態として その新潟の選挙区民たる人びとは 正当にも かつ自由な意志において――言われているようであるなら――自分たちの借りをお返ししなければならないし その意見を表明してもいる。ここに つまり 原市民社会は 有効であり すこやかである。
かくして 原市民の分業社会は 重商主義思想の色濃く影を落す・しかも健全な民主社会の基本線として歩まれる 商業主義市民社会へ 移行する。利潤(ないし貸し)が蓄積されたなら その増殖のおこなわれる社会であり やがて 重商主義の偉大な貸し手たる市民が 市長として 自由に――譲歩としてでも自由に――えらばれ その政治をとりしきるであろう。
この一つの共同体が 他の共同体との交通過程において 貸し借りの関係を 定着させていくことは ありうる。武力(その一辺倒の政策)で征服したばあいは 別なのである。つまりその場合は 市民社会の原点として 有効でない。無効であるなら 遅かれ早かれ その武力政治は くつがえされるであろう。定着した貸し借り関係を 武力で――そして基礎としての経済力で――ささえ守るということは ありうる。この武力が第二次の手段としてはたらく共同体の貸し借り関係は 少なくともあの基本線の有効性をうしなったものだとは言えない。
ここで 諸共同体を 貸し借りの交通関係のもとに置くもっぱらの偉大な貸し手が それらの統一である大分業形態社会を 国家とし 自己をその首長であると宣言するまでにいたると見るのは それほど困難なことではない。市民社会原点の基本線と 原点を逸れたのではないかと疑われる重商主義路線とは 同じその民主社会の中で 互いに入り組んでいる。
当面の課題である国家という社会形態の時代にまで たどりついたわけである。
(つづく→2006-11-09 - caguirofie061109)