caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2006-11-03 - caguirofie061103

第四章a 真昼のまぼろし

分業形態・商業社会としての市民社会において むしろ歴史の原点を知ることによって 商業主義・商業第一主義の市民があらわれる。かれらは 《人間の誕生》にあずかった市民である。と同時に 《人間は商人である》というわけであり 交換の差額を――つまり利潤(これについて この章で考えよう)を――得る知恵が 人間の精神のはたらきであり 言わば甲斐性であり ちからであると考える。人間の交通関係の中心が ここにあると理論したわけだ。
かれらは 市民であることに変わりない。自由な原点としての人間であることに 変わりない。
かれらは この分業の社会的な水路の中で 言わば我が田に水を有利に引き込む術に長けた。それは ただ ぬすむのではない。物質としての水の多い少ないは はっきりわかる。だから そのむさぼり行為は――いま農耕社会の場合ということになるが―― しかるべく処置されるであろう。精神的な作用としての我田引水は どこまでが 規則に従うもので どこからが その侵犯であるか 容易に他人が決め難いし――つまり 自分自身は およそはっきりわかっている―― 決めてその判断をのべるにしても・つまり規則違反を指摘するにしても それにもとづく 人間による人間の管理は 最終的な交通の基準において実行することは無理である。馬を水飲み場までつれて行くことは出来ても 水を飲ませることは出来ない。
もっぱら商人である市民 かれらは この分業的な商業社会の中で 精神的な交通を決してないがしろにせず――つまり むしろ商業主義ゆえに 礼儀ただしくさえなる―― しかも 或る種の仕方で――つまりそれは 人間の想像力による 言いかえると これがなお 人間の精神のなせるわざである その種の仕方で―― 自己の精神をすでに死なしめ 幽霊となって生きていることによって すなわちこの魔術によって 第一義的に モノの交換を自分に有利にはこぶ。一回一回の交換に 有利・不利はあるであろうが 総じて まさしく利潤の蓄積・増殖のために 分業水路の中を泳ぐ。幽霊というのは 精神のすべてのはたらきを 交換行為にそそぐという精神である。生産と消費との足がないからである。われわれは この幽霊の精神の死からの復活を(自己への再到来を)ねがうことが出来るが そうさせることは出来ないし 最終的な条件(つまり復活)においてかれを管理することは出来ない。
市民社会において この商業主義的な市民が その思想と実行においてこれを貫徹する人間が あらわれた。
この重商主義者が 商業帝国主義者へと とどのつまりは 《発展》するとわれわれは 単純にまさしく 言おうといている。だが 歴史には紆余曲折があるし 栄枯盛衰があるとつけくわえることによって その後の歴史において そうだと言おうとしている。だから当面 やがてかれらは 一共同体を制し――つまり かれらの思想が 人びとの精神への影響をとおして 勝ち誇ってのように 流通し―― 他の共同体を合わせて 国家をきづく。だから この国家にも 社会形態の内容として 紆余曲折・栄枯盛衰があるだろうということによって この過程をとおって 遠くは(現代から見て近くは) 近代以降の 資本主義 の旧い重商主義への傾斜 ゆえの帝国主義へと そしてさらには
まさしくかれらのやり口である《精神の交換》という見えない旗印のもとに 現代の福祉国家(国家的な社会保障の時代)にまで到るというのが わたしたちの主張の一つの骨格である。わたしたちの邪推であり わたしたちの自由な討議の課題である。
もちろん 邪推でないことの証明につとめよう。
《精神の交換》――かれらは すでに 精神そして なかんづく 身体の 交通をもはや 為しえなくなっている幽霊として生きている――のゆえに 現代の重商主義者は 福祉をかかげ おおいにこれを実行する。モノの交換――しかも精神の交換 しかも幽霊となっての精神と相手の精神との取り替えばや しかもつまり 精神的な相互の無限抱擁である――の差額(だから これは 個性的な差異 différence とも呼ばれる)を 自己に有利にみちびくことのゆえに 福祉を実行する。ようになっている。
さもなければ 片や一方で 生産者の利潤追求と もう一方で 慈善的な福祉事業との これら双方を 同じ一つの共同体の中で・それらの交通体系の中で 明確に分別して 生産・交換・消費しあっていくことは ありえない。この分裂の 重商主義なる亡霊が あの原市民社会の以降 かくじつに歴史をおおっている。見え隠れしながら そこここに 息づいている。ぼうれい重商主義 これに侵された生産者主義 その交通(じつは精神の交換)体系の中での まさにその意味での精神 的な こうふく・まんぞくを追い求め そのあまいささやきが 人びとの耳を――耳にかたりかけるというよりも――ふさぎ 何も聞こえず何も見えなくし うすくらやみの中のきょだいな想像力の帝国をつくりだしている。

  • 十年・二十年前には このように映っていた。(20061108)
  • 現在では すでに《成功》をおさめてしまった。あまりにもの成功をおさめ 飽和状態にまで達し むしろ欲求不満あるいは漠然とした不安がただよっているかも知れない。・・・そうすると こんどは そのいらいらした精神は 優越感を確保し味わいつづけるために 下の者に対してその権限をやはり確保し支配力を確認しようとする。ここで おそらく いじめが発生する。
  • いじめは 前からあったはずだが 飽和状態には至っておらず新たに開拓すべき余地がある情況では まだ 聞き流しえた。じょうずに交わし得た。いまでは いじめが あたかも袋小路につきあたって おおきな不満とストレスになってきたかも知れない。これが 社会の中を循環するかのように 子どもたちに現われているとも見うる。(20061109)

ゆうれい・亡霊というからには 重商主義的な精神は モノの交換にあたって まず人間(人格つまり精神)の交換をなすと言ったとき その相手に よりつくのである。人間の誕生の以前には おどろきのゆえに自己との関係をそこに見出した自然に対して人は おどろきのあまり この自然(山や木 動物 また人間のなかの自然=情念)に依り憑いたかも知れない。いま 重商主義思想家は この憑依を 人間の精神に対して 人間の想像力によって おこなう。
精神と想像力は 自由である。
この《人間の誕生》以後の シャマニスム憑依魔術をもっともよく行なう者が 重商主義の覇者だということになる。ヨーロッパ社会では それがよかったかどうかを別として あの魔女狩りを 大々的におこなったから このシャマニスムの色合いは より薄いものであるだろう。もっとも この魔女狩りは 重商主義精神へのあの管理の徹底したやり方であり 行きすぎである。魔女が商人であるというのは うそではないか。けれども 精神の商人であるといえば わたしたちの理論は 持ちこたえるであろうか。
(つづく→2006-11-08 - caguirofie061108)