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哲学いろいろ

#34

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§40(時代総体という出発点)

かれ(デカルト)の生時には公刊されなかった《精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)》は かれの最初の方法把握を叙述しているが それはかなり確実に 一六二七年か一六二八年のこととしうる。この作品は普遍学を荘厳に宣告することではじまっている。諸科学をたがいに切りはなすのは正しくないことである。

大多数の人が 人間の習俗 植物の特性 星の運動 金属の性質 其の他同様な学説の対象を きわめて細心に究明し しかも他方ほとんどだれも 良識すなわちかの普遍的智恵について考えないということは じつに驚くべきことだとわたしには思われる。というのは 智恵以外のすべてのものは それ自身によってよりもむしろ この智恵に寄与するところがあるからこそ 尊ぶべきものなのだから。・・・そこですべての学問が相互に結合していて 一を他から分離するよりも すべてを一度に学ぶ方がはるかに容易であることを よく心得なければならない。

(ボルケナウ:封建的世界像から市民的世界像へ §5・3 p.345)

このデカルトと同じころ あたかもダルタニャンたちは 人間の主観基礎の普遍学をまなんでいたし 人間の習俗ないし習慣の領域への対処の仕方としては そこに 時代の問題があった。民主主義的であろうとした点では 普遍学の智恵をすでに実践しようとしていたということである。
出発点の方法基礎を守り あるいは若干の旧い習俗を残しながら 守ろうとし 立ち場は 旧い習慣の流れのほうにいた。もちろん ダルタニャンらは デカルトのようには 理論づけていなかった。出発点の方法基礎を 生活態度において 共同のものとしてくるならば――まずは そうであるならば―― 習慣上の立ち場の新と旧とは 相対的なものである。

  • わたしは 旧の立ち場を弁護したわけではない。習慣上の立ち場の新も それは単純に言って 生活態度として のぞましいものだと考えるが それが人格そのものではないことを言っている。
  • 人格原点のオプティミスムは 過程である。そして 出発点たる人間としても 新と旧とを容れた社会習慣の総体である。

一六二七年は デュルフェが作品《アストレ》を完成した年だから それは ギリシャ・ローマの古典古代からの人間学の系譜で オプティミスムまたはそれの想像上の偉大さによって 社会習慣の中へ 出発しようというかのようである。アストレも セラドンも そこでは 習慣領域のおきて・法律に触れたわけではない。理想派小説――なにが理想であるかは わからないが――と呼ばれる一面がある。つまり 法に触れろというのではなく 習慣社会への出発点の捉え方において あいまいなものが残ったかも知れない。なにごとも だれびとも 想像のつばさをもってするならば 出発点の基礎原則も そして主観動態も しかるべきあり方に 定まるというかたちで。

  • このかたちが 理想派だったりロマン主義だったり あいまいだったりする。

デュルフェ自身は 兄とその嫁が離婚したとき そのかのじょと結婚し そのあと ほとんど時を経ないで 自分も同じく離婚してしまったりする。
どうも 女のわるくちをばかり 語ったようである。もちろん 出発点のあいまいな確立は 民主主義(このばあい 人間の相対性の原則に立ったその踏み出し)とか関係の問題であるから 同時に相手の男の問題に相違ない。つまり 愛の問題であり セラドンその人のそれであり ドゥ・ラフェール伯爵(アトス)やリルの首斬り役人の弟やのそれであり――そうにまちがいはない―― こうして 時代の問題が 社会偶然のなかの主観真実ないし合理必然の 表現・形成の過程として 関係構造的にすすめられていく。これが 出発点である。
それに先行する原点の主観動態に われわれは 閉じこもるわけでは さらさら ないが これら原点と出発点とのあいだにすら 一定の距離がある。《疑うなら その疑っていることじたいはもう 疑うことはできない》とか《習慣領域で 欺かれるなら その欺かれることを欲していないそのわれは 疑いなく存在する》とか言うことは この一定のへだたりによって 経験科学的には 証明される。原点の《わたしがわたしする》動態には 欺くことも欺かれることも ないであろう。

  • 同感 同感 同感 自乗 三乗 四乗・・・の過程がつづくものでしかない。

欺く・欺かれるは 出発点のあとの 習慣領域で言われることである。習慣上の新しい立ち場にあっても 欺かれる(つまり 社会の偶然的な経験行為の関係)は ありうる。旧い立ち場に立ったとはいえ ダルタニャンらは このことを知っていた。デカルトの理論づけた普遍学――人間の主観動態が普遍――の智恵である。出発点の行為原則としては 合理必然と民主主義とを われわれは言った。なぞの領域には触れないとするならば 主観基礎の知解および意志の それぞれ合理思考および愛(人間の相対性)は それが 習慣領域で実現されるということは この出発点の合理必然および民主主義の両原則を 過程的に 実現させていくということである。
社会闘争そのものは 時間的なあとさきにではないが すなわち 一定の習慣上の立ち場をとって出発したあとは 一定の必然的な関係で動く(もちろん可変的であるが)のだから 民主主義的な出発点基礎に立った具体的な時代問題である。――デカルトは 《わたしの存在》をつきつめていったし(つまり 実際の主観動態のこととして また その主観基礎を明らかにしようとつとめたし) ホッブズは 社会形態の秩序問題として 時代の習慣から自分は離れるかのようにして 時代の問題を扱った。主権者の問題を措くならば 合理必然と民主主義との出発点原則を あつかおうとした。
ダルタニャンらは すでに 生きた。旧い流れにのっかる者もいれば 新しい流れを促す者もい 主体としての水は つねに人格として新しい存在が 現われる。人間学基礎の原点 習慣に対する民主主義という出発点 そして 新旧の流れの相互対立的な関係構造として進む時代総体。これが 明らかにされようとしている。(新旧という二項対立としてとらえるのは あまりにも便宜的かも知れないけれど。)そしてまた 理論を明らかにすることをとおして生きることにかける人たちと 生きることそのものにかける人たちと。どちらかといえば 後者の人たちが――それは 《智恵》のすでに実践だから―― 直接に社会をつくる。つまり 前者の人びとは この実践にあたって いくらかのひまが あるとするならば。しかも現代では このひまは 民主主義的に あらゆる人に利用可能となりつつある。こういう現代という時代の問題。
理論家としての実践家とそして実践者 習慣じょう旧い流れの人と新しい流れの人と これらが錯綜関係として 時代総体をつくるとき その錯綜する・また確かに明らかに対立するところの関係構造は いよいよ――ひまをあらゆる人びとに増やしつつ しかも――言ってみれば のっぴきならないつながりを持って すすんでいく。これは 出発点(個体的)の問題であり 習慣環境としての出発地点(情況的)において その行為原則たる出発点基礎の明確化とともに だから 両者(合理原則と民主原則)の織り合わさった出発点じたいが 確かなものとして実現していくことだと考える。
経済生活基礎の面で 関係(ないし交通)が 必然的となり 習慣構造が この必然関係で 編まれていく。つまり 一つだけ取り上げるとすれば 出発点として 民主主義である。そこに合理原則を包み込むようにして そう言いうる。ここから そのものとして どういう習慣・社会闘争が展開されるのか――されていて されていくのか――は まだ ずるいように 触れていないのである。それは 社会一般的な―― 一般社会にかかわるところの――すでに 政策実行そのことの問題だと考える。
われわれは 人間学基礎の原点たる《わたしの存在の愛》 および それの習慣領域への出発点たる民主主義(相対的な人間の愛)が この頃 確認され確立されるか そう芽生えつつあったと言ったが ヴォルテールの見るところによると

真に哲学的な精神は この世紀の中葉になって ようやく根を下ろしたにすぎず 神学論争の火は古いのも新しいのも 消すことができなかったが これは哲学とは領域の違う問題なのである。
ヴォルテールルイ十四世の世紀 1 (岩波文庫 赤 518-3) 35)

ということになる。つまり 《論外》の事項とは言わないまでも むしろ社会闘争の習慣領域を――《神学論争》ないし宗教戦争として取り上げて――それとして きわだたせ 偶然の中の〔社会闘争的な必然の〕産物だとさえ見えるという捉え方で 述べている。《独断的な精神――人間関係の原点と出発点とを 社会習慣と同じものと見なす精神――が 人間の社会に 宗教戦争という狂気の沙汰をもたらした。・・・この新たなペストは 地上を荒らしまくったが その起源はといえば 初期の教会に漲っていた共和的な精神と いかなる種類の抵抗をも許さぬ権力との間に 必然的に生まれた闘争にある ということができはしないだろうか》(ヴォルテール同上36)と。

われわれは一六二九年から一六四九年までの二十年に デカルトがオランダ〔に滞在し パリにもやってき あちこちに移り住みつつ そこ〕からカトリック教会の権力とたえず外交的な賭博をしているのを見る。ベリュールとその後継者との保護をたしかめて かれは宇宙論を《世界論》という題で公刊しようととりかかった。著作ができあがるかできあがらないかというときに ガリレイの有罪判決がおこなわれた(1633年)。デカルトのそれからさきの科学上の進路は 教会と衝突しないように コペルニクス体系にたいする禁令を避けてとおるという努力によって規定された。
(ボルケナウ:封建的世界像から市民的世界像へ§5・4 p.358)

なおボルケナウは 《ガッサンディの宗教的志向の問題は デカルトのそれとはまさしく逆で・・・ガッサンディはそれほど用心ぶかくはなかった》(§6・1 p.469)と見ている。
ダルタニャンは ラロシェルの包囲戦(1627−29)の《二十年後》 すでに用心するしないを問題とせず 銃士隊の副隊長として まずはフロンドの内乱(1648−53)に王および枢機官の側に立って 習慣行為をおこなう。すでにリシュリュは去って(1642死) イタリア人のマザランが宰相であった。国王もルイ十四世(1638−1715)となっている。いまは十歳そこそこで 母后アンヌ・ドートリッシュが 枢機官マザランとともに 摂政であり この内乱の中で十四世は成人していく。マザランが イタリア人だといっても アンヌ・ドートリッシュは――かのじょ・つまりルイ十三世王妃は このときには ルイ十三世は亡く マザランと結婚していた は―― むろんオーストリアのハプスブルグ家の出で スペイン王となっていたフェリーぺ三世の王女であった。それにアンリ二世(在世1547−59)の王妃はカトリーヌ そしてアンリ四世(在世1594−1610)ののちの王妃はマリと それぞれメディチ家のイタリア人である。
ルイ十三世(在世1610−43)の妹アンリエット‐マリは イギリス国王チャールズ一世(在世1625−49)の妃となっていた。王妃アンリエット‐マリが 娘のアンリエット‐アンヌとともに フランス宮廷に退いて来ていて このフロンドの内乱の起こっているときに 夫のチャールズ一世は クロムウェルのピュアリタン革命の中で 処刑されてしまった(1649)。ちなみに この頃 ホッブズもパリに亡命していた。
フランスでは 枢機官リシュリュが 王国の絶対主義的な統治を 確立しかけた。イギリスでは チャールズ一世が この傾向を追った。議会を無視して専制をおこなった。内乱をまねき ピュアリタン革命となる。フランスでは リシュリュのあと マザランが 増税政策をとった。高等法院が 税法の審査権をもち 反対した。国民は  法院の味方である。すでにこのときまでに 市民出身の者で 宮廷の職を金で買って 高等法院の裁判官となっていた法服貴族(ボルケナウは ジェントリーと称している)も いたわけである。
イタリア人の首相マザラン憎さのためか――ただし 内乱の収拾のときには 国民は 亡命先から戻ったマザランを 歓呼の声で迎えた―― あるいは当然のように 増税から暮らしを守るためか あるいは――その経過が 結局はこの目的を見失い 風紀さえ乱れたのだが――イギリスとともにする市民革命のためか 国民は 高等法院に拍手を送り 法院はこれに応えようとつとめた。
王家やマザランはパリを逃がれ 《いくさは何度 済んだり始まったりしたか知れぬ。だれしも党派を変えどおしだった》(ルイ十四世の世紀 1 (岩波文庫 赤 518-3)4)その中で 王党派とフロンド派とは

ルイの未成年なのをさいわい 政府は実に手ぬるく 太后も寛大この上なしなのに 主君に反旗をひるがえそうという魂胆 現在 イギリスでは 議会が王を閉じこめ 首さえ刎ねかねぬ形勢なので それが羨ましいのかも知れぬ。内閣はこう考え かつ こう主張する。
が パリの市民や 法曹界へ片足でも入れているものから見ると 高等法院は神聖無比 公明な裁きに終始して来たのは 歴史に徹しても明らかだし 国の利益のために 己れの損得など顧みぬようだ。・・・天下の公道を歩むといった形である。
ヴォルテールルイ十四世の世紀 1 (岩波文庫 赤 518-3)4)

この筆者ヴォルテールの言おうとするところは フランス人として

丁度この頃 内乱がイギリスでも勃発したが それとこれとを比べると 国民性の相違が実によく分かる。暴動に際しても イギリス人は黙々としのぎを削り合い むきになりがら度を失わぬ。戦うたびに屍山血河。黒白は刀にかけてきめる。負ければ断頭台あるのみ。王が戦場で捕まり 白洲へ引き出されたのは ほかでもない 権力の濫用をなじられていたので 訊問のうえ断罪ときまると 公衆の前で処刑されたが 普通の罪人の場合と手続きも同じ 万事は滞りなく運んだため 惨劇の前後を通じ ロンドンの市民は 内乱に付き物の災害は 一度も見舞われずにしまった。
ところが フランス人は面白半分 笑いながら悶着を起こした。・・・
ルイ十四世の世紀 1 (岩波文庫 赤 518-3)

と見ようとするところにある。《〔党中党をつくり〕党派が乱立して 互いに憎悪を募らせ 恨み骨髄といった有様 / 決闘がはやるし 金品の横領は日常茶飯事のよう 風紀は紊れて 破廉恥が常識となるほどである。が この支離滅裂な社会にも 始終 陽気な気分が漲り 世相の暗さを和らげていたのは面白い。/ 宗教戦争ではないからである》(同上5)。
これは――勿論フランスも のちに《大革命》をやってのけたのであるが しかしながら――問題が 社会習慣の領域にあることだと思われる。イギリス革命も そのつてでは イギリスのほうは 宗教上の社会闘争がまじっていたとも 考えられる。つまり 経済史(経済生活)の基礎が宗教上の問題としても あつかわれた。過少評価するとか 歴史の進展をどうおまえは見るのだとか ではなく 出発点としては こうだと思われる。これらの習慣社会上の歴史事実がなかったことにしようなどということではなく また フランス人の《面白半分 / 陽気な気分》ではいけないのであって あるいはイギリス人の《党派への忠実――つまり ある種の仕方で 習慣上の立ち場の固執――》だけでもいけないであろうのであって 出発点が民主主義だと見ようと言おうとするにすぎない。
だから また 現行の法律(既成の習慣)に従うことこそが この民主主義の原則であるということも 意味あいが ちがう。出発点の民主主義のゆえに――その前には 人間学基礎から始まっていて―― 法律が敷かれ それとして 古いまたは現行の 習慣の流れが 存在している。
忠実・誠実・真実は――逆に言うと―― 社会習慣上の一党派へのそれにも また党派の相対性を《実践》するようなそれにも ありうるかも知れない。すなわち 主観真実は 人間学基礎の原点への固着 および民主主義の出発点の遵守(つまりこの場合 これゆえに 古くなった法律を改正していく) したがってそれらによる生活態度にあるのであって すなわち言いかえれば 社会生活の習慣上の立ち場の固執や濫用にあるのではない。その心は 社会習慣が 人間そのものではないし 生活態度そのものでさえない。
ダルタニャンは――かれ あるいは かれの仲間らをけっして 顕揚するために言うのではないが―― そのときすでに銃士隊から離れていた友の三銃士のうち デュ・ヴァロン卿となっていたポルトスとともに 王党派についたし 他の二人つまり ドゥ・ラフェール伯爵たるアトスと デルブレー神父たるアラミスとは フロンド派につき 二組は あい闘った。ダルタニャンは のち イギリスの王政復古(1660)でチャールズ一世の王子チャールズ二世にその復位のために力を貸したことになっている。時代習慣の一要素であったとは言わなければならぬ。方向として出発点が その個人においてのみであっても 出発点であったと。
決闘の精神が克服されたなら よりいっそう民主主義が 実現されていくだろう。わたしは 民主主義をこのように考える。それの法律制度化は 合理思考(および経験科学)の問題であり いまでもまだ それは国家という社会形態を前提とした社会習慣上の制度としてある。この社会制度じょうの民主主義(民主政)ゆえに ダルタニャンらの人間学基礎ができあがったのではないし 同じくそのゆえにわれわれが社会をつくるのではない。
闘争はあった。これからも あるのかも。先進社会では なくて済むかも。つまり民主主義的な社会習慣上の対立展開ですすんでいけるのかも。――誤解を恐れるけれども 誤解されても仕方のないような調子で書いたという部分も 否めない。《人間の本質が 社会的な諸関係の総和である》のなら その出発点は 時代総体に立って 捉えていかなければいけないだろうとのみ。
デカルトらは まず――まず――新しい理論にかけたし その意味で ダルタニャンと別の立ち場から・かつ同じようなかたちで 時代総体を その出発点に見据えることに努め そのことの実践には 必ずしも到らなかった。直接なんらかのかたちで 経験現実として この時代総体の出発点に立つのは 首相である。デカルトらは 実践にいたらなかったことが まだ やむを得なかったとしても この首相の立場にも立ってみるべきであった。新しい生活態度の時代は 市民の一人ひとりが 首相だということである。

§41(むすび)

わたしは 変なところから議論したので つまり哲学の歴史あるいはその世界像からではなく それに対していわば はすかいのところから すでに習慣領域という環境地点の上で 議論をさしはさむに到ったので 対話の相手であるボルケナウから 嫌われてしまったかも知れない。もし それでも 議論がかみあっていて それが実りをもたらしうるとするならば ここまで来たからには いちど 対談の席をうつすということになるかと思う。もし きらわれたとしても 話し合いが続きうるものならば それは すでに何らかの実践へと――社会慣習上の立ち場を明確にとったうえでの 具体的な政策をめぐる論争へと―― 移っていくものと考える。
思索が途絶えるわけではなく 学問の研究がとこかでおしまいになるわけのものでもないことは 政策実践に対して 人間学基礎が先行すると確認しあうことを意味する。それら両者すなわち原理上先行する人間学と後行する政策実践との 仲立ちをする生活態度・そういう 出発点としての民主主義の原則 これらの確認と実行とを 意味する。
すなわち 生活態度としては 現代の新しいものとして すでにわれわれの前にあるし内にある。これにさらに先行する人間学は――つまり原点としての主観動態は―― とうぜん同じくさらに問い求められていくだろうし 研究も深められるであろう。出発点の生活態度にさらに後行する習慣領域は――つまり 一回きりの人生でもあり その現在たる時代社会でもあるものは―― すでに歩まれている社会生活であり 社会的な政策実践でもある。
もし 最後行する社会習慣の領域で 十七世紀の時代にとどまるとするならば 主観動態の・そして生活態度の行為形式としての 合理必然は しかしながら たとえば レゾン・デタ( reason of state )というように 国家の存立の理由・ないし国家理性・つまり 国家形態も 習慣領域の問題として ある種の合理必然なのだという見地から 利用されることができた。どの社会習慣上の立ち場に立っていても 議論することができるのは 民主主義の出発点である。ボルケナウに対してわれわれは このように合理思考および合理必然が まだ 生活態度の一部ではあるけれど 主観動態の一部でもあり むしろ主観動態の用いるものであることを 諮った。
国王が 国家とは自分のことであると 何らかのかたちで――じっさいには 旧い社会習慣の 偶然上の制度に立ったものではあるが―― 合理思考をおよぼし 合理必然を主張しはじめた。《国家という形態の 時代総体が 〈わたし〉である》という出発点を いいかけようとしている。それは 出発点基礎つまり合理必然と民主主義との両原則にのっとったものというよりは ただ 出発地点つまり習慣環境のほうに立ち それの追認といったかたちではあるが。
だからパスカルのように この主観動態(また なぞの幅をもたせて 信仰動態)をつきつめていく作業も 有益であり と同時に すでに出発点の生活態度が確立されているとする場合には 社会習慣の領域で その作業で得たところのやはり神学を これは もうあまり 持ち出さない。持ち出すことも自由であり かつ とくに政策実践とは それは 直接の関係がない。こういうことを 諮った。少なくとも その方向を見ようと努めた。
対談の座を移すというのは この政策実践の場へ行くか それとも いったん ここまでを確認しあって 必要に応じて あらためて――それは 不可欠だから――人間学の議論を深めていくか そしてとうぜん この二つの方面は 両立しうると思われるそのことだと考える。
すでにこの十七世紀に 《国家とは わたし自身のことである》と表現され得て 一つに この《国家 L'état 》が 社会習慣の情況の全体・時代の総体のことだと言ってよいと思われるなら――それは 社会習慣の問題であるゆえに 同じ一つの表現が 観点を変えて 解釈されうる―― 考えられることは 人間学基礎で《わたしがわたしする》とき 皆がそうするとき 少なくとも民主主義の出発点の場が 生活態度の経験的に拠って立つその環境地点とともに 結果的にしろ 確立されつつあるということだ。と思われる。
とするなら 人間学の議論をなお深めつつ 経験科学の補助領域を研究しつつ用いて すでにわれわれは 時代の領域に――出かけきらないで――進み入っていくことができる。出発点たる民主主義の経験的な実現の過程として。つまり この場は 過程として 実現しうるし 実現しつつある。しかも 民主主義が生活態度たる出発点であるなら この場の実現が 民主主義の社会である。それでも 思想史の上の論争は あるだろうし 経済史はどんどん進んでいくものと思われる。資源が有限であるし 社会のいろんな形態・制度が可変的であるから 合理必然の原則の応用が 変わっていく。そういう新しい生活態度の新しい時代が 来るべき社会だと考える。
どこまでも 基礎のことで語り どう政策実践するかは まだずるいように 逃げたわけである。実践すべき政策を提案するといったことについても然ることながら わたしは これまでの議論が むしろ単なる井戸端会議だと見られないことを恐れる。専門的な学術的な研究を はじめから目指していなかったし 発表したものではないからである。――わたしは 《わたしがわたしする》だけであるとさえ言って 意を尽くさないかたちにて――。
(つづく→2005-10-28 - caguirofie051028)