caguirofie

哲学いろいろ

#29

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§32(時代の実践)

じつは 時代の相対性は 人間の相対性から 理論的には(合理思考において) やって来る。
人間の相対性は この相対性を理論する主体が自分たちのことを言っているのであるから 平等性のことである。時代――社会偶然の歴史的な一段階――は そうではなかろう。そして人間は 合理思考の主体(また こう言うときつねに 忘れずにつけ加えておかなければならないことは その意志による自由行為の主体)であって その志向には自明のかたちで その行為には理論的な希望のかたちで 必然性を含めているし 予表させている。
社会偶然のなかの人間の合理必然とは 経験行為として 所有である。所有にかかわる。
社会経験の基礎の側面としては モノの所有(生産から消費まで)のことであって この経済行為としての所有が 偶然のなかにおける人間の合理必然の 基礎をなす。主観動態とか《わたし》のほうが またそのなぞのほうが いっそう確実である。けれども 経済史・モノの所有が この確実さの経験的な確実さである。または その要素としてある。
《所有》は だから基本的にいえば 人間の自己到来のこと・すなわち 自己の主観動態の所有(または 固有の愛 amour propre 。つまり意味を変えてそういう表現)であり このとき なぞを言おうと思えば 神=真理=愛を《わたし》が分有することである。そういうことになるであろう。言いかえると 《所有》とは 《わたしが生きる / わたしが歴史する / いな わたしがわたしする》ことだ。――パスカル
あるいは わたしが自己の能力を所有することである。このことは 人間が理性によってはもうそれ以上のことを考え付くことのできない最初の前提としての思考能力(その所有)を言っており(デカルト) それによって・それ自身に対して《自由》をそれの中に見なければならないところの意志(愛)の能力を 同時に 前提している。
ところが 自由で理性の主体である人間は どういうわけか 時間的・偶有的な存在である。逆に言うと そのことによって かれは 自分の思考を 合理的・またそれゆえに必然的なものだと言っていなければならず 自分の行為を 自由な意志によるものだと証言しうるほどでいなければならない。偶有的な存在である人間が織りなす社会は したがって 偶然である。しかも この中で 自由で合理的な必然を 見たいし 実践していたい。その――便宜的な――基礎は 経済史領域にあり 《所有》としては 経済行為としての所有である。
哲学(思想史)は 人間そのものをあつかう。経済史がその基礎にある。
人間が生涯の過程で段階を経ていくように 社会は 時代をつくっていく。この歴史によって 人間学は 思想史とか経済史とかを持つし捉える。
互いに平等な人間の相対性は 社会偶然の歴史的な各段階である時代を とうぜん 相対的なものと見るだろう。ゆえに進展しうるのだし しかも 必然のつながりを見たいし実践したいなら 相対的である時代は そういうかたちのもとに進展する。と見なければならない。――オプティミスム。
けれども 実際 そうである。経済的な所有行為に・あるいはそれをとおして 合理必然をとらえようとする。便宜的な基礎として。社会偶然は あらゆる場合に例外なく 偶然のままであるというぺシミスムは 心理経験の動きの一形態としてあって もしこの主観心理のぺシミスムが人間社会を支配しているだけだと言おうとおもえば われわれは こうして議論することは すべて 虚無である。虚無にみえても 議論していくのは 哲学的にいえば人間は《わたしがわたしする》からであり その基本的な(固有の・《自己》そのものの)所有動態の 経験的な基礎である経済的な所有行為は たしかに 変化・進展する。
この偶然は 虚無ではない(もしくは 虚無と見なしきることはできない)というわけである。ここで ぺシミスムが経験心理としてあることじたいを 必ずしも排除してはいないわけであるが。
社会偶然の虚無を理論づけようとする人びと(たとえば リベルタン主義。つまりそれゆえにこそ 自由だと説く)を論外であるとして戦い 社会偶然という経験領域での主観の心理的な動きから 虚無をみちびかないとしても ぺシミスムをみちびき これを主観動態(つまり《わたし》の本質)だと理論づける人びと(リベルタン)とも戦い 経済的な所有行為(そのさらに出発点は 生産・労働・仕事)をとおしてオプティミスムを実践していこうとする人びとが 出てきたわけである。これまで見てきた範囲では まだ ばくぜんと《あたらしい生活態度》への思考と実践とであったとしても。道徳的要求のリゴリズムをともなっていたとしても。
こんな しんどいことは いやだと言って言えないものではないだろうけれど ここで一つの時代をかたちづくり この――資本志向の一般化の―― 一時代は 今にまで受け継がれて来ている。
必ずしも人間が 変わったわけではない。経済的な所有行為をとおして 自由で合理必然的な生活をいとなんでいきたい(つまり 結局はそういうことになるところの)資本志向の態度が それまでの社会偶然によってつくられていたその宗教的・政治的な制約を取り払って(つまりは 旧い生活態度と闘って) この時代に前後して 社会一般化していくという変化であり 時代の進展である。
宗教を見直し政治を捉え直し 資本志向(生活態度の所有志向)という新しい生活態度に対応しようとしたし あるいは 資本志向の起こってきているのを見てのゆえに 社会偶然の総体を解釈しなおし それによって社会のかたちを作り変えていく実践を始めた。
作業の分野ごとに 資本志向は資本志向主義(ないし資本主義志向)をも持ちえたし 新しい宗教志向のさまざまな形態・運動を持ちえたし 政治志向はとくにイギリスで 新しい生活態度(人間学)を第一義の主義とする政治(共同自治)の形態を目指し 言ってみれば実験的にも実践したし(市民革命) なかんづくこの時代では この生活態度に 試行錯誤的にではあれ 新しい人間学基礎をあたえようとする努力がおこった。

  • それと 古代市民アウグスティヌスのとは ただ時代がちがうだけであるとさえ 言ったが。

試行錯誤は 宗教もしくは神学を 当面の主要な課題としなければならなかったからであり そのことに現われているものでもあるし あるいは まだ――くにぐにでの進展状況に差はあっても―― 資本志向の経済的な所有行為が 態度(形式)としても そして生産の手段だとか作業形態だとかにかんしても その合理性(機械の発明等を含めて)の面で 初期の段階にあったからである。そして これらを実質的に指導していこうとしたのは――指導していけたのは―― まだまだ 社会偶然の旧い伝統的な制度形態のいわゆる支配層に 限られていた。あらたに 上層支配層に入っていけた人びとを含めて。
こう見るならば――ということは その前にも 理論的には―― 平等な人間の相対性から来る時代の相対性というものは そのかぎりで 社会の階層ないし階級(つまり経済的な所有の 偶然差別的な集団形態)の 相対性を言うこともできる。ただちに目にみえないところの実質的には ともかく新しい時代の中に生きる結局 すべての人びとが 生活態度の変革を 模索したし 主導しようとしたのだとも考えられる。嵩上げして そう言える。
ことさらこれを言う意味は たんに人間の相対性をみるためでもあるが もしそれに限られないとするならば 回りまわって 階級の相対性を それとして いちどは はっきりと見るためである。社会偶然の領域における生活態度の変革・時代の進展にかんする 指導者と従属者 だからあるいは諸階級は まず 関係である。上層の指導階級が 自分たちだけで 生活を変えようというのではないし 時代を・社会をつくろうというのでもない。先頭に立とうという人と ついていこうという人とは いってみれば社会偶然の中にあっても 絶対的な(あるいは必然的な)関係の中にある。こういった時代という情況で デカルトは立ち上がるし 合理必然は つねに頭をもたげてくる。
デカルト》という切り札 合理必然という一点では すでに現代社会は それぞれの分野で 行くところまで行き着いた。切り札を用いる主体 これをボルケナウは 《封建的世界像から市民的世界像への移行》の諸時代の研究をとおして 実質的に第一の目的として 思索した。きわめて長い議論の模索は かれの最終のことばに要約される。このかれの到達点をわれわれの出発点とするならば 内面人間学による生活態度のあらためての確認と実践 すなわち市民の世界観の総合的な確立だと言うにほかならない。
あらためて ここに立てば 課題は いくつかある中で 一つには 《所有》の経験現実的な基礎領域たる経済行為の形式 これの洗い直しであり これに関連して 一つに 直接の関連事項として 資本志向と資本主義という二つの形式の問題 そしてその他には――もし宗教の批判がすでに終えられているものとすれば――政治の見直しの歴史的な継承などなどであるだろう。
政治の見直しというのは 社会偶然の中で一定の形態(いまでは 部分的にせよ 人びとの自由意志にもとづく合理必然の理論のもとにある)として作用している国家の問題であり これが われわれの新しい人間学基礎にもとづく――ただしそこには一定の距離がある――綜合的な合理必然の作用の場であろうとする共同自治の形態像と どうかかわっているか これを検討していくところにある。
最初の 経済的な所有行為形式の見直しと とうぜん 密接な関係を持つが いまある国家という形態が すでに作用しているところの場 これが 時代としてもちろん先にあるし そうであってよいわけであるとき 見直しの理論が問題となる限りで 上のように この理論像を先行させてのように議論することも 可能。戦後政治の総決算という時代もあった。
ここでは あらためての出発として  《資本主義志向》の問題 これを 必ずしも経済史を直接の問い求めの場とはしないかたちで 十七世紀に即して 検討・議論していこう。
(つづく→2005-10-23 - caguirofie051023)