#46
――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917
付録の二 法(ノリ)の問題
五 無制約的自由の個体性と相互制約的自由の共同性として
最後にまとめておこうと思う。
まず 《のり》を《さだめ》に言いかえても 法の問題にとって――その主体の構造前提にとって――同じようなことが言える。つまり 語義の変遷として・したがって重層的な構造として。
さだめ[定め]
- 天皇の後継者 帝都・陵墓の位置 罪刑 結婚の可否など神聖な公共的事項を正式に決定するのが原義。
- 古代では卜占によって神意をうかがい決定することであったろう。
- 後に人が是非を分別して決定する意。
番号をつけて区分したのは わたしで 《のり》のばあいの順序にいくらか くいちがいを生じており この《さだめ》の場合はむしろ (2)→(1)→(3)の順序で 一・神による 二・王による 三・人びとの意志によるの三段階に対応すると考えられるかも知れない。反対に この《さだめ》の場合は アイディアそのものとしての法ではなく アイディアの想起およびこれが共同性を持つというときの判断行為の側面に 焦点をあてているわけである。《のり》も動詞として考察しようと言ったのであるから この《さだめ》の概念を ともに考察してゆくことは有効であるかも知れない。また 主体の問題というときの意味は そういうことになるはずである。
ちなみに 言葉の詮索ばかりをやるつもりはないが サダメにしてもノリにしても それぞれ三つの意義の変遷は 文献に表わされたものを中心としていることに注意しておくことは 肝要である。ノリは 《云う》という意の朝鮮語 nil と同源だと考えられる(大野晋)場合には――そのどちらが 輸入したものなのかの問題を別として――ただ単にそういう意味(つまり《云う》という)が はじめに基本的に一般であったろうことは 当然だし また サダメも 《帝都・陵墓を決定する》という意で 突然 その語が現われたわけではあるまい。さらに サダメは キワ(際)メ・カタ(固)メ等々と同じように サダが 分離されるべき語根である。サダマリと自動詞に使うばあいは ちょうどしも はじめのノリとしてのアイディアが共同性を持って効力を発揮することを言うかに考えられる。
ただ 語根のサダは サダ(定)カというように またその意は 《類義語タシカが 密である・しっかりしているなどのさまを表わすのに対して 事実としての世間的に動かすべくもない状態》であろうとわかっているにもかかわらず それ以上の語源はまだわからない。
要するにいま言えることは こうである。
ノリが 基本的に個体に発してアイディアを持ち それが 第一の段階にしろ第二の段階にしろ 社会的に共同性を持つようになるといった構造的(および歴史過程的)な意味をになっているのに対して サダメは 《事実として世間的に動かすべくもない状態》が 神によるという虚構のもとの共同性 あるいは 王によるというそれとして もしくは 市民の総意によるというそれとして おのおのサダマルという社会的諸関係をになうとは考えられることである。
後者のサダメ・サダマルのばあいは むしろ すでにアイディアの共同性(法の原型的なサダカ)をもっているところへ ノリ=法によって それの明示的な確認をおこなうのだというふうにも捉えうる。アイディアがサダカであるとき 時に成文化をもってサダメられ その言葉ないし条文をノリと言ったとも考えられる。
- ちなみにさらに オキテ(掟)の語義についても 参看しておくべきであろう。次のようだと考えられるとき それは サダメが 積極的(陽)の側面をになうとすれば これに対しては 消極的(陰)のそれを表わすようになったとも言いうる。
おきて[掟て]
オキは オキ(置き)と同根。テは方向の意。前もって方向をこれときめて置いて物事に向かう意。
類義語サダメは 奈良時代には公共の事に関して神意を占って決定する意。オキテは はじめ私的な心構えの意から 取り決め 命令の意 さらには社会的な禁制の意となる。
(大野晋)
- ごく通俗的に言って 所有権が積極的に 人びとのアイディア(記憶と知解)において認識され思われ そのようにサダメられているところへ 《盗んではならない》と取り決めてすすむのは オキテの問題であり 所有権を規定しその侵害に対して法律を施行しあって行くのは ノリの領域の問題であるというように。
ノリは 間接的・仮象的・普遍的であり オキテは 直接的・具体的・個別的であるかも知れない。この考え方に立つと 法の問題にとって《主体がすすむ》理論は サダメに本質的にかかわると言いうるかもしれない。そのとき 条文としてのノリは あくまで仮りのものであり オキテは もうひとつ普遍性を持たないからというように。
- サダメに対して もしくはサダメに服するというときの人びとの心理において それぞれ 暗い印象がもしあるとすると それは 仮りのものであったり・ともあれ直接に関与するものであったりするそれぞれノリやオキテに対して そのまま従わなければならないという法意識によって――つまり これは 倒錯した法意識である それによって―― サダメを 非主体化した結果によることを示す。主体の問題を去って 法の問題を ノリの解釈や運用など法学の問題にすり替えることは この所産である。
- これは 逆に 市民の総意によるという第三段階のばあいの考え方としてむしろ 現実的であるのだが したがって 第一や第二のそれより発展した歴史の一時代をになっているが 第一ないし第三の諸段階に通底する《主体がすすむ》視点を忘れた一つのアイディアに立っている。またこれは 明らかに倒錯である。
- 後期マルクスを押し立てる人びとは このことを 人格の物象化 物象の人格化と言う。詳しい議論を抜きにして言って かれらのこのような理論には 明らかに《主体がすすむ》原点が存在する。そしてそれは 物象化や倒錯の揚棄されたあかつきには この原視点が生起するであろうというのではなく いま存在しているのである。これを言うのは 疎外論者たる初期マルクスもそして後期マルクスも この原視点について同じだと言わなければならないことのためである。疎外論とは はじめの積極的なサダメの主体たる人間の 非主体性を言っているのだから。
- これによって 仮象的なノリや私法的なオキテが あたかもサダメだと思われてしまう倒錯(倒錯した法意識)が 物象化論の問題なのである。ただ マルクシストの物象化論は この倒錯=非主体化が 法意識であるとする限りで 一般に やはり反省的意識による法=サダメの認識によって すすむ。わたしたちは 倒錯の法意識は それだとして反省的意識によってすすむのではなく すでに主体であるわたしが その法の中に 構造的に 機能しない法を見ることによって そこに構造的なわたしが すすむ。この点は 前節にのべたとおりである。
- オキテは 法の問題にとって そのようにかかわるであろう。もっとも 前提領域が自乗・三乗してすすむというのは このサダメやノリやオキテが それぞれ構造的に順立して或る一定の秩序を持つという動態的なわたしを 積極的・肯定的に立てているわけである。このとき 思惟は 反省して折れ返してもよいが この折れ返しの思惟のまま いわゆる学問として表現されることには 生きた前提領域が見出されない。言いかえると この反省的思惟から成る学問は わたしたる前提領域の 判断のための基礎的な認識の一領域である。
《サダメ》は 明文化されずとも 或る種の原理的な法を言っていると思われるのに対して 社会的な諸関係としての《サダ》は 歴史的に変化するものであるから ここで 主体とノリとの関係が そのようなものとして 主体的にすすむと考えられるのである。このとき 主体が このサダメやノリの担う社会全体の中ですすむのであって かれは サダの中の経済行為(またその学)の領域やノリ(その学)の領域へ 主体の場(位置)を移してすすむのではない。
もし 経済学や法学が 専門化され分業化されたとするなら そうだとしても サダやノリの複雑化を意味することはあっても あたかも主体の分裂・分割を意味することはありえない。法の問題は あるいは 他の問題も この前提領域においてつねにすすんでおり この前提領域がむしろすべてだという前提につねに留意する必要がある。
これらの点をみてきた。また この意味で 所有(生産・交換・消費・享受)にかんする法というとき アイディアの所有行為を 第一義にとるべきではないかと考えた。さらにこのことは 法としてのサダは 生活としてのサダにとって仮りのものであり 法律としてのノリは 基本的にどうでもよいという視点を許容しうると思われるのである。当然のごとく どうでもよい仮りのものであるから ノリとしても共同性をもって有効となるのだと。法の問題にとって この点は重要であると考える。
法律の制定・解釈・運用といったその機能の側面と 同等に それが機能しないことによって機能するという側面との 構造的な前提領域 つまり わたしの動態が 法の問題のすべてであるとも考えた。つまりここでは この一点に焦点をあてて考察したということになる。
またこのように 解決・解答ではないところに 問題の焦点があるということにもなるのだが もしあらためて出発するとすると どういうことが言えるか この点にも いくらかくどいように述べて この小論をしめくくることにしよう。
それでは この法の問題において 主体がすすむとは どういうことであるのか。と問い直すというように。その主体性は 無制約で その所有行為は相互依存・制約的であるということが基本だというのは またこの基本において主体がすすむということは いったいどのようなことなのであろうか。
わたしたちは アイディアの所有行為(その想起・表現・その交通・社会形成へのその有効性・共同性など)を例にとるということであった。
したがって言いかえると アイディアの所有行為の主体として 社会的にも無制約=自由であって その所有行為関係として 相互依存(対立)的にして自由(発展的)であるというのは どういうことか。あるいは このようなあらかじめの命題は 超越的な規範であるのか。規範にしかすぎないのか。
しかし いま第三段階とそれの対象化としての新しい段階にあって言えることは この命題が ノリ(憲法)としても すでにサダカなのであるということではなかったか。この基本は 現実的であるしかないのではないか。したがって この命題を そのサダカさにおいて ノリそのものがではなく ノリとの構造的な関係において主体がすすむ(主体がこの命題をすすめる)という動態として考察することを いまの課題とするというように思われるのである。
結論的に言わば これこそが 第一・第二の段階を継承しつつ 第三の段階として それらを過去として解放する。つまり 第三段階は 新しい歴史にとってふたたびの第一段階なのである。言いかえると 第三の市民の総意による時代は 三つの段階を重層的に保持しつつ それとして新たに発現すると捉えなければならないと考える。
第一・第二の段階のノリの虚構性 虚構性の中のノリの位置・その仮象性(共同自治にとっては それらとしての現実性)を それとして認識するだけではなく 第三の市民の総意による立法というノリの同じく虚構性・仮象性を確認し対象化し その生活面でのサダカさを共同性とするアイディアの時代であると考える。
このとき いわゆる法制史がすすんでいるのではなく 主体がすすんでいるとは言いうるであろう。
逆に言うと ノリとは何かが問題となるであろう。そうして その逆は ふたたび ノリの主体が問題であるとなる。
この問題の土台・社会的な土壌は おそらく経済的な一般に所有行為関係のサダカさが それなのであり いまは この領域には触れずに 法の問題として考えるということになる。これを言いかえると 現代では――ゆたかな社会とみる限りで―― おそらくは所有行為を基軸とする経済行動が すでに自由となった 自由であることがサダカとなった つまり 主体性の無制約的自由と主体間の行為関係の相互制約的自由との一致が すでにサダカなものとなったのだと考えなければならない。
ここで 一般的にノリとは何かが問題なのであって 第一・第二の段階の発展としての第三段階の中でのノリがそのものとして いくつかの点において(つまり 法の作成・解釈・それにまつわる意識などにおいて)問われるというのではない。後者は 主体がすすむのではなく 法の問題がそれとして すすむ(主体が 法の問題領域へすすんでいる)のである。主体が法を所有するのではなく 法が主体を所有しているのである。
人がアイディアを所有するというときには そうではあるまい。アイディアがあたかも人を所有するようになるとき その古いアイディアを人は棄てるのである。法律は たしかに古くなったら棄てられる。しかし 旧い法律を棄てるということと 法そのものの社会的虚構性を揚棄するということとは 別である。言いかえると 法律による共同自治――これによって三つの段階があった――これそのものを 人は棄てる(揚棄する)のである。
なぜなら 法による共同自治――社会的諸関係のサダカさのノリによる明確な共同性化・或る意味で権力化――も 人びとのアイディアによる仮りのもの・一つの虚構なのであるから。
だから そのための法の問題が 新たに 向きを変えてのように たしかに具体的・技術的になどとして 生起して来るであろう。来なければならない。しかも そうして 法の問題は 基本として主体の問題であったのなら いまの法律そのままでも この新たに生起して来る法の問題は そこですでに解決(解放)が じつは 成ったとも言わなければなるまい。
法律の専門家であるかないかを問わず これが 新しい法の問題だと言わなければなるまい。このことが すでにサダカなのであって このあとに これをノリとするかどうか どのような表現形式をもってノリとするかしないかが 時に専門家によって 争われるであろう。そしてなぜなら 主体の問題は 解決しているのだから。
- と言わなければならないとしたなら 解決していない というほどに 未解決の動態としての解放なのである。
このようなアイディアの新しいサダカさが――だからすでに共同性として これが―― 確認されなければならない。このことは 細部について議論が生じようとも 全体として法の問題として 主体において確認するだけで 新しい発進が用意されるとは 正当にも言わなければならない。この議論が ここでの眼目なのであり――すでに触れた一つの焦点としての主題に対する眼目なのであり―― これは素人でもなしうると考えられた。わたしたちは このような時代の移行に立ち会っていると言わなければならない。
わたしは 明らかに新しいことを言っているのであり それは わたしがちょうど一冊の書物となってのように 法となる(法の問題的となる)(つまりサダメの動態となる)ということを 歴史的に実験するかのようなのである。
社会科学には実験がないと思ってはならない。神によるノリも 王によるノリも ノリが市民の総意によって立てられる場合も 時に古いオキテを揚棄しつつ 定めの主体としての動態・要するに主観おのおのの歴史を その時代と社会のサダ(経済的な諸行為関係)に応じて 実験してきたのである。
この原理としてのサダメを 神の法あるいは《歴史法則》として表現して捉えることは 可能であろうが そのままを実体として・つまり神の法や歴史法則が 現象するというふうに考えてはならないであろう。それは 究極原因へ 主体が 主体を離れてのように すすんで行ってしまうことである。そのような大前提領域は その折れ返す思惟による認識は どうでもよいのである。アイディアの共同性にとっては。
しかし サダメは存在するであろう。なぜなら 個体的な主体性は 無制約であるから。神の法あるいは歴史法則が それである。と思う。サダメによって・サダメに従って 時代と社会との人間的なサダ諸行為関係が 変化もしつつ過程されると言って言えなくはない。しかし そうは アイディアの共同性として 言わないのであり(そうは ノリしないのであり) 法の問題にとって この究極原因の人間による認識規定は どうでもよいのである。
なぜなら 人間的なサダ諸連関において サダメの原理を知解しようとすることは 無意味である。(サダをとおして サダメを見まつろうとすることは大いにありうる。)無制約であるから。主体が サダメの動態となって――なぜなら 法という概念は有限なものとしてでも おそらく普遍的に存在するであろうから サダメの動態となってというふうに表現する―― すすむことが 問題なのである。
そのために人は 私法的なオキテを揚棄して 公法的な〔機能する・そしてしないの構造的な〕ノリを立てて――サダに応じてこのノリを立てて―― このノリを用いつつサダをも変革してすすむのである。
サダメの主体が無制約であるというのは このことであって 言いかえると この主体を 歴史法則とか 神の法とか その文字によって 規定してしまうことは――いかに理論的に精緻なものであれ―― 不可能である。無制約であるから。理論は サダの連関構造・その動きを捉えるということを為す。時にこれを ノリとして立てておく。経済学的な理論や法学的なノリを 人は用いてすすむのであって 理論やノリのために 人があるのではない。サダメは 神の法あるいは歴史法則として 存在する。と思う。(あるいは ヤシロ資本推進力の問題としてである。)なおかつ 神の法とか歴史法則とか 人間の言葉で捉えるところのサダメのために人が存在するのではない。
共同性の場 法の問題にとっては サダメをさだめることは どうでもよいことである。具体的な人間諸関係としてのサダやノリが 問題である。このとき 主体は サダメの――それは存在するから――動態となって すすむ。というほどに この主体は 無制約性として見られており これの行為関係は 相互制約的(サダ的・ノリ的)であって そこに人間の自由が――対立的発展の過程として―― 発現していると捉えなければいけないであろう。
わたしが言っていることは 堂々巡りのように見える。しかしこれが 精神の滞留であって 滞留をもって 主体が この前提領域として すすんでいることにほかならない。この前提領域のさらに以前に――つまり 神の法や歴史法則というサダメのほうに――人は ただちにすすむ(上昇していく)べきではなく また同じくその以後へ――つまり別の領域というほどに 具体的なサダの領域へ――人は すすむのではなく 前提領域としての主体が 滞留しつつすすむ過程で このサダの諸連関を自己と他者との共同性において とらえつつ 時にノリとして立てて これら全般を用いてゆくのである。
ローマ法は 前提領域(主体)とそれ以前の大前提領域(サダメ)とを 同一視した。古い第一段階の神によるノリの時代は その萌芽期である。第三段階の市民の総意によるノリの時代に もし歴史法則を立てて 同じく 主体(主観)とサダメ(客観)とを同一視しようとするなら そのように 前提領域が ただちにここで 大前提領域へ移行(上昇)していこうと言っているようなものなのである。ところが サダメは 客観ではないのである。大前提領域たるサダメは 人間である主体が存在しなくとも 存在するであろうが 主体をとおしてでなければ 信じられない。そして それは 反省的意識による思惟の理論化としての客観ではありえない。
逆に言いかえると それが歴史法則なるサダメであり 犯すべからざる客観だという場合には そう言う人(主体・主観)がそこにいることになる。すでに 滞留するとかすすむとかいうことと全く関係なく かれは 歴史法則として生きていると言ったことになる。しかし 現実的なサダをとおしてでなければ――そしてそれは 矛盾をはらんだ動態である―― 主体は 大前提領域たるサダメを把握することが出来ない。
- もし大前提領域たるサダメを把握したと言う人は――そう言ってもかまわないであろうが―― それはかれが 法の問題としての前提領域つまり自己の主観じたいにおいて すでにサダマったと言ったことになる。
ゲルマン法は この最後の一面を 社会関係的な観点から ノリとして表現していった。そういうアイディアの社会的形態である。だから これは より一層 王によるノリの共同性化という第二段階に 本質的に相応している。王が 動態的な主体の代表・象徴となったのである。現実の王の位にいなくとも サダマった人が この王だということになる。そしていまでは 王は 一個の個体として・市民として 前提領域主体であると考えられ 無制約な個体でありかつ社会的な役割分担の一つのノリの形態であることが サダの社会現実にもとづいて サダカな共同性を持つようになったのである。
(おわり)