caguirofie

哲学いろいろ

#2

もくじ→2008-07-30 - caguirofie

序章 《政治主体‐政治学主体》の連関構造へ向けて

§1

まづ初めに 純粋政治学の立ち場を明らかにすべきであろう。
純粋社会学のばあいは 社会学という名称を付してはいるものの その基本的な視点は ひとりの個体における実存=共存という原点にあった。そこで 純粋政治学のばあいは まづ この個体的な実存が 政治主体となって行為するもろもろの領域を その考察対象とするはづである。これが 第一点。ただしそこで 実存的な個体は 全く無規定的な一政治主体であるのではない。かれは あくまで 或る一定の共同体の一構成員として 政治実存主体である。そのことは 純粋政治学にとって この《政治主体》の内面に 或る一つの構造を見出さないわけにはいかない。すなわち かれの所属する《共同体》という歴史的にして具象的で或る種の仕方で客観的な一実存主体の側面である。
この側面は 言いかえれば 主観的な実存主体としての《政治主体》に対して 《政治学主体》とでも呼ぶべき一つの立脚点を構成する。そうだとすれば すなわちまとめて 純粋政治学の原点は 《政治主体‐政治学主体》の両側面の連関する個体の実存であると同時に 同じその構造・体系・体制である。

  • 純粋社会学の場合においても 一個体の実存=共存の形態を これに倣って 《社会主体‐社会学主体》の構造・体系などと表わしてもよい。ただ この場合は 《社会学主体》というものは ことが 実存の実存という目に見えない根源的な領域を扱うだけに たとえばそれを 単なる《国家》というような社会形態によって そのままは代位し得ないものであり したがって むしろ それは 広く社会思想あるいはエートス(人間類型・ならわし)あるいはさらに 一般に 宗教 といったような 観念=抽象的にして経験的ならびに歴史的な無主体的主体を立てることによって――つまりは 早い話が 《神》を立てることによって―― 代理されるであろうと考えた。
  • すなわち それは 西欧の系譜にあっては 《唯一神》体系として 《社会主体=社会学主体》というように両側面の統合された構造において見ること。および それに対して 日本の情況にあっては 《アマテラス-スサノヲ》分離連関する構造において捉えること。これであった。

したがって この純粋政治学において 《政治主体‐政治学主体》構造を立てるとき この《政治学主体》の概念は 《社会学主体》の概念に比べて 歴史的・具体的なたとえば《国家》に より近いということになる。もっとも 視点は あくまで 《政治主体−政治学主体》の構造じたいということであって――それは 微妙な表現の差であるが―― まとめて言えば この序章においては この具体的な《政治学主体》つまり そのような歴史的時間(つまり 国家のことだが)と相即的な限りで やはり歴史的時間としての《政治なる行為領域》を捉え それらの基礎理論を探ろうとすることになる。

§2

さらにもう一点 初めに あらかじめ ここでの中心的な命題を提示しておくべきであろう。それは 先ほどの《社会主体‐社会学主体》の構造と 《政治主体−政治学主体》の構造との関係はどのようであるか これである。またそれは 次に述べるような一仮説と 直接・間接に 相互補完的な概念構造を成す命題ということになる。
まづ仮説のほうから 述べることにする。それは すでに述べているように 世界をおおきく二つに分けたばあい 西欧的とアジア的との二つの社会体系(そのような類型)が存在するというものである。ここでの論点に触れて整理すれば 第一に 西欧的社会体系の系譜にあっては 上に触れたように この《社会主体‐社会学主体》の構造が 《唯一神》の体系として――その唯一神は 《〔イスラエルの〕神》から 《〔人間の類としての実存への〕神》へ 揚棄され そして 時に 《〔類型的に世界史的な〕商品・貨幣・資本(つまり 時に 物神)》として 在る体制として―― 《社会主体=社会学主体》なる統合体系と成って現われる。したがって 《政治主体−政治学主体》の構造も 当然 この体系において 《政治主体=政治学主体》なる統合体制となって現われるという命題。政治主体が 政治学主体を つねに 意識すると見る限りで それとしての 特殊具体的な《民主政》であるだろう。
第二に 日本の情況においては 《社会主体‐社会学主体》構造は 《アマテラス‐スサノヲ》分離連関の体制として そのまま 階層的に分かれ 互いに協業体制を採る《社会主体・政治主体‐社会学主体・政治学主体》なる分離体系の中にある。以上の両面が まづ 仮説の概要である。
後者の日本の情況を さらに詳しく述べたい。いまそれを 歴史的な段階・情況を捨象して 純粋に抽象的に 類型的に把握することがゆるされるならば その範囲内において 次の一節の文章は その理解を容易にしてくれるはづである。すなわち

   結局のところ 市民社会の成員としての人間(* つまり スサノヲ)が 本来の人間とみなされ 公民 citoyen (* アマテラス)とは区別された人間 homme とみなされる。なぜなら 政治的人間(* アマテラス)がただ抽象された人為的につくられた人間にすぎず 比喩的な精神的人格としての人間であるのに対し 市民社会の成員としての人間(* スサノヲ)は 感性的な 個体的な もっとも身近なあり方における人間だからである。現実の人間は利己的な個人の姿においてはじめて認められ 真の人間は抽象的な公民の姿においてはじめて認められるのである。
 (K.マルクス:《ユダヤ人問題によせて》 城塚登訳)

つまり 逆に この叙述が その直接の対象としている西欧社会においては 《公民》と《市民もしくは人間》とが 一人ひとりの個体において 二つの概念として同時に 統一されていると見られるのである。すなわち 《アマテラス=スサノヲ》の統合構造であり 《社会主体=政治主体 = 社会学主体=政治学主体》の統合体系のことである。日本の社会は エートス=ならわしとして 両主体は 互いに分化し その意味で 分業体制を採る。このような比較対照である。

  • なお ここで一言触れておくなら 当然 そのそれぞれの社会体系の土台とも言うべき《経済主体‐経済学主体》の構造を明らかにするという課題が生起する。がそれは いま一つ別の仕事に属すると思われる。《土台》(もしくは 純粋社会学の用語で言えば 《法》とともに 《〈社会主体‐社会学主体〉としての実存の根拠》(つまり 《不法》――たとえば エートスとしての宗教・宗教としてのエートス――)が 同じく 重要な契機を成すのであって そこでいま 純粋政治学としては この両者の契機(つまり 《土台》と《実存》――あるいは《法》と《不法》――)が相い衝突する場 したがって 言いかえれば 両契機をそこで ともに体現しようとする場 そういう内容を持たせた《政治》の領域において また その領域を中心として 社会の情況ないし社会体系を把握しようと試みる。《政治》といったのは したがって 《経営・愛》という《非法》のことである。


以上の作業仮説ないし命題については 次の点をさらに付言しておかねばならない。またそれは 《社会〔主体‐社会学主体〕》構造と《政治〔主体‐政治学主体〕》構造とが 互いにどのような異同を持つかという最初に掲げた点に触れるものである。
したがって 付言すべき点は 次のように言いかえて提示することができる。すなわち 日本の情況における《アマテラス‐スサノヲ》分離・逆立連関の構造は 必ずしも 一見するようには 西欧の《唯一神》構造に対して 哲学=宗教的な意味で 二元論体系を成すものでないという点である。
 いまこの立論には――《アマテラス‐スサノヲ》構造が 仮りに 広く《アジア的》であるとするなら その限りで―― インドにおける宗教理論を借用するのが いちばん良いと考えられる。すなわち一言で結論して言うならば 日本の《アマテラス‐スサノヲ》の構造体系は ヒンドゥーの世界における《ヰ゛シュヌー‐シワ゛》の連関体系において捉えうるというふうにである。つまりここで アマテラスは ヒンドゥー世界の《無常的実存神ヰ゛シュヌ》に スサノヲは 同じく《革命的実存神シワ゛》に それぞれ対応すると考えるということ。すなわち 従って――次の点が 重要なのであるが―― これらヰ゛シュヌおよびシワ゛の両神は いづれも 《非顕現の〔唯一〕神ブラフマン》が 世界に顕現した結果 互いに分かれて存在する二つの契機なのである。
《アマテラス‐スサノヲ》の分離体制にも その両契機の背後に おそらくは このブラフマンに相当する何らかの非顕現の唯一神(つまり 無主体的主体=その意味での社会学主体)が 想定されていると考えるのである。このことが 《アマテラス‐スサノヲ》分離体系が 固定的・停滞的な二元論体系にのみ基づくものでないということの新たな仮説であり 同時に――きわめて図式的に言って―― 《〔ブラフマン〕 / ヰ゛シュヌ‐シワ゛》構造が 《〔唯一神〕 / 社会学主体‐社会主体》のそれを表わすとすれば 《[−] / アマテラス‐スサノヲ》構造は より具体的に たとえば 《政治学主体‐政治主体》の領域を物語るものであると考えられる。(言いかえれば 前者は 後者に比して より抽象的で形而上学的だということである)。もとより 《アマテラス‐スサノヲ》体系に それ自体の中に 〔ブラフマンに匹敵する〕無主体的主体を語る神的世界(シントウ)がないわけではないが ここでは このような予めの仮説に関連して 政治行為の領域を明らかにしようとすることを焦点としたいと考える。
なお いま少し 以上の点を整理しておこう。
まづ《ブラフマン》もしくはそれに代わる何ものかを主神とする《非顕現の唯一神》体系から成る《アマテラス‐スサノヲ》構造に対して 西欧の《唯一神》体系は 〔三つのペルソナにして一つの本質であるという三位一体の構造を持つとは言うものの〕 かれひとり《初めであって終わりであ》り そのかれはまた 《わたしは在るというもの(在りて在るもの)》であるからには 《顕現の絶対・唯一神》から成る構造と言うべきものである。いま おおざっぱに 類型の対比を 図によって示すなら 次のごとく考えられるであろう。

西欧的社会体系

(a) 一般に《社会学主体‐社会主体》の構造として

  • 《唯一顕現神 / アマテラス citoyen =スサノヲ homme 》

(b) より具体的に たとえば《政治〔経済〕学主体‐政治〔経済〕主体》構造として

  • 《資本=社会的諸関係の総和 / アマテラス bourgeois capitaliste =スサノヲ bourgeois susanowoïste 》
    • この原理のもとでの 社会階級階層の関係
アジア的社会体系

(a)

  • 《〔非顕現の唯一神 Brahman 〕 / 保守的実存神 Visnu ‐革命的実存神 Siva 》

(b)

  • 《〔資本もしくは観念の資本〕 / アマテラス Amaterasu ‐スサノヲ Susanowo 》

これらである。以下 ただちにこの点を承けて 本論に入ろう。
(つづく→2008-08-24 - caguirofie080824)