caguirofie

哲学いろいろ

#44

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

付録の二 法(ノリ)の問題

三 わたしは 前提領域(はじめのわたしという視点)において 自由である

第二の論証は 次のように始めることができる。

《普遍法学=ローマ法》によって形成された所有概念においては 所有権は物に対する無制約の 全面的な支配にほかならず 法律や第三者の権利によって外から制限されることがあるにすぎない。
これに対して 《ゲルマン=ドイツ法》においては 所有権は社会法(共同性の構造)的にとらえられ 所有権者は自己の権利の行使にさいして内在的制約に服するものとされる。それゆえ 物に対する排他的支配とか 所有権と他物権との峻別とかいった考え方は ドイツ法にとっては異質である。ドイツ法は 本来同一の物がさまざまの目的のために役立てられること 所有を複数の権利者に分割することを認めるものである。
村上淳一ゲルマン法史における自由と誠実 〈1.《非倫理的》ローマ法と《倫理的》ゲルマン法〉

最初に結論的に言うと 人間の問題としての法の問題 または アイディアにかんする所有の問題を例にとるということ すなわち このようなわたしたちのここでの視点は 仰々しく言って このようなローマ法とゲルマン法との対立をも止揚するものなのである。
村上によれば この《非倫理的――ヤシロ人としての主体の行為から一たん切り離された純理論的な――》ローマ法においても 他面では 所有権が 制限の可能性にこそやはりその本質をも持つとされるということ そしてまたちょうどローマ法のこの両面性と同じように 《倫理的――社会行動そのものに即した――》ゲルマン法においても 一つの他面では そのヤシロの首長(王)の・ノリ(法)としての所有権は 無制限でありうると捉えなければならないと言われる。
後者は 第三の・市民の総意による立法の時代にも 川島の言う法意識的に 第二の・王によるノリの時代の要因が 継承されてありうるということである。極論ではあるが その母斑が継承されてありうる。

そしてもはや ここでは論証をあと廻しにして――そうしても 大方の了解を得られるであろうと思われるように―― 人間の視点・殊にアイディアにかんする所有行為をめぐって 法の問題を考えるとき 両者の法理論は綜合されて 新しい時代の法のあり方を示しうると言おうとしている。
それは簡単に言って 《人間――そのアイディアの主体性――》は ローマ法的に 無制約・無制限であり 《アイディア行為の全般(その権利・義務の関係)》は ゲルマン法的に 本質として ヤシロ的である――個体性を含みつつ(溝をもって含みつつ) なお超えて(前提領域の中で超えて) 共同性を持つ・持ちうる・また持つべきものとしてある――と言おうと思う。
言いかえると これは かんたんなことなのであって ただいまの時代と情況とから ただちにこう言い得るということ。かつては このような立論が まったくの観念的な空論であったものが ただいまでは そのまま現実性を獲得したと言おうと思うのである。換言すると 法の問題として これに対する論証をわざわざ事こまかくするほうが 非現実的なものとなるとさえ言いたいほどである。
ということは これを 個人たるわたくしが言うのは きざで先駆けである また同時に誰か人間によって言われなければならない つまり すでに現実であることを 明確に表明することは 新たな法の問題・アイディアの問題だというわけである。

  • このとき 《究極の決定要因》の問題――その反省的意識――は 直接には必要であるわけではない。

この法の問題について いくらか 素人は素人なりにだが 考えられるべきことは何か これをここでは述べておこうと思う。
《アイディア行為の・あるいは その他もろもろの行為の 主体としての人間》と《人間のアイディア行為の全般(その社会的諸関係)》とに分けるのは 主体の内と外に 文学ないし社会科学の考察を区分することだが 後者が ヤシロ諸連関によって 相互制限的であるからと言って 自由でないのではない。言いかえると 外で相互制約的であることによって 自由・相互発展的でありうるのであって 同じように 前者は 内なる主体性の無制約が 主体たる人間の存在として 有限でないとは言っていないし 言うことはできない。
つまり断定的に言うことになるが このように内と外とに区分するゆえ すくなくともアイディアの共同性の面では――そして それによって 個体性としての自己が自己に到来しうると言おうとするのだが―― 自由として統一されている。したがって 言いかえると共同性の領域に対しては ついに或る溝をもって推移するであろう個体性は 共同性のこのような内外の区分=統一としての自由において 自由な動態として生きる(そこに矛盾が生じないとは言わない)ということなのだ。
つまり 内外の区分は 前提領域内でのそれであったと確認したい。また 言おうと思えば このような前提領域の自乗としての《わたし》の内外の区分は 前提領域内での一つの大前提だと言える。(あるいは 従属概念としての小前提であるかも知れない。)
ヤシロロジにおける法意識全般の分析・研究は この個体性および共同性の自由という小前提に立って おこなわれることによって 資すると思われ 同じく 文学的かつ社会科学的な究極の動因の研究またそのような思惟の折れ返しによる理論は 反省的意識の成果として 主体の自己認識および法意識の実態の分析(解剖)に資するものとなるであろう。
わたしたちは次に あらためてこのマルクシスム法学について吟味しなければならない。