caguirofie

哲学いろいろ

#43

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

付録の二 法(ノリ)の問題

二 わたしにとっての個体性および共同性

法の問題にかんするこのような視点は これまで言われて来なかったわけではなく 争われて来なかったわけではなく しかもわたしたちは新しい視点に立つと言い切りたいので かんたんにそのような既存の議論との対比のうえで いくらか論議をついでおきたい。
まず 次の見解。――

法意識ということばのもとで私が具体的に意味しようとしているのは 法に関係する意識だけではなく むしろ法に関係する無意識的心理状態をも含む・・・。
例示的に説明するなら 或る法律上の制度(たとえば 言論の自由の保護)を知っているか知っていないかだけでなく それをどのような判断わく組み(そのシステムは イメージと呼んでよいであろう)に関連させて知っているのか ということも問題になる。これらを 広い意味での《法的認識》と呼んでおくことにしよう。
また 言論の自由の保護に対しどのような価値判断をもっているのか(どの程度に支持するか しないか)ということのみならず その価値判断の基礎としてどのような価値判断のわく組みをもち またそれと関係させてその価値判断をしているのか ということも問題になる。これらを 広い意味での《法的価値》および《法的価値判断》と呼んでおくことにしよう。
また 法律の規定についての知識や価値判断とは別に 法的統制に関連して政府や裁判所のすることに対して 倫理を超越した反感・憎悪・敵意をもつか或いは好感をもつか というような感情上の態度も 法に関連する行動決定の重要な要素である。これらを 広い意味での《法的感覚》或いは《法的感情》と呼んでおくことにしよう。
(1)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

わたしは これらの《法的認識 / 法的価値判断 / 法的感覚(感情)》の問題を ノリにかんする主体および表現形式の問題として一括する。同じく その主体および表現形式の問題の内容として 歴史的におおきく 神と王と市民の総意の三類型(また段階)またその重層的な構造といった問題の角度のもとに 一括する。
言いかえると 最後の・第三段階にあって それぞれ社会的なノリによる共同自治の虚構の類型が あたかも三つともに含まれ 重層的な構造をなしているといった角度からも 捉えられるということになる。第一の神によると第二の王によるとのそれぞれ虚構は より大きく 無意識の領域でのノリの問題として捉えられないことはない。また 法といった名詞の概念で・あるいは法律条文に対するという視点で とらえるのではなく ――主体および表現行為というように――ノリといった動詞の概念でとらえることが より生産的な議論を提供するであろう。
川島武宣のここに挙げている三つの例示領域が そうではないと言うのではなく このように一括する視点のもとに 法的な認識・価値判断・感覚等の諸領域や問題が 生起しているものであるように思われる。このことは たしかに わたしたちの言う前提領域――人間 いや わたし の視点――を もっと顕揚してよいという議論にみちびかれると思うのである。主体とか動態とかいうことは そこに主観とか私的な自己の動きなどを 少なくとも連想させ 極端に言ってしまえば 公共的な法の問題にとっては もっともその反対の極に位置するように見えるのであるが ここで言いたいことは 法のために人間があるのではなく 人間のために法があるという当然のような議論である。
わかりやすく――川島の見解とのちがいを――言うと 《日本人の法意識》が問題・課題なのではなく 法意識や法の問題の主体で捉えた《日本人 要するに 人》がそうだということなのである。
これは 言葉のすり替えなのではなく 人間にとってアイディアということがそうであるように 法ないし法意識というとき すでに その主体・人間が問われている――そうでなければ アイディアにかんして その所有行為または所有権などという法の問題は 起こらないであろう 起こったとするならば すでにそこに 主体・人間・いや わたしという視点が 前提されているはずなのである―― また 当然のようにこのことが 実は 事のすべてであるという前提に立つことが出来るということなのである。

  • この・あとの前提は はじめの・人間という視点という前提のいわば自乗であると言っておくことができる。言いかえると ここで言う法の問題とは 《わたし》という前提視点のつねに連乗積が 生活として・つまり動態として 課題であり事の本質だということだといえる。

逆に言うと この前提は 法などどうでもよいという観点を含みうるが 《日本人の法意識》といった主題を立ててしまうと 人間が法の視点をめぐって 全体として捉えられるのではなく 法が人間の視点からそれとして(または ヤシロロジとして)捉えられると考える。もちろん 当否の問題ではなく わたしたちの視点を そのように明らかにするのである。微妙な差であるが この差はおおきいと思う。
次に川島はただちにこのように述べている。

法意識の意味について 注意しておきたい第二の点・・・。それは 意識が《法に関係する》と私が言う場合には 《意識》が 単に せまい意味での《法律》――政府・立法機関あるいは裁判所が国民に向かって伝達する命令――に関するものだけでなく せまい意味での法律の現実の機能に関連をもつ社会行動の決定要因となるものを含む ということである。
日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

こうなると ことは ほとんど同じであるように思われる。問題は 法としてのアイディア アイディアとしての法が 仮りに それにかんして 人(主体)→アイディアの想起→共同性の獲得(立法)→人(主体)といった過程を描くとすると この過程の全体として・そのものとして捉えるか つまり なお人間として捉えるか それとも これを法意識の問題として・つまりヤシロロジの一研究として捉えるかの違いにあるように思われる。細かいことのようであるが 人間にとっての法意識の問題と 法の問題としての人間の問題とは ちがうように思われる。
前者は 近代市民のヤシロロジの一領域として 専門的であり 後者は 法の問題を取り上げ ヤシロロジを包括的に文学(人間)の視点から論じようとしている。

  • 論じる前にすでに そのように生活している から ヤシロロジの起こりの時点に つねにどこまでも 立っている。また この前提領域を出ないで 必要ならば 法学あるいは法意識にかんする研究等ヤシロロジを取り入れていく。

したがって 《法律の現実の機能に関連をもつ社会行動の決定要因となるものを含め》ての法意識を 研究するのではなく 法律の現実の機能とはいったい何かが つねに最後まで すべての関心事なのである。これが われわれの言う法の問題であり むしろ法学というヤシロロジも これに対して 研究すべきだとも考えられるのである。法律の作成や運用にも このような構造的な視点が採用されるべきであって わかりやすく例示すれば 条文の体系(個々のあるいは全体の)じたいに たとえばこれらの条文は 時によって現実に機能させないことがありうるという法意識を盛り込んでいるべきではなかろうか。
これは 主観の問題であり それはたしかに恣意的な操作を許容しうるが むろん この《現実に条文を機能させない》という判断も アイディアの共同性の上にのみ成り立つ。また だからこそ 法の問題が すでに一人の人間として社会に生まれ落ちたその瞬間から 主体つまりわたしの問題として そして決してそれ以外の問題としてではなく 始まっている。これが 言うところの《自由》なのである。法学も実は これを志向しているのであるが 従来の考え方によるばあいは すでに言ったように これを――前提領域から離れて――超越的に志向している。
川島は《社会行動の決定要因》といったことにかんして さらになお次のように始めて それに対するありうべき批判に答えようとしている。

私のこのような焦点のおき方に対しては 現実の法現象を決定しているのは終極においては社会の物質的な諸条件(生産力および生産関係)であり それに焦点をおかないで意識に焦点をおくのは 社会現象のもっとも重要な決定要因を無視ないし軽視するものだ という批判が加えられるかもしれない。しかし 私はここで 人の意識だけが社会現象の究極の根元的な決定要因である と言っているわけではないのである。
日本人の法意識 (岩波新書 青版A-43)

川島の議論については もはや詳論しないのであるが わたしたちのほうの問題のありかは このつてで言うと 社会現象や社会行動の究極の決定要因を考察することではなく はたまた それによって説き明かされた一つの理論(このばあい いわゆるマルクシスム)に立って 社会行動や現象を 法の問題として 分析し明らかにしようとすることでもない。
もし 一方で 法律の条文の有無さえどうでもよいという観点がもたれうるとするなら 他方で 社会行動の究極の――なぜなら それは ついに 主体の・アイディア行為に意志的に直接かかわっているのではなく 究極のというように 反省的意識において直接かかわっているであろうような――決定要因 これも どうでもよいという観点が(むろん 法意識の問題を排除しなかったように こちらの行き方も排除するためのものではないが) 成立さえしうるというような 主体的(意志的)視点に立つ また言いかえると 主体内構造としての視点に立つからである。このとき 究極の原因を究明することと 法の問題にかかわって 主体のヤシロ的行動を自由におこなっていけるようになることとは 一人の主体にかかわる限りで 別である。
反省的意識は あの主体(わたしという存在)の――前提領域における――連乗の過程に対応しているかのようである。しかしながら この思惟の折れ返しは 意志の連乗なのではなく わたしという前提領域(そこに直接の意志がある)のもう一つ以前の大前提領域でのそれなのである。一般に 近代市民(一般にキャピタリスム)の法学が わたしという前提領域を 抽象的に 超えて 共同自治のための普遍的なノリの体系をこしらえようとしたとすると このマルクシスムの法学は わたしという前提の大前提領域へ あたかも主体の場を移して すすんだと言える。
いづれも わたしが連乗されるのではなく 一方は 抽象的普遍の超越的なノリとしてのわたしが 他方は わたしの存在や社会行動の究極原因つまり大前提領域に対する思惟(意識)の折れ返しが それぞれ連乗され 一方は可変的に他方はむしろ固定的に 再生産されてゆく。
しかしわれわれは 自己を・このわたしを再生産し 再形成しようと欲するのである。この主観的な動態(生活・人生)が それとしてすすむのであって また この主観に発するアイディアの所有行為が 共同性を持ち共同性の中に生きることを欲するのであり それは 一方で《わたしたち》の抽象普遍形態をあたかも《前提》とすることによって超越的なノリの共同性の中に生きることを 第一義だとは思っていない――そうなると 《ぬすんではならぬ》とノラレたから そうするということになる―― 他方で 《わたしたち》の大前提領域を意識的反省によって捉えた思惟の共同性が そのままアイディア所有過程の共同性であるとは思っていないし ついに思えないことを意味するであろう。
後者は 《〈人は盗んではならない〉というのに かれは なぜ 盗んだか》などと このような意識的な反省をついに生涯をかけて 理論的再生産して終わるであろう。また この思惟の折れ返しによる――その連乗積が それとして 共同性をもったものによるところの――主体の問題の把握は 盗む・盗まないの主体的行為にかかわりなく すすめられるであろう。盗む・盗まないの主体のその大前提を問題としているのであろうから。
ところが 大前提も超越前提も このわたしという生きた前提領域においてすでに始まっている。アイディアの共同性は すでにわたしという個体性においてすでに始まっている。個体性および共同性という互いのあいだに溝がある両境域が むしろ矛盾なく過程されるということは おおきな謎である。しかし この前提領域から 主体の場を移してすすんでしまうというのは 人間にとって もっと 不思議なものなのである。
これが 第一の論証である。
(つづく→2006-10-31 - caguirofie061031)