caguirofie

哲学いろいろ

#42

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

付録の二 法(ノリ)の問題

一 人間 いや わたし という視点

法(のり)という問題を 広く そして ヤシロ資本のオモロに関連してかんたんに考えてみようということである。
オモロという主題にちなみ 思惟という行為のつながりで アイディアの所有にかんする法というものを 例にとることにしたい。
アイディア(良心・信教あるいは思想・表現行為)を人が所有するとは どういうことか。その自由とは どういうことか。形として表わされたアイディア(たとえば著作物)を所有することの権利とか義務とか そのような実態――つまりこれは すでに 生活の実態ということと 変わりないはずであるが――とは どのように過程されているものなのか。
たとえばわたしは 《のり》という概念(アイディア)について考える。アイディアを所有するということにかんする《のり(法)》というそのアイディアについて考える。
問題を 社会(やしろ)的なことに限定することは 当然だと思うのだが 一般に法律による共同自治というとき この《法》というところを《のり》という言葉で置きかえてみると どういうことを考えることができるか。


たとえば《盗んではならない(剽窃の禁止)》というノリの内容が問題であるだろう。また 《の(宣・告)り》と言うのだから――言う限りで―― だれがノルのか。同じことで だれがノラレルのか。要するに そのノリは誰のものなのか。さらにそして はじめに言ったノリの内容ということに関して その表現の仕方の歴史的な変遷――細部にわたっては内容じたいの変化も考えられるであろう――の問題。


たとえば或る人が 《人はぬすんではならぬ》というアイディアを持ったとする。そうして このアイディアが 人びとの間に共同性を持ったとする。

  • すでに はじめに 共同性を持つものとして アイディアされたのだとする。
  • 問題を ヤシロ的なことに限定するといったのは この後のばあいをいまここで扱うということである。この後のばあい(=共同性)とその前のばあい(=まだ個別性にとどまるばあい)との間には およそわたしたちが死ぬまでかかって解き究めなければならない溝があるであろう。しかし この点を説き明かさないでも 事を 人間のヤシロ的な側面に限定しうるというのは 次の理由による。一つに技術(もしくは 芸術)的に言って 人間の社会は 掟などとなるべき(そうなっている)アイディアの共同性を持ったときから 歴史が始まったと言って差し支えないだろうから。言いかえると もう一つに すでにそのように歴史が始まっているのだから 人間は仕方なくその社会的な側面において 表現による伝達をすすめて行くということではなく このヤシロ的な共同性の面においてそのまま表現をすすめつつ およそ同時に 個体性の側面にも人は言い及ぶことができるから。
  • つまり 先に言った溝がそれによって埋められるからということではなく 溝を持ったままでも 個体的であり同時に共同的でありうるというのが またそうでなければおそらく何も始まらないであろうというのが 法の問題の固有の問題としては 暗黙の前提(公理)であろうから。

つまり 人びとが 《人はぬすんではならぬ》というアイディアを持ったとする。法の問題は これをめぐって 誰が どのように 誰のために 表現するかにある。表現には そのあとの解釈や変革・改正をも含める。ここでは《どのように》だけではなく 《誰が・誰のために》という主体の問題を取り入れ これを取り上げることが 主題の中心である。

  • つまり ここでは 法学等々の理論を期待されても困る。
  • 文学者は これを 法の問題としてではなく しかもその共同性を抜きにせずに かつ個体性の次元を基軸として 実態(生活)として考え 文学・芸術作品というかたちで表わしていく。いまは 法の問題 言いかえると 社会科学(やしろろじ)の視点を考察しようということである。
  • もちろん 文学の視点を 度外視することではない。オモロ・思惟・アイディアというとき たしかに そこから発しているから。つまり 文学(社会思想)が 社会科学を別ものとしないように 社会科学も文学を別個のものとして扱うということにはならない。したがって このことは ここで法の問題というのも 逆に言って 文学そのものとして描こうとするのでもなく また 社会科学そのものとして論じようとするのでもなく 文学の視点から社会科学を論じようということになるかも知れない。どうもそのようである。
  • さらにつまり 《社会科学の視点》というとき そこに同時に《文学の視点》を前提にしているはずであり この前提領域を――上に言ったように―― 《主体の問題》として 考察しようということである。全体として言いかえると 誰が 誰のために この共同性たるアイディアを どのように表現して 宣るかという原則的な問題を それのみを 扱っておきたいと思う。


表現形式の問題は いま措くことにしよう。

  • 《ぬすんではならぬ》と 直接に言葉にして表現するか。或る種の仕方で 慣習的に禁忌・黙契としてすでに掟なら掟としてアイディアの共同性が形成されており 形成されているところへ これの違反があったときに この掟の運用(司法)をめぐって 表現の問題が生じるか。またはそのとき その前に暗黙のうちに表現(行動)の問題が どのように生じているのか。あるいは ただ違反に対する罰則を決めておき これをもって法の表現形式の問題の全体的な基本とするか。などなど。もっとも これらは 次の表現の主体の問題と本質的にかかわっていると考えられる。

つまり まず 法の問題としては その主体の問題 言いかえると 誰が誰のために――または 同じことで 人間が自己のために 誰によって――宣るかについて省察しておこうと思う。

  • この理由によって――歴史的な発生の順序とは逆であっても―― 無体財産権などと言われるアイディアの所有という事柄を例にとることができるかも知れない。

ここでまず 次のような一出発点を確認することができる。およそ法は 人びとが 神もしくは王によって 共同性があると信じられたいくつかのアイディアを宣らせたものであると。もし現代において 人びとの代理もしくは代表たるいわゆる市民政府(もしくは議会)が 法を立てるというのが一般であるとすると 基本的には人びとが この出発点における神ないし王を ヤシロ形態的に揚げて棄てたのだと捉えよう。
言いかえると その非連続性(棄てたということ)の面ではなく なおはじめの出発点の継承(揚げて保っているという連続性)の面から捉えると このことは あたかも 人びとがそれぞれみな 神もしくは王となったということを意味するかのようである。(神は死んだということも そのような内容を逆に持ったとも考えられよう。)したがって 近代市民的なまたは現代的な 法によるヤシロの共同自治という生活の様式。まず きわめて抽象的・静態的に整理してみて このように。


神によって始めたというのと 王に宣らせることによって始めた(――もちろん このときには そのような昔のノリの形態を いま 読み替えていることになる――)というのとでは これらを同じ一つの時期の出発点とすることは 難しい。それは 人びとのヤシロ共同自治の形態として いわゆる国家が生起したか否かによって 明確に区分しなければならないであろう。そうすると同じく 市民(もしくは 現行のアイディアによると 国民)の総意によって宣るという法のあり方の段階では これら先行する神もしくは王による出発点の段階とも 明確に異なってくるとも言わなければならない。
逆に言うとしかし 王によって宣るという一段階においても 神(ないし宗教)によって宣るという側面が見られないのではないことによって 現代の市民による立法の段階においても 広い意味での法という点にかんして 神や王(またはそれぞれの社会のナシオナリテ)のノリという側面が 除外されてはいない(まったく 消滅してはいない)かも知れない。つまり 法は その条文のみではなく 広く生活のあらゆる領域での実態(または言いかえて 主体)の問題だということを意味させていなければならないかも知れない。
そもそも アイディアの共同性とは 生活の全領域を覆い尽くすと言わないまでも むしろ固定的な条文によりは 動態的な過程にその実態があり アイディアじたいではなく それを所有し生きる主体が問題となっていると押さえておくのことは 普通のことがらであるとも考えられる。また すすんで この主体には かれ自身に 代理や代表としての神や王や市民政府(議会)がむしろ含まれているのが 一般である。神というばあい ここでは 神という一つのアイディアとして――それは乱暴だが―― 言っている。
王は その社会にとってそれぞれそのナシオナルなものであるし 神(宗教)は ナシオナルなものでありえ 一個のナシオンの中に今では王がいなくとも その市民の総意は ナシオナルなもの(ナシオナリテ)と相即的でありうる。言いかえると 市民の総意による立法というときも 神によると王によるとがそれぞれ一つの虚構(そのような共同自治のためのアイディア形態)であるのと同じように おおきく社会的な一つの虚構をかたちづくっていると言いうる。ただし これら三者のばあいを比較してみると 最後の 市民の総意によるのほうが より多く――という量的な比較はおかしいとも言わなければならないにせよ―― 人びとの真実を明らかにしており それはいわゆる歴史の発展という考え方で捉えられるもののようであると言っておくことが出来る。
いまきわめて図式的に 王による諸アイディアの宣告という法のあり方を 国家による段階だとすると 神によるばあいが 国家以前のそれであり 市民の総意によるばあいは 国家の形態的な移行の現段階に相応すると考えたほうがよいのかも知れない。しかも 上に言った観点を綜合すると まずここでは ノリにかんして歴史の連続的な継承性の面に焦点をあてて 考えてみたいと思っているのである。




ノリという言葉じたいのアイディア性について考えると言った。この点にかんして そもそも日本語の《のり》ということば自体 次のような意味において使われると考えられている。

のり[宣・告・罵り]

  1. 神や天皇が その神聖犯すべからざる意向を 人民に対して正式に表明するのが原義。
  • 転じて 容易に窺い知ることを許さない みだりに口にすべきではない事柄(占の結果・自分の名など)を 神や他人に対して明かし言う意。
  • 進んでは 相手に対して悪意を大声で言う意。

大野晋岩波 古語辞典 補訂版

わたしたちは このノリを (一)神に語らせた (二)王に語らせた (三)人びとの代表に語らせたというふうな経過として捉えたが 上の・言葉としての三つの意義は いづれも 個体に発する生きたアイディアがヤシロ的に共同性を持つことのその秘密を語っているもののようである。もちろん 三つの意義それぞれが わたしたちの言う三つの段階と複雑なかたちで 相応すると言わなければならないように思われるのだが (1)の《神聖犯すべからざる意向》であるとか (2)の《容易にうかがい知ることを許さない みだりに口にすべきでない事柄》であるとかの性質が この個体性と共同性との間の溝の存在にかんして語っているもののようである。
それは (3)の《ののしる》といった表現のかたち・その意義にも 消極的にであれ 現われているもののようである。また これらのことが そのアイディアのノリとしてのあり方について 連続性の面あるいは生活の全体性の面を語っているもののようであるだろう。
言いかえると いまは 人びとがその代表として語らせるという国家の形態移行の段階に立って(――そのための基礎的な理論を ここでは用意していないが――) 考察しなければならないと思われ そのとき 上のような連続性ないし生活の全体性の面を考慮すると 今度は 誰が誰に対して宣るかという問題は 宣られた条文じたいに関してではなく その条文の成立の前後の過程における 主体とノリとの関係の問題に移行するようである。
実際 そうであって このことは逆に このように移行した問題の観点から このノリの表現形式があらたに考えられなければならないことを要請するかのようである。

  • 条文としてのノリの整備が このような歴史連続性および生活全体性の面をすべて覆うことができるなら そうではないであろうが いまは そうではなく 覆うことの出来ないということを前提として考察をすすめて行こうと思う。そうでない方向つまり覆い得るのだというもう一つの仮説的な前提を 合わせて考えなければならないであろうが ここではいくらか前文の意にかたむいて話しをすすめてみたい。

市民の総意によってという虚構の中でであるかも知れないにしても ともあれ立てた法が ノリである性質の歴史的な継承性の側面からは そして同じくノリという性質の生活全体的な側面に立つならば 神や王といういわゆる共同観念との関係〔(1)〕において そしてむしろ犯すべからざる個体性との関係〔(2)。そして(3)はそれを消極的にだが反映している〕において つねに捉え返されているものでなければならないであろう。


実際そうである。《アイディアを盗んではならない――つまり 他人のアイディアを そのまま自分のものであると偽って おおやけに用いてはならない――》のであるが しかも 生活の実態に即するなら アイディアをぬすむということは 日常茶飯事なのであって それは決して 条文としての法の問題に帰して考えることが出来ない性質のことがらに属している。
また ぬすまれたアイディアが 当のアイディアの制作者ひとりの制作によるものでないことは 事の実態として 法の主体の問題である。つまり 法(法律)の問題が ここからすでに始まっているという観点を ここでは 前提し この前提領域で論議しておきたいというのが はじめからの意図であった。あるいは 王や神(神を抱く人々の指導者)によって 《ぬすんではならない》と宣られたから この法が守られるとか現実に生きるとかという性格のものでもない。それは 本質に関係ない。そしてこのように言うことは たしかに 主体の問題を含んでいる つまり 王や神(宗教者)などが ひとり 主体であって 他の人びとは主体でないとは言えないから。
この言えないというのが 現代の課題であり 課題の前提なのであるから。つまり このように持って回った言い方をするような前提領域がたしかに存在すると分かっており しかも 法の問題を この前提領域から別の領域へすすんで 主体の場を移して ヤシロロジするというのではなく この前提領域じたいで主体であるわたしが滞留する 滞留しつつ社会的にすすむという議論がたしかに成り立つはずだ。成り立つという前提を共同性とするだけではなく 前提じたいが アイディアの共同性として すでに法の主体の問題を言っており しかもそのすべてだというのが ここでの結論的な主張なのである。
なぜなら 王や神(宗教者)やナシオナリスムが 法の主体の問題をすべて担うとき そのように 強固な共同観念(幻想)となって 人びとを自由にしなかったとき ノリに対して ののしるという事態が発生した。ナシオナリスムや王や神によるノリの時代が去って 市民の総意による立法の時代に至って ののしりというノリが消えてなくなったのではない。これが 正当な(共同的・公共的な)ものであるか不当なものであるかは 共同性の場で争われなければならない。このとき しかしながら われわれは この市民の意志によるという第三の段階も 依然 社会的な虚構(もちろん いい意味でだが)の上に成り立っているものなのであると見るからには ノリ(ののしるをある意味で含む)の合法・非合法の分かれ目を この虚構としての多数決に一義的にまかせてしまうわけにはいかない。また まかせてしまうわけではないから 虚構としての多数決が 時に有効なのである。
こう考えると ノリと主体との関係の問題は ノリを含む社会的な虚構に対する主体的な判断の問題であるとなる。
実際そうであって 言いかえると このような歴史(生活)の視点に立つと たとえばこのアイディアの所有行為に関しての法の問題は いったいどこにあるのか これが問われるべき課題のように考えられるのである。ここからは ただちに 主体が動態であって 動態的なこの主体がすべてであるという法の問題の新しい視点が すべてをつらぬいていなければならない。拙速して この問題はたしかに重要であるが この前提領域とは別個に 法律条文の整備も重要であると言って 主体の領域を移り去ることは出来ないのである と結論づけなければならないかのようである。
実際そうなのであって このとき初めて 法律条文の整備が 社会的な虚構の中の一環として執り行なわれるということになる。法律の専門家とはむしろ この前提領域をどこまでも外さないことに生命をかけるような人びとなのである。また そのとき初めて 不首尾を承知の上で次善の策によるとか 人間的な意味での妥協を余儀なくされるといった動態的な過程が 共同性として生起して来る。この前提領域を いつどこででも言っていて構わないわけである。生命をかけるとは この愚かさをつらぬくことに対してなのである。悲愴な覚悟で 法律条文に忠実であろうと努めるといった法の問題とは 無縁なのであるし またそうでなければならないのである。
この当面の帰結は もちろん法の問題の全部を覆うべくもないが 問題を縮小させたとか拡散させたとか ましてや あいまいにするものであるとか そういうことにはならないであろうし また 或る種 超越的な議論であるというふうにもならないであろう。むしろ この議論のほうが 此岸的で実利的でさえあるのであって むしろこれまでの法学の理論のほうが この前提領域を あたり前であるとしてしかも容易に離れて そうではなく現実につくべきだなどと言って かしこい議論をするとき それが 現実という名の或る種 夢のなかでの超越的な議論なのである という批判は 一度は 免れることが出来ないと言いたい気持ちにかたむくのである。この幼稚さが 現実なのだと言いたいのである。されど 現実(もしくは 夢)はきびしいという反省(思惟の折れ返しである) これが ぬしろ超越的な賢い議論なのである。(このような夢なり幻想なりとして捉えざるを得なくさせているかのような現実は いまの段階での現実であって それは タカマノハラ・デモクラシなるオモロのもとにあるからだと言いたい気持ちがある。)わたしは何か非科学的なことを言ったであろうか。付論であるという条件にのっかって 言いたいだけ言っているという反省は わたしたちのものでなければならないが。
このような意味で 《ゑけ あがる三日月や》の史観が 主体の問題として 法の問題にもつながっているし つながっていなければならないと考えた。以下の節で いくらかを具体的に――。
(つづく→2006-10-30 - caguirofie061030)