caguirofie

哲学いろいろ

#19

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第八歌c やうら やうら やうら ゑおい

〔まずここまでとしよう。この後 いわゆる古墳時代がつづく。また 形態としての国家が 確立されることになった。〕
ここでは――これまでの仮説は―― すでに触れたように 次の祝詞なるオモロを参考にして 観想と吟味をおこなったものである。

タカマノハラに神留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市八百万の神たちを神集へ集へたまひ 神議り議りたまひて 

我が皇御孫(すめみま)のミコトは トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ

と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に 

誰(いづ)れの神をまず遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘(かむはら)へ攘ひ平(む)けむ

と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量り申さく

第一の使い:アメノホヒのミコト

アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ

と申しき。
ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。

第二の使い:タケミクマのミコト

次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。

第三の使い:アメノワカヒコ

また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。

第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト

ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。


かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱太敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐す皇神(すめがみ)たちは 
荒びたまひ健びたまふ事なくして 
タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷り出でまして 

吾が地と領(うしは)きませ

と たてまつる幣帛(みてぐら)は 
明るたへ・照たへ・和(にぎ)たへ・荒たへ(織物)に備へまつりて 
見明らむる物と鏡 翫(もてあそ)ぶ物と玉 射放つ物と弓矢 うち断つ物と太刀 馳せ出づる物と御馬 
御酒(みき)は 甕(みか)の腹満て双べて 
米(よね)にも頴(かひ)にも 
山に住む物は 毛の和(にこ)物・毛の荒物 
大野の原に生ふる物は 甘菜・辛菜 
青海の原に住む物は 鰭(はた・ひれ)の広物・狭物 奥つ海菜・辺つ海菜
に至るまでに 横山の如く几(つくゑ)つ物に置き足らはして 奉るうづの幣帛(供物)を 皇神たちの御心もあきらかに 安幣帛の足り幣帛と平けく聞こしめして 祟りたまひ健びたまふ事なくして 山川の広く清き地に遷出でまして 神ながら鎮まりませと称辞(たたへごと)畢(を)へまつらく

と申す。
(《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞》)

古事記 祝詞 (日本古典文学大系 〈1〉)

古事記 祝詞 (日本古典文学大系 〈1〉)

このノリトは はじめにすでに《タカマノハラ》を想定しており それ以前のオボツカグラ派(その連合)のヒミコ体制を揚棄している点・過去のものとしている点に まず注目しておかなければならない。第二に 新しい――征服王朝であれ――タカマノハラA圏の人びと・すなわち《皇御孫》たちと それ以前の・かれらの祖としての《皇神(すめがみ)》たちとが 認識されている点。国家構想のオモロの共同主観的形成者が 皇神たちであり その構想の中のタカマノハラを形態的にアマテラス圏として打ち立てたさらに新しい按司添いらが 皇御孫であると考えられる。
両者は

  1. もともとのヤマトの人びとによって一本の線として になわれた
  • ヤマト原日本人の皇神たちの後を 第三のスサノヲらが皇御孫として襲った
  • いや もともと 両者とも第三のスサノヲらの固有のオモロ構造であった

いづれかの線が考えられるであろう。
このノリトのオモロ主体は 一方で 《皇御孫たちは 皇神たちのオモロ原形式の意を心得て やしろ共同自治のアマテラス主宰者たれ》と言い もう一方で このとき《皇神たち・つまりむしろ 原日本人スサノヲ共同体=トヨアシハラの一般市民たちが 祟りたまひ健びたまふ事なくして(叛乱・革命を起こさずして) 共同自治されるセヂ連関が 神ながら鎮まって 動態となれ》とうたっている。
また すでに西日本(《大倭》)と東日本(《日高見の国》)とのヤシロ連関を 一つのナシオナリスムとして築き終えた・核分裂し終えたところで うたっているとも考えられている。
あるいは ちなみに イヅモの言葉のなまりは いまでも東北地方(一般に ここでの東日本)のそれと同じようであり これらは 沖縄の言葉ないしオモロ構造と 通底するものがあるとも考えられている。ただ このばあい 沖縄は 前二者ないし広く日本とヤシロ連関を持たないかたちで 数世紀を独自に経て来た。いまでは これら全体の日本のヤシロ資本連関が 総合的に認識される必要がある。
これらにかんして まず一段階として 吟味しようとしたのが 以上の試論である。ひとつの結論は 皇神たちと皇御孫たちとの関係またはその実体(つまり いづれの人びとであるか)について それは どうでもよいということ つまり 明らかになったなら――明らかにされるべきだが――明らかになった時点でそのつど 初めのヤマトの仮りに想定したミマキイリヒコの国家構想オモロ(オホタタネコ・デモクラシ) これを継承し発展させていけばよろしい。
騎馬民族説の主張者・江上波夫も 《大和朝廷ができあがったころには 騎馬民族といっても すでに実質的には倭人になっているのです》(《〔森浩一との〕対論 騎馬民族説》3)と言っている。ただ 《ただ 文化とか経済は なるべく土着の人に任せて 自分たちは軍事と政治と外交だけを握っていたのです。このやり方は 意外に長く 大化の改新までつづいています》(同上)というだけではなく 現在にまで形態としての国家のもとに一般セヂ連関が そのようなかたちで征服のまま続いているとしたなら これにかんしては すでに現代において 日本人はこの第三のスサノヲの系譜をすっかり包囲してしまったと言わなければならない。言ってよい。その上で 初めのオホタタネコ・デモクラシのオモロ構造を継承・発展させて行くべきであろう。
わたしたちは すでに大胆に 形態としての国家 その下の観念の資本制の時代は 終わったとオモロすることができるであろう。なぜなら 初めの国家構想は そのタカマノハラ要因が 仮りのものであったのだから。言いかえると タカマノハラは 自己目的となることなく S圏の市民生活のための要因であったのだから。また具体的に オホタタネコ・デモクラシの現代における継承は 自由都市連邦ではないかとわたしたちは 示したことになる。
なお アイヌは 観念の資本としては このオモロ構造の圏外にいたと考えられる。今に 原日本人的なあるいは日本人的なオモロを そのアイヌのヤシロ資本連関が保っているとするなら これは その後の核分裂連関(征服)過程で アイヌのほうが ヤマトのオモロを取り込んだものと考えなければならないであろう。初めからアイヌが 原日本人・縄文人として存在した人びとだとするならば この日本人のオモロ構造が 祟り神の遷却の思想・タカマノハラ主義・排除の論理を つまりそのような核分裂・核拡散を 始めたとき 逃げなかったと思う。事実は逃げたことになる。異民族だったからのように考えられる。それとも 純粋にこのときすでに反核のオモロを貫いて 原日本人のヤシロ資本連関を最後まで守りとおしたというべきであろうか。
ただ 沖縄の人びとは 地続きではなく(アイヌも 北海道としては そうであった) 反核を訴える必要なく自分たちで初めのオモロを展開して行ったが またその後 日本に入ったわけだが そのように日本とヤシロ連関を持つようになったときには ともあれ基本的に互いのオモロの通底性を捉えていたであろう。言いかえると アイヌのように 取り替えばやする必要はなかったであろう。もしそうだとすると 一方で アイヌの場合は 独自のヤシロ資本連関として いわゆる少数民族として 生きてゆく道が問い求められなければならない。沖縄のばあいは まったくの日本人としての問題である。
すなわち アイヌの独自性の行き方は まず ヘグリ・ヤマトのヒミコ連合派と異なり イヅモの開放的沈黙とも カヅラキ・ヤマトの独立派とも ちがう。後の三者――その中で イヅモは ミワ・ヤマトと同致できるかも知れない――が ミマキイリ日子(A)按司添いの つまり オホタタ根子(S)・デモクラシのオモロ共同主観を持ったと考えられる。もし 騎馬民族=第三のスサノヲがやって来たとするなら このヤマトの共同主観に取り入り おおいがかぶさったのであると思われ もしアイヌが日本人と同源であると仮定するなら 逆にヤマトの共同主観の外に出たのだと考えなければならない。もし初めのヤマトの共同主観が 第三のスサノヲのおおいかぶさりによって 共同観念タカマノハラ主義ナシオナリスムになったとするなら それは ちょうどアイヌのように しかしこの共同主観セヂ連関の中に 被差別のスサノヲ者を作っていったという事態に現われる。そうでなかったかも知れないし そうであったかも知れない。
ナシオナリスム共同観念による共同自治の秘儀が そこにあると言おうと思うのである。つまり 第三のスサノヲとアイヌとは ちょうどこの日本のヤシロ資本連関において それぞれ内の天頂と外の民として 両極のオモロ主体であると言うことができるであろう。ただし アイヌが独自の少数民族であるときには まったく別の考え方が おおきく互いの愛のセヂ連関として展開されなければならない。あたかも そのつてで同じように 第三のスサノヲの侵入もなかったかも知れないという可能性もありうる。あたかも ヤシロの総体的な構造において その天頂をなすかの人びと・そういう位置関係 これはただ 初めのオモロ共同主観(ミマキイリヒコ共同自治市政)が 幻想化し共同観念のその意味でのまぼろしの核となっていったにすぎないものであるかも知れない。
つづいて この問題にかんれんしつつ 考察していこう。

  • さらになお ミワにある箸墓古墳が ヒミコのものであるとする場合には ヒミコのヤマトは ヘグリではなく ミワとなるかも知れないなど こういった歴史学的事実の措定にかんしては 明らかに仮りの想定で議論してきた。
  • あるいは にもかかわらず ノリトの中のタケミカヅチなどの派遣が 朝鮮半島からのものではなく 日本国内のどこか王朝のそれであったとしても くにぐにの諸按司のあいだのオモロの接触関係の展開の問題として 大筋は以上述べたように議論しておくことができると思われる。

(つづく→2006-10-07 - caguirofie061007)