caguirofie

哲学いろいろ

くにゆづり

 国ゆづりをするに到るまでの経過は 要するに《アマテラスの国に従え》という服属の要求があったということです。たとえば 次のように全権大使もしくは軍隊が何回かに分けてやって来ました:

    〜〜〜

 タカマノハラ(=アマテラス国)に神(かむ)留まりまして 事始めたまひし神ろき・神ろみのミコトもちて 天の高市八百万の神たちを神集(つど)へ集へたまひ 神議(はか)り議りたまひて 

   我が〔* アマテラスの〕皇御孫(すめみま)のミコトは 〔* スサノ
  ヲの〕トヨアシハラのミヅホの国を 安国と平らけく知ろしめせ(統治せ 
  よ)

 と 天の磐座(いはくら)放れて 天の八重雲をいつの千別(ちわ)きに千別きて アマクダシ寄さしまつりし時に 

   誰(いづ)れの神をまづ遣はさば ミヅホの国の荒ぶる神どもを神攘
  (かむはら)へ攘(はら)ひ平(む)けむ

 と 神議り議りたまふ時に もろもろの神たち皆量(はか)り申さく

   〔* 第一の使い:アメノホヒのミコト〕
   アメノホヒのミコトを遣はして平(む)けむ

 と申しき。
 ここをもちてアマクダし遣はす時に この神は返り言申さざりき。

   〔* 第二の使い:タケミクマのミコト〕
 次に遣はししタケミクマのミコトも 父の事に随ひて返り言申さず。

   〔* 第三の使い:アメノワカヒコ
 また遣はししアメノワカヒコも返り言申さずて 高つ鳥の殃(わざわひ)によりて 立ちどころに身亡(う)せにき。

   〔* 第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト〕
 ここをもちて天つ神のミコトをもちて また量りたまひて フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト二柱(ふたはしら)の神たちをアマクダしたまひて 荒ぶる神どもを神攘ひ攘ひたまひ 神和(やは)し和したまひて こと問ひし磐ね樹(こ)の立ち・草の片葉も語(こと)止めて 皇御孫のミコトをアマクダし寄さしまつりき。


  かくアマクダし寄さしまつりし四方(よも)の国中(くぬち)と 大倭(おほやまと)日高見の国を安国と定めまつりて 下(しも)つ磐ねに宮柱(みやばしら)太(ふと)敷き立て タカマノハラに千木(ちぎ)高知りて 天の御蔭・日の御蔭を仕へまつりて 安国と平らけく知ろしめさむ皇御孫のミコトの 天の御舎(みあらか)の内に坐(ま)す皇神(すめがみ)たちは 

  荒(すさ)びたまひ健(たけ)びたまふ事なくして 

 タカマノハラに始めし事を神ながらも知ろしめして 神直び・大直びに直したまひて この地(ところ)よりは 四方を見はるかす山川の清き地に遷(うつ)り出でまして 

  吾が地と領(うしは)き(おさめること)ませ

 と たてまつる・・・
   (《祟(たた)り神を遷(うつ)し却(や)る》――《祝詞(のりと)》)
 
    〜〜〜

 ☆ 古事記には《第四の使い:フツヌシのミコト・タケミカヅチのミコト》が スサノヲ側と腕相撲をしたとも書いています。
 スサノヲ側は すでにオホクニヌシの代になっていて オホクニヌシは ふたりの息子と相談すると答えたあと ひとりはじつは主戦論をとなえ たたかい諏訪にまで逃げてそこで滅ぼされました。
 もうひとりは 腕相撲をしたとも ゆづったとも書いてあります。

 《侵略によって奪い取られた》と言えないこともないかも知れません。ぎゃくに その場合でも奪い取った側のほうが それはもともと我が領土であったと言いたいし 言っているのだと見られます。 
 ただし《国ゆづり》とは はっきりと書いてあります。


 そうして豊葦原の瑞穂のくに(スサノヲの国)にやってきた《皇御孫(すめみま=天孫)のミコト》は じつは アマテラスとスサノヲとのあいだの子の子どもであったらしい。ホノ二ニギのミコト。