caguirofie

哲学いろいろ

#30

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第四章 ゑけ あがる三日月や

第一のおもろ 国家形態の終焉

わたしたちは――マルクスにならって―― 神秘の世界にのがれなければならない。
原日本人が第三のスサノヲを受け容れるにあたって たしかに《あかぐちや‐おぼつ》連関を構造とする国家構想を描いたとき そのように表象し認識するような霊的なセヂ連関を人びとは すでに持っていた。おそらく そのまま その中の《おぼつ》要因を しようと思えばアマテラス語化させえたゆえ これを タカマノハラなる天上の国として描きなおし 新たなオモロとしたのであろう。実際 そのような事態が起こり あかぐちや市民生活圏ヤシロの上方に その高天原なるスーパーヤシロ圏をこしらえ アマテラス者公民というような・もっぱらのその国の住民も つどうところと あいなった。

  • ミマキイリヒコなるアマテラスは なにかちょっとした台の上に上がった市長だったかも知れない。もっぱらのアマテラスは――これは 応神ホムダワケから始まると見ているのだが―― ヤシロが 二階建てになることと共にであった。二つの階は 分離して連関し始める。あるいはさらに 第二階が単独分立したという見方である。

この常識たる共同主観がすでに成っていたとの仮説を 論証するためには 論理的な証明のし難い信仰の世界にのがれなければならないかも知れない。論証するために 論証のし難い観想の世界にのがれるのである。

わたしたちは 第二章第二歌で 柿本人麻呂のうたを万葉集から引いた。

大君は神にし坐せば 天雲の雷の上に廬らせるかも
(皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨)
〔または〕
王は神にし坐せば 雲隠る雷山に宮敷きいます
(王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座)
万葉集 巻三・235番)

これは 比喩ではなく 信仰の――すなわち 霊的な共同主観の――直接の・つまり信仰をそのまま対象化するときの一つのオモロである。目に見える人・もの・ことは そのセヂ連関の仮象である。(その意味で 比喩だと言って言えないものではない。)歌われたそのものが たとえば 神であるということにはならない。代理表現だと考えられるのである。原形の共同主観としてのオモロは 神がどこにあるか どこにはいないか なにであって なにでないか はっきりしていると思われるのである。第二階のアマテラス圏よりさらに上の雲の上だというのであれば いささか皮肉が入ってさえいるかも知れない。その証拠に 《鴨》という疑問形で表現している。
もとより 人麻呂の時代には 形態的な国家がすでに現われており 形態的なアマテラス/アマテラシテ(つまりこの場合 ヤシロにおけるそのような役割とその人格的な存在)が 目の前に そして セヂ連関のなかに 存在している。しかしながら この《現人神》は 霊的な共同主観として 人びとの霊的なセヂ連関として そしてそのいくらか具体化させた表象としてのカシハラ・デモクラシにおいて つまりそのようなオモロ構造の中から 現われたと言っている。
現人神が このオモロを唱えたわけではない。その逆である。現人神と看做されて そのまま人びとのオモロのままに アマテラシテなる存在であり続けたのなら その代理表現――つまり 明つ神ともよばれる神人――は 歴史を超えて現実となっていたかも知れない。南北朝の分裂に見たごとく たしかに 代理表現であり 人びとのオモロ原形の仮象としての姿であったことよと いまでは みな誰もがわかっている。
《雲隠る雷山に宮敷きいます》というのは 宮敷きと言っているのであるから その点では 具象形態的で現実である。ゆえにその《王》は 一方の《天雲の雷の上にいほらせる》ところの《皇》からの者だということになるのであろう。読みは どちらも おほきみである。イホ・イホリ(廬)も イへ(家)とあまり変わらないはずだが イホらせるほうは より幻想的である。

  • 宮は 御屋で 屋が家と同じように具象的なものだと捉えてよいはずだ。

幻想的というのは むしろ正当にもそうである部分があって それは 《宮敷きいます》ことが やしろセヂ連関の おおきくはたとえば秩序といったことの 仮象であるということを示すことができている。要するに 《水平的な赤口や(S)‐垂直的なおぼつ(A)》なる連関構造において おぼつ(天)が いま見たような広がりをもって 表象されているのである。天雲の雷の上にまで その想像力は逞しく羽ばたいた。
そして すべては 仮象である。と人びとは 心得ている。原始心性において 自覚がなかったとしても その原始心性じたいの中に そのことは はじめから納まっている。心配することはない。
ヤ(屋)は アマテラス語において ミ(御。また霊のことでもある)をかぶって ミヤつまり宮となり さらに コ(処)を加えて ミヤコ(都)として発展していった。家も クニのイへ(国家)へ ヤシロも クニのヤシロへ まつり(祀・祭)も マツリゴト(政治)へ飛躍した。スーパーヤシロとわれわれは名づけた。
タカマノハラは このようなオモロ構造として捉えられる。すべては はじめのオモロ原形 そして いくらか具体的に表現されたカシハラ・デモクラシ この共同主観のなかに捉えられる。
ならば 《第三転》=中世封建市民の時代に 南朝北朝とに分立したというのも このイホの中での出来事だったのであり あるいは逆に 形態的なイへ全体の中での出来事だったのであり 全体として《あかぐちや‐おぼつ》連関構造は 依然として 生活と共同自治の歴史的かつヤシロ的な基盤である。言いかえると 《天(おぼつ・A)と人の心(あかぐちや・S)と祖宗の意(つまり 前二者A-Sの連関する構造オモロの象徴形式の名称としてのカシハラ・デモクラシ)とに帰するところ》という推移によって 影響を受け決定せられたのであると。
ならば 現代において――《第五転》以後―― アマテラシテとアマテラスとが 主権の存する市民スサノヲの総意にもとづいて存立するというのは オモロとして この歴史の上に立って うなづくのに難儀は要らない。
ならば 歴史の ヤシロロジとしての大前提に立って 抽象的だが目に見えないセヂ連関の原理として 表現じょう ここにはたらくと考えられるヤシロ資本推進力を想定し これのもとに カシハラ・デモクラシを 歴史的に存在する人間の行為事実であるとして 問い求めることも 道理にかなっている。

  • もっとも いまは 神秘の世界にのがれると前提した上で述べている。ただ このままであるかどうかを別として このような迂回作業も 有効であろうと考える。

玉襷(たまだすき) 畝火(うねび)の山の
橿原の 日知(ひじり)の御代(みよ)ゆ〔あるいは 宮ゆ〕
生(あ)れましし 神のことごと
樛(つが)の木の いやつぎつぎに
天の下 知らしめししを〔あるいは めしける〕
・・・
玉手次 畝火之山乃
橿原乃 日知之御世従〔自宮〕
阿礼座 神之尽
樛木乃 弥継嗣尓
天下 所知食之乎〔食来〕
柿本人麻呂 万葉集 巻一・29)
(美しい襷をかける畝傍の山麓 カシハラの地に都した天皇の御代からずっと〔宮から〕お生まれになりつづけた現人神のすべてが 樛の木のように次々と天下を統治なさったのだが〔統治なさったという〕・・・中西進訳)

と同じ人麻呂が まったく形態的な国家・カシハラ政権を言ってうたっているので はじめの歴史的な(《日知りの》=時間的に生起した)共同主観というものは 成り立たないであろうか。


この点にかんしては うた自体においては このあと後半で そのヤマトの地を離れて天智天皇が近江に朝廷を遷したのは どういうことだったのであろう等と述べているので 都としての形態的な場所を言わなければならなかったと推測して われわれの仮説の一貫性を保持しようとすれば出来ないことはないが ここでは そうではなく この時代には カシハラ・デモクラシは はじめから 形態的な国家と政権が存在したのだと考えられる。
この通念は原理的な観想(235番歌への)と相い容れないが 原理的な観想をうたったと見られる235番のうた全体は 解釈によってこの通念と矛盾しない。つまり 原理的な観想は 見えないセヂ連関をとらえて その認識のオモロ全体が 言わば観念的な・あるいは霊的な容器となりうる。
また わたしたちは カシハラなる一個のヤシロが つまりカヅラキの按司の統治する一つの国が 存在しなかったとは見ない。ただ それは 第三のスサノヲがやって来る前 またミマキイリヒコのヤシロ共同主観が成立する前であって ヒミコのヤマト連合派と対立抗争を繰り広げていたカヅラキ独立派ではなかったかと考えた。国家形態の確立したあとにも それ以前の按司時代のことばである《カバネ》が 存続して用いられたように ミマキイリヒコの共同主観に それ以前の《カシハラ》が そのデモクラシを捉える名称として用いられたことは 充分に考えられる。
国家形態の成立のずいぶんあとに カグラ歌で 《マキムク(巻向)のアナシ(穴師・痛足)の山の山人と 人も知るべく 山葛せよ》が 採用されており これは 用語としては ミワ(三輪)のミマキイリヒコ共同主観の出発のオモロにかかわらせて うたったものであると考えられるというふうにである。


けれども これらすべてにもかかわらず 《〔カシハラの日知りの御代より]生(あ)れましし》という表現に注目しなければならない。《生れ〔い〕ました》というのであるから 第三のスサノヲの渡来のときから――または この渡来の時点をさかのぼらせて―― 形態的な国家による共同自治様式において そのようなタカマノハラ政権が 継承されていると考えるべきであるだろうか。これは 言うまでもなく 歴史学的に一般に否定されており このような古い系譜の一貫性は唱えられないし 唱えられ得ない。
《生れいました》のは やはり 第三のスサノヲを受け容れ 原日本人が日本人となってのその新しいオモロ構造のことではないであろうか。このタカマノハラ思想を容れたオモロ構造が 時にその当時の通念に立って それ以前のミマキイリヒコの共同主観あるいは独立派カヅラキの一政権にまでさかのぼらせたのではないであろうか。言いかえると このヤシロ資本の共同主観 ミマキイリヒコのカシハラ・デモクラシを 人びとは保守してきたのではないか。
《います》というのは 《あり・居り・行く・来》の尊敬語で 《いまし》は名詞として《汝》の意に用いられたと言う。

  • 以下 これまでと同じように 言葉にかんする見解は 大野晋の説に従う。

《生(あ)れ》は 《あ(在・有)り》と同じく 朝鮮語 al (卵の意)と関係があろうかと言われ そうだとしたら 明らかに第三のスサノヲの言葉の上での受け容れである。

  • 朝鮮語の名詞で日本語に入って動詞として使われている例は次のごとく。
朝鮮語 日本語
ip:口 ipu:言ふ
kho:鼻 kagu:嗅ぐ
kui:耳 kiku:聞く
son:手 toru:取る
pal:足 pasu:馳す

少なくとも 第二のスサノヲとしての韓人(それは 第三のスサノヲの扶余人と同系)の受け容れであると思われるが 《神や人が形をなして〔忽然と〕出現して 存在する》ことを 《生(あ)れ》が意味するとするなら 第三のスサノヲの出現が もし《国譲り》によって裏付けられるとする限りで 国譲りの以前にこの《カシハラ・デモクラシ》は生れいましたと考えざるを得ない。すでにそのようなオモロの根回しが 原日本人のあいだで 形成されていたであろうとこそ言わなければならない。
いまは なお あらためて歴史的な出発の大前提としたミマキイリヒコの共同主観について検討しているのだが この《生れましし》を人麻呂は(もしくは 万葉集の編集者は) 《阿礼座師》と表記している。このことは 微妙である。何の意味も持たないかも知れないし また 持つとするなら 《礼》が――人びとのセヂ連関の一つの形式でそれは エートスになっているものだが――むろん 原日本人のあいだにも オモロのかたちで発生し育まれていたであろうし また 新しくやって来た倭人や韓人の固有の《礼》に対して《師》と看做して受け容れ なおかつ《おもねる(阿)》と言ったのは 第三のスサノヲが そこへ新たな征服者としてやって来たからであるだろうか。
言いかえると 長い時間の経過の中で ともあれ征服が成就し 昔からのカシハラ・デモクラシの歴史的な継承を見るときには この征服者の《礼》に おもねるという契機をも持たねばならなかったというのであるだろうか。
いまは 人麻呂のオモロを論拠にしたので かれのオモロの一貫性について 論議しているのである。また これについては 神秘の世界にのがれてとその前提をことわった上でのことである。もう少し別に言いかえると わたしはここで 騎馬民族説を それが歴史のすべてだとしない前提で 必ずしも排除することは出来ない一つのオモロ展開を提示しているのだと またこのことは なお省みられるべきではないかと考えている。その思わくがあってのことでもある。
もっとも 古事記の著者(編集者)が 太安万呂とともに 《稗田阿礼(ひえだあれ)》だと伝えられるように またこの阿礼が 一部言われているようにフヂハラ不比等ではないか あるいは 不比等に比べられるような人物ではないか(さらにあるいは 原著者が ちなみに人麻呂で 不比等があとで手を加えたのではないか等々)といった憶測をいま活かして言うとするなら この阿礼が 忽然とイナカ(稗田)から出現したというような類型において 形態的な国家形成者ないし権力奪取者として 《阿礼座師(あれまし)》たという・この第二転の第二派生段階を措定するほうへ傾く。その措定を いま排除しないという見解を棄て難く思っている。

  • 憶測による空想的な議論だが このような可能性にまだ未練を残している。

だが この議論には 読者もうんざりされたかも知れないように ことの真実やあらゆる可能性にかかわらず おそらく カシハラ・デモクラシなる原共同主観の想定に 大きな影響はないでろう。たとえ《阿(おもね)》らなければならない経過があったとしてもである。そのような微視的な事情経過にかかわらず 大勢に影響はないであろう。
言いかえると われわれは ミマキイリヒコの原共同主観の想定をつづいて保持するのだが もう少し実際上の具体的な場面に即して見ると 《おもねる》という言葉は悪いが カシハラ・デモクラシの中で タカマノハラ圏の単独分立の動きに際して・あるいは 単独分立したA圏とセヂ連関を結ぶに際して 節を屈するようなオモロ形成の場面もあったかも知れないということである。これが もしオモロにも歌われているとするなら それは オモロ展開の基本には影響しない。言いかえると 忽然と生れました新しい人びとの礼に《阿》の立ち場を取らなければならないというのは すでにオボツカグラを 中性的なタカマノハラ概念に措定した当の人びとが その立ち場を取らせざるをえないような《礼》を持ったとしか考えられない。なぜなら この征服者は 一挙にではなく 長い時間をかけて すでに同化していたのだから。また このゆえに あの第三転の時代に 《賊臣》とも呼ばれるようになった足利尊氏が出現しなければならなかったもののようだと考えるのである。

  • どっちもどっちというような振る舞いと情況があったのではないかという話である。

ことは微妙だが 大勢に影響はないであろう。また 大勢に影響はないが ことは微妙で オモロ構造の歴史的な展開は これまで述べてきた巨視的な視点による認識に帰せてしまってはならないという具体的な観点を用意させるものであるかも知れない。
だが ここで言えることは ことがこうであるとき――こうだとする限りで―― それはなお より一層あきらかに はじめの大前提たるミマキイリヒコ共同主観の存在を証しすることになるはずである。ミマキイリヒコとは 騎馬民族説では まず最初に北九州に上陸しそこに第一次の建国をした第三のスサノヲの統領であると考えられているのだが ことは逆に すでに原日本人の系譜からそのような新しいオモロを持ったヤシロ資本主体の像を 別の道をとおって想定しなければならなくなるであろう。第三のスサノヲで扶余系騎馬民族のミマキイリヒコと ミワのミマキイリヒコとの二人を想定することになる。
もちろん問題は いまは 第三のスサノヲを原日本人がいかに受け容れたかにある。オモロ共同主観の形成・再形成の問題としてよいはずである。別に言うと いまでは 日本人のあいだに 第二・第三のスサノヲといった人びとの出自が 大きくはすでに あいまいであって あいまいであって問題はないであろうから 現在 さらに第四・第五のスサノヲ(つまり ヨーロッパ等)を迎えるとするなら そのオモロ構造をどう形成するかにある。

  • 人間じたい あるいは その征服ということ自体 これらによりは 焦点は そのときもたらされる新しいオモロと それを受け容れつつ 自らも再形成する新たなオモロ こちらにある。

わたしたちは確かに エスタブリッシュメントとか ネーションとか レフォーメーションとかの語をすでに受け容れている。これらの語は――少なくとも語ないしその概念は―― この《生れましし》の問題に深くかかわっている。
エスタブリッシュメントも レヴォリューションも カシハラ・デモクラシなるヤシロ資本連関のその動態にかかわって 受け止められ 共同主観されて行かなくてはならない。それらは 平面的にオモワレていくのであってはならない。たとえば スーパーヤシロであるアマテラス圏に対する抵抗であるとか またはそれの保守であるとかとしてではなく いまある国家 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》連関の全体にかんして そのオモロ構造の中に共同主観されて行くことでなければならない。
人麻呂は ともかく第二転の第二段階にあって 国家形態の樹立されて以後 前向きにすすんでのように その発展を見守った。(最後までは この政権に対しては ついて行けなかったことは ここでは触れない。)現在 第五転以後 むしろ国家はそのあらゆる発展形態をすでに取り終えてのように 終息の段階を迎えていると思う。形態としての国家がそうであるなら 構想としての国家オモロが あらためてオモワレ吟味されなければならない。原理(はじめ)の共同主観としてのカシハラ・デモクラシは 充分にその考察に耐えうるし その一つの基準であると考えたのである。
なお 《生(あ)れ・あり》は 《あら(現・顕・露・著)はる/あらはす》と同系だと考えられ またほかならぬ《現人神》の現と同じだと捉えられる。この歴史に対するあらゆる解釈の可能性を端折って 現在の天皇が 現人神ではないかと言われたばあいには ヤシロ諸連関の全体を共同主観して 動態的な内容をもったオモロとして行かなければならないのではないか。たとえば――なぜなら ここに仮説したかぎりでは はじめのカシハラ・デモクラシでは 国家形態は仮りのものであったから―― 《国家のため》ではなく 《やしろ資本諸連関のはじめの原理を継ぐため》という観点が――具体的な場面にもかんれんして――現われると思うのである。これは 第二転ののち 第三転・第四転を経て ふたたび あらためて 現われるのだと思う。

  • たとえば 現人神の問題を 人びとは 自らのオモロ共同主観の中に どのように捉えて いわば消化して位置づけるか。もう過去のことかも知れないと同時に 一度しっかりとした認識をかたちづくっておくことが大事なのではないだろうか。次のような思想(オモロ)につながる文章を読んで どう考えるであろうか。

東条〔英機〕さんは常にわれわれに対して言っていた。

お上は神格であらせられる。われわれ臣下はどんなに偉くなっても人格以上には出られないものである。首相だからといっても少しも偉くないのである。後(うしろ)にお上がおわしまし その御光りを受けてはじめて国民たちに対せるものである。
元来政治を行なうにあたり民心を把握し これを結集してその方向を与えることが大事であると聞いているが 日本の政治はこれだけでは足らぬ。すなわち国民はひとしくお上の赤子であるのだから お上の御心持をすみずみまで伝えると同時に 赤子である国民の心を纏めてお上に帰一させることが大事である。首相等の大事な責務もここに在るのである。

(赤松貞雄:東条秘書官機密日誌 p.33)

わたしの考えでは 内部で快活なけんかをもしつつ カシハラ・デモクラシなる共同主観オモロのもとに――そもそも このオモロが動態であり解決過程ということであるのだから―― スサノヲ市民が その生活と共同自治においてまとまる そしてその基盤に立って アマテラス首相を主導していく そしてさらにこのデモクラシ内容を アマテラシテ象徴に受け止めていただく これなら 神国を自称してもバチは当たらないかと思う。 
(つづく→2006-10-18 - caguirofie061018)