caguirofie

哲学いろいろ

#15

――やしろ資本のおもろ――
もくじ→2006-09-17 - caguirofie060917

第二章 勝利のうた

第六歌 《韓招ぎせむや》――《ノン》

韓(から)招(を)ぎせむや――これに対して 否と答える歌。

我妹子(わぎもこ)が 穴師の山の 山人と
人も知るべく 山葛せよ 山葛せよ


深山(みやま)に 霰(あられ)散(ふ)るらし
外山(とやま)なる 真析(まさき)の葛(かづら) 
色づきにけり 色づきにけり
(神楽(かぐら)歌――小西甚一校注:《古代歌謡集》)

というように 日本のカグラに対するオモイは きわめて人間的である。見えないセヂ連関を 具象的にうたっている。
はじめのウタは 《自分は ヤマトの巻向山の人間だと はっきり その所属を示していよ》と言う。具体的にそのしるしに 山葛をつけなさい(たとえば 頭に紐状のものを巻きつけたり垂らしたりして)と セヂ連関の中でもそのやしろ的行為(もしくは 自分の存在)を 外見的なしるしで示せと言う。
二番目のウタが これに呼応して 外ではあられが降っていて寒い しかし わたしたち巻向派の内では 暖かいと言って セヂ連関の色分けのような行為を 正当化している。もしくは その理由を明らかにしている。じっさい このあとのウタは 夕方から催す神楽で 照明のため 焚き火をするというときの《庭燎(にはび)》に採り入れられ 頭につけた葛が 色づいてくると言うのである。むろん 焚き火は 照明のためだけではなく 火が けがれを浄化するはたらきがあると信じられたところから 聖火として神楽の中心におかれ いわば火の神の信仰が そのような形で 採り入れられている。
つまり 火の神の信仰――精確には せぢ信仰――が あかぐちやぜるままがなし(つまり かまど)としてではなく 儀式としての火において そのオモイの表現の具体性とは逆に 抽象的に仮象化されたことを われわれは見出す。
ここに おぼつセヂ・神てだの思想がないのではなく カグラ(神座)と言うごとく――カミクラとは 神降ろしをする所・おぼつセヂが依りつく所(それはまた 儀式に使われる榊・篠・杖・弓・葛などである)―― 日の神信仰は現われているし それだけではなく おぼつかぐら派なのだと言ってのように 現わす。そのために しるしとして 山葛をつけるのであり また この派こそが その外の派とはちがって 内々で暖かいセヂ関係が結べるのだと主張している。義理もあるし 人情に厚いという。
こう歌うと 阿知女(あちめ――アマノウヅメの転か)が 次のように呼応するのである。本方(もとかた)と末方(すゑかた)に分かれて

〔本方〕:あちめ おおおお 〔末方〕:おけ
〔末方〕:あちめ おおおお 〔本方〕:おけ
〔本方〕〔末方ともども〕:おおお 〔末方〕:おけ
(神楽歌:前掲書)

この掛け声の唱和は 《これらの語を発声することにより 神の降臨をよろこび 庭燎のあたりに神聖な気をひろがらせるのが目的らしい》(小西甚一 前掲書・頭註)。
《おけ》は 《天岩戸の神話で みなが 〈あはれ あなおもしろ あなたのし あなさやけ おけ〉と唱和したとある(古語拾遺)。その〈おけ〉と同じか》(小西)という見方が考えられ おそらく オモロさうしの《ゑけ》と発するスサノヲ語の踏襲であろうと思われる。
ゑけの《踏襲》だとするその理由は オモロのゑけが 同じく儀式化しているものだとしても スサノヲ語共同主観を保ってのごとく 抽象的な表現となりアマテラス語化したものであろうと思われるのに対して この神楽歌では 共同主観を色分けして二分し 我が田に水を引こうとするオモイに照応して発するからである。
《あがる三日月や / あがる辺のみづかわ》を捉えて ゑけと発する―― 一種 原始心性ながらの――普遍性から この《我妹子が穴師の山の山人であるというしるしに 山葛する》そのときのセヂ関係の連帯性を願って おけと発する主観の共同性は すでにいちじるしく遠いからである。――それも きわめて人間的なのだが。
この場合は 新しいセヂ連関の動態は 図式的になっていいようにして これら二つの類型の共同主観性の綜合にあるであろう。ゑけ派とおけ派との綜合にあるであろう。なぜなら 共同主観が 人間的に 複数の派に分かれて 形成されないわけではないから。
しかし問題は あかぐちやぜるまま(ゑけ)派と おぼつかぐら(おけ)派との 共同の共同主観的連関にはない。また おけ派の主張するように 山葛するか・しないかで 内と外に分け 外山から内に入って葛をつけるなら その人も色づくであろうとする党利党略のオモロの力にもない。それは あらゆる人びとが おぼつかぐらの唯一のセヂのもとに連帯して色づくなら あかぐちやぜるまま(生活)も潤うであろうと言っている。

そうであるなら――もし このようであるなら―― 次に勝利のうたは たしかに人間的にまた具象的に 互いに利害関係を同じくするわけではないところの複数のハバツ間の セヂ関係動態 これは いかなるものであるか。それについてきみは どのような見方を用意しているか。ここに 焦点を移して論じなければならない。 
勝利のうたが先にあって 新しい動態が過程されるわけではなく 新しい過程が生起しつつ この動態をうたって 新しいオモイの中に確かなものとして推進していくわけであるから わたしたちは このオボツカグラ派のオモロに ただ沈黙しないで こたえてあげなければならない。これが この第六歌以降の課題である。


ところが わたしたちは あかぐちやぜるまま派を称したわけではない。女性を歴史の共同相続人から排除しないと言ったのである。聞こえ大君であろうと きみ‐のろ‐かみの頂点に位する(時に仮象アマテラス語のごとき)セヂ連関主体であろうと 火の神・水の神・日の神など あかぐちやぜるままに仕え その観念の資本の母斑としての天頂なるオボツカグラのセヂを排除するのではなく スデ水によるウビナデの思想も その母斑的なあり方を読み替えつつ それらすべて女性的なものとしてのセヂ推進力であろうから そしてその女性を やしろ資本形成の諸連関から排除しないと言ったのだ。排除しないかたちで――だから《選ぶ》のだが―― 動態を見守る・推進してゆく。
ところが ここへ たとえば上に見た神楽歌のように オボツ思想派は 男が 女性なる聞こえ大君のセヂ過程を 儀式的にも人格的にも 採りこんでしまった。オモロのおそらく男のであろう《ゑけ》を 女である阿知女の《おけ》に取り替えてしまった。
取り替えばやの物語であるが――またそれがそのように起こるのは 人びとのオモイが 構造的に 純粋な・また一個完結した観念の資本制類型である聞こえ大君のオモロ連関体にまで ヒミコのオモロ世界では 達しなかったからだが つまり逆に言うと オボツカグラ派は そのような天頂にまでの広がりを 人びとにむしろ促している役割を演じているのだと考えなければならないが―― この取り替えばやの思想は 神楽歌の中に十全に取り入れられているのである。つまり 庭火の祭りに採り物(司祭の持つ物)には 全部で十あり それらは 榊・幣(みてぐら)・杖・篠(ささ)・弓・剣・鉾・杓(ひさご)・葛と来て 最後は 物ではなく 韓神(からかみ)がとりあげられており この第十の採り物の神楽で ヒミコの末裔の人びとは 非オボツカグラ派のオモイを摂り込み 採りこむと同時に 取り替えようとも言うのである。韓神は 朝鮮から渡って来た人びとのオモロのセヂを言うのであろうが 一般的に《外山なるよそ物》 非オボツカグラ派だと言ってよいであろう。

韓神


本(もと)
三島木綿(ゆふ) 肩に取り掛け われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎせむや
末(すゑ)
八葉盤(やひらで)を 手に取り持ちて われ韓神の 韓招ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎせむや


〔本と末のそれぞれのうたに 次の阿知女のわざが入る〕
〔本方〕:おけ あちめ おおおお
〔末方〕:おけ


〔大宣(おほむべ)〕

若き我は 雅びも知らず 父が方 母が方とも 神ぞ知るらむ



皆人の 幣(しで)は栄ゆる 大直毘(おほなほみ) いざ我がともに 神の坂まで
(小西・前掲書)

《深山に霰ふるらし》いから その外山にいないで こちらに来なさい われわれの暖かいセヂ連関で包んであげよう(韓神の本と末)と言うのである。そこでは オモロ構造を 聞こえ大君の純粋類型のように構築し得なかったから――ヒミコのオモロは 流動的であったから―― 自分たちとは異なるオモロ(韓神・非オボツカグラ)が来ると 不安である。不安を取り押さえて おごそかに また 卑猥に(なぜなら この儀式には 余興があって いわゆるシモネタで 主観を共同化させようとする) この取り替えばやの儀式を執り行なう。よそ者・非オボツカグラ派に 大宣の本と末とをうたわせる(あるいは うたってあげる)。
若き我れは 雅び こんなあったかいセヂの歓迎を受けて 父母のくにでは ついぞ知りませんでした。この大直み神のセヂこそが 人間性のゆたかに栄える基だと知りました。大直みの神は かのイザナキのミコトが 黄泉の国で受けた穢れを祓ったときに生まれたと聞きましたが このカグラの儀式で わたしは 雅びを知らない穢れを落としてもらってのように 神の坂までも ついてまいりましょう。おけ おおおお。
かくて人は 奴隷の自由を獲得する。なぜなら 山葛をつけるか・つけないかが(あたかも 踏み絵を踏むか踏まないかが) 共同主観 セヂ関係 生活(あかぐちやぜるまま)を分けるからである。
《ゑけ あがる辺のみづかわ / ゑけ 咲い渡るの桜・・・》と言ってはならないのである。おそらく おぼつかぐら派は このスサノヲ語のオモロをも取り込むことに成功したならば――韓招ぎしてそうしたならば―― われわれのオボツカグラこそが この《あがる辺のみづかわ》なるひかりであり この光のもとでは 《桜は 咲いたら いさぎよく散るであろう》 《いざ我がともに 神の坂まで》《撃ちてし止まむ》となりえた。《あかぐちやが依い憑き ぜるままが依い憑き / おぼつてて 想ぜて かぐらてて 想ぜて》(巻三・94) 多少の犠牲(英霊なるセヂ。キャピタリスムの下でも女性の犠牲)があろうとも やしろは永遠に発展してゆくのだよ。
これは 聞こえ大君のしょーもない男性版である。
なぜ 取替えばやが起こるのか。
それは かつてわれわれが あの弱い者のためいきをついたとき オボツカグラ・二ライカナイの幻想のセヂに逃がれたからである。天女のオモイをうたい そらぞらしいスデ水で 幻影的なウビナデを執り行なったから である。カグラ派は このことを知っていて これに付け入る。弱い者のためいきをつき その弱さをむしろ誇りとするスサノヲ語派( Susanowoists )は 《いざ我がともに 神の坂まで》と言わざるを得なかった。けれども あのとき 英霊の死とともに わたしたちも 自己の内なるセヂにおいて ウビナデを受け 生まれ変わったのではないだろうか。
《韓神の 韓招ぎせむや》と宣立(のだ)てて われわれの弱さに付け入るカグラ派に われわれは 断乎として ちいさくしづかに ノンと言うことができる。なぜなら女性を わたしたちは歴史の共同相続人から排除しないから。これが わたしたちの共同主観であり 勝利のおもろである。
(つづく→2006-10-03 - caguirofie061003)